七説 若き骸の下(壱)
場所はゴルゴダ酒場宿前、王都で最も騒がしい交差点。
ここでも夜明けの直前、ほんの半刻ていどの時間帯は交通が途切れる。グェンの亡骸が街路灯から吊るされたのは、そのひとときだった。
ゴルゴダ酒場宿からエイダが箒を持って、セイジがフライパンを持って表へ飛び出した。
グェンの亡骸を運んできて街路灯へ吊るしたのは、老いた男が三人で、その三人ともボロ切れが歩いているような様子だったと、骨馬レィディは語った。
王都で吊るし首は珍しくはない。だがそれは特定の場所で行われる公開の処刑だ。街路灯から死体が吊るされることなどない。当然、物珍しさで道行くひとの足も止まる。朝陽が昇りきるとグェンの亡骸の下に近隣住民のひとだかりができた。若者の無残な亡骸を見つめる大人たちは一様に痛ましい表情を浮かべるか憤っていた。
若き骸の下に集まった近隣住民に交じったエイダは鬼面を上げて、グェンだった死体を凝視していた。横のセイジは視線を真下へ落としている。朝陽が作る街路灯の影と一緒にそこから吊るされた死体の影も落ちて、上向いても下向いてもグェンの死という現実が目に入る――。
そこへ、子供が二人、駆け込んできた。ゴルゴダ銭湯のボイラー室で寝入って、結局、朝まで寝ていたアリバとモグラである。
二人とも煤で顔が真っ黒だった。
「グェンの兄貴――」
「グェン――」
そして、アリバとモグラは同時に呻いた。モグラは手に食べ物の大皿を持っていた。チーズやらハムやらウズラのグリルやらと昨夜のご馳走が残る大皿だった。
昨晩、グェンはボイラー室で疲れて寝ていたアリバとモグラを起こさなかった。
「アンタら――」
「坊主たち――」
エイダとセイジの言葉は、それ以上続かなかった。
「マ、マコト兄貴をすぐに呼ばなきゃ――」
アリバの頬についた煤は、涙が流れた跡だけ落ちていた。アリバは泣いていたのだが、うつむくことをしない。グェンの亡骸を睨んで泣きながら顔を上げていた。そのグェンを真似て額に色違いのバンダナを巻いたアリバは天を仰いでいる。
「アリバ、オイラはマコトの家に走るよう。アリバは『管理室』を見てきてくれよう」
うつむいたモグラが鼻声で、だが、底冷えした声でいった。
直後、モグラは手に持っていた大皿を放り捨てて南へ走った。
一晩明けて干からびたご馳走が路上へ散らばる。
腕で乱暴に目元を拭ったアリバは、ペクトクラシュ南大橋の方面――ゴルゴダ・ギャングスタのアジト出入り口のあるほうへ走っていった。グェンの亡骸の下で戸惑う大人たちよりもアリバやモグラの行動が早い。ゴルゴダで生きる孤児たちはここ数ヶ月の間、他グループとの小競り合いが続く戦時下にあった。
一目散に走る彼らの覚悟はもうできている。
ツクシが魔刀を片手にグェンの亡骸の下に歩み寄ってきた。
これ以上はない。
極限まで不機嫌な顔だ。
「ツクシ――」
「ツクシさん――」
エイダとセイジが何かいおうとして何もいえずに沈黙した。
ゴルゴダ酒場宿から遅れて出てきたミュカレが、
「うそ! やだ、グェン、グェン!」
そして、やはり周囲と同様、ミュカレも言葉を失った。
鶴のように痩せた老人が、
「これは
この鶴のような老人はミルクが入った金属瓶を満載したリヤカーを引く手を止めて、グェンの亡骸を眺めている。鶴老人はゴルゴダ酒場宿にもミルクを納入しているので、グェンやグェンの仲間たちと面識があった。
「あっ、あんまりだよ!」
よく肥えた肉屋の女将さんが吼えた。
「ああ、あんまりだよ、こんな、惨い――」
背の高い花屋の女将さんが呻いた。この二人の女将さんはゴルゴダ酒場宿の裏手で商売をしているからグェンをよく知っていた。
「とにかく、グェンをあそこから降ろしてやろうや、見るに忍びねえよ!」
桶屋の背が低いハゲ親父が唸った。
ゴルゴダ銭湯へ毎夜通っているこの彼は棺桶職人でもある――。
「おっ、俺にまかせろ、登って縄を切ってくる――」
そういったのはゴルゴダ酒場宿の裏手にある雑貨屋主人のチョビ髭親父だ。
「あんた、そんなことをしたら、グェンの――グェンが落ちて傷つくでしょう!」
雑貨屋の奥さんが慌て者の夫を怒鳴って止めた。
「あっ、ああ、そっ、そうだなそうだな。おっし、うちからすぐ梯子を――」
チョビ髭の雑貨店主人が何度も頷いた。ゴルゴダ酒場宿の裏手にある雑貨屋は、グェンもよく利用していたので、そこの主人も女将さんも、無残に殺されたグェンへの哀れみが濃い。この夫婦は子宝に恵まれないこともあって、ゴルゴダ酒場宿に勤める少年少女たちを贔屓にしていた。
顔を紅潮させたチョビ髭主人が振り返ると、
「おっと、旦那方、ちょいと失礼、失礼――」
小さなひと影が一匹、ひと混みを掻き分けて前へ進み出た。
ラウである。
ラウはグェンの亡骸を見つめながら、白いシャツの長袖をグイグイ捲った。シャツの袖から覗く身長のわりに長い腕は、質の高い筋肉の鎧で覆われている。ラウは街路灯に器用に登ると、吊るされたグェンを抱き寄せるようにして支えた。そして、尻のポケット取り出した折りたたみナイフで縄を切った。ラウは戻ってきた路面へグェンを寝かせて、片膝をついた。路面に寝かされたグェンの死に顔は綺麗だった。グェンの目の玉も舌も飛び出していないし顔も膨れていない。グェンのズボンを見ると(外から見えるほどの)失禁もなかった。
「ラウさん、死因は心臓を一突きか?」
ツクシが低い声で訊いた。
グェンの胸に短刀が深々と突き刺さっている。
明らかな致命傷――。
「――そうでさあ、ツクシの旦那。この様子だと生きているうちに吊るされたわけじゃありやせんね。しかし、よりによって、
ラウはグェンの顔へ右の手を置いた。
その角張った青い手が永遠に輝きを失った少年の瞳を閉じる。
「――そんな、グェン!」
ツクシの横に悠里が立っていた。
グェンの亡骸見つめて絶句する悠里の後ろからだ。
「生意気な子だったけど、死ぬのは早すぎる」
少女の声だ。
ツクシはその少女へ目を向けた。そこにいたのは、黒髪を長々と伸ばした、藤色のネグリジェ姿の女の子だった。身長は百四十センチ前後で、年齢は十四歳前後だろう。切り揃えた前髪で、ほどんど隠れている黒い眉。その下にある黒い瞳とそれを飾る長いまつげ。それに、薄桃色の小さな唇がついた華奢な美少女ではある。しかし、その美少女は何か、どこか不自然だった。正中線を引くと少女の顔の作りはまったくの左右対称。
まるで、そのネグリジェ姿の少女は精巧に造られた人形のような――。
「――あっ、アヤカ、お前まで起きてきたのか!」
悠里がネグリジェの少女――アヤカを凝視した。
怯えているような態度である。
アヤカは元より険のあった眉間をさらに刺々しくして、
「レィディに叩き起こされた。朝から凄い声で鳴くのだもの――」
「そっ、そうだ、アヤカ、お前の力でグェンを何とか――」
悠里の口振りは責任を追求しているような感じだった。
「それは無理」
アヤカが横目で悠里の顔をグサリと睨む。
「おっ、お前なら、何とかできる筈だ、何だってできる筈だろ!」
悠里が色をなして叫んだ。
「できたところでまるで無意味よ、悠里はそれをよく知っている筈だけど?」
冷たく応えたアヤカはグェンの死に顔をその瞳に映していた。遥か遠くにある深遠のような瞳だ。それは最初は黒だった。
その瞳の奥で七色の光がきらめいて、その色は極彩色へ変化をしてゆく――。
「何だ、アヤカ、その言い方は!」
顔を真っ赤にして悠里が怒鳴った。
「悠里、アヤカ嬢ちゃんに当たるな」
悠里を制したのはアルバトロスである。
「でも、おやっさん、グェンが!」
悠里が横にきたアルバトロスを睨むように見つめた。アルバトロスはグェンの亡骸を見つめていた。その右眼窩に埋め込まれたエメラルドグリーンの導式義眼からは何の感情も読み取れない。
子供が動きを止めたアルバトロスの脇を抜けてきた。
「あっ、いけない!」
エイダが叫んだ。
「あっ、ユキ――」
ミュカレが呻いた。
「ユキ――」
ツクシとその他の男たちは、一様に暗い声で呼びかけた。それ以上の言葉をかけることができない。ラウが視線を落としたまま立ち上がってユキへ場所を譲った。エイダが、怒りが半分、涙が半分の顔でラウの横顔を睨みつけた。ラウはグェンの亡骸の傍で両膝をついたユキの背を見つめていた。ツクシもミュカレも悠里もアルバトロスも、その他この場に佇む大人たちも、深遠の少女アヤカもユキの小さな背中を見つめていた。
ユキは震えながらグェンの亡骸に両手を置いて、
「グェン、グェン、目を開けて――」
息をひそめてユキを見守る大人たちの耳に、その小さな声ははっきりと聞こえた。
誰も声を出すものがいない。
だから、聞きたくなくてもそれは聞こえるのだ。
「うっ、うっ、嘘だよね、グェン。うっ、うっ、グェン、グェン、グェン!」
ユキはグェンの亡骸を揺さぶった。
グェンの名を呼ぶ声がどんどん大きくなった。
ユキの震えも大きくなった。
壊れたあやつり人形のような――。
「――あっ、あぐっ、ぐぁ、あぁあ、あうっ!」
ユキは呼吸に詰まって喘ぎながら、冷たくなったグェンを揺さぶり続けた。
「ユキ、落ち着いて、落ち着いて!」
ミュカレが後ろから飛びついてユキを抱いた。
ユキの震えは止まらない。
ユキはミュカレの腕の中で暴れだした。
ユキは、手を振り回し、足をつっぱり、身体を痙攣させて、暴れて、
「嘘! うそ、うそ! こんなの! い、や、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、あ!」
ユキが叫ぶ。
絶叫した。
ゴルゴダ酒場宿前の交差点に少女の嘆きが響き渡る。この場に沈黙して佇む大人たちの悲しみと怒りと涙を一手に引き受けたユキは、その呼吸も途切れ途切れに、ミュカレの腕のなかで泣いて喚いて暴れ狂った。そのうち、ユキの喉から壊れた横笛を鳴らすような音が漏れてきた。ユキの顔が青ざめたピンク色になる。それでも、声にならない声でユキは慟哭した。
ユキが背を反らして顔を上向けると、その唇の端からあぶくが――。
「ミュカレ、ユキを宿のなかへつれていきなっ!」
エイダが鬼の形相で命令した。
「ユキ、ユキ、落ち着いて呼吸して、暴れないで! ああ、だめ! セイジさん、手を貸して!」
ミュカレが泣き顔で助けを求めた。力のタガを外して暴れるユキはミュカレの自由にならない。歩み寄ったセイジが暴れるユキをむんずと捕まえた。
ミュカレとセイジがユキを力任せにゴルゴダ酒場宿へつれていったその直後だ。
「おい、グェン!」
マコトが周囲に群がる大人たちを突き飛ばしてグェンの亡骸の傍に立った。
硬く握ったその両拳が震えている。
そのマコトの後ろから、
「グェン、グェーン!」
中年の女が飛び出した。
「グェン! ああ、グェン! ああ、こんなことになるなんて、ああ、ああ、許しておくれ、私を許して、許して、許してくれよお――」
中年女はグェンの亡骸に顔をうずめた。グェンの肌色は褐色で中年女の方は白い肌だ。だが、慟哭する中年女の横顔や、その赤茶色の髪を見ると、グェンの面影が確かにある。
それに、グェンの死を悼む中年女はなまやかな悲しみ方ではない――。
「――グェンには母親がいたのか」
ツクシが訊いた。
「グェンは義理の親父――このお母さんの再婚相手と折り合いが悪くてね。その義理の親父ってのがさ、本当に悪い男なんだよ。そいつが、本当にロクでなしでねえ――」
エイダが声を絞り出した。
「それでグェンはヤサグレていたのか――」
ツクシが呟いた。
「ツクシ、わたしが悪いんだよ。それでも、グェンには帰る家があったんだからねえ。わたしの宿で使っていちゃあ、やっぱり、いけなかったよ――」
ツクシより頭一個分以上大きいエイダの巨体が振動している。
「――女将さん、それは考えすぎだぜ」
ツクシがいった。
だが、気休めだ――。
ツクシはそう思ってもいる。
「ツクシ、これは、あたしが悪いんだ――」
エイダは鬼が怒り狂う形相で子の亡骸にすがりついて泣く母親を凝視している。
「いや――」
ツクシが視線を落とした。
これ以上、気休めの台詞が思い浮かばない。
§
ゴルゴダ酒場宿の二階に続く階段上がり口に近い丸テーブル席は、アルバトロス曲馬団の指定席になっている。その丸テーブル席で、ロランドだとかフェデルマだとかフレイアだとかマリー嬢――アルバトロス曲馬団の面々が朝食をとっていた。アルバトロス曲馬団の馬の世話は死んだグェンの仕事だった。アルバトロス曲馬団の面々がグェンの死を悼む気持ちも強いものがあるのだろう。話を聞くとマリー嬢にはグェンと同じくらいの年齢の弟がいるそうで、それを溺愛しているらしい。マリーはグェンのことも可愛がっていたのだろうか。マリーが泣き腫らして目を真っ赤にしている。他の面々も一様に暗い表情だ。
ツンツンしているが案外と情深いお姉ちゃんなんだな――。
ツクシはマリーを眺めていた。アルバトロス曲馬団が陣取っている丸テーブル席とは、ちょうど反対側の壁際にある丸テーブル席にツクシは座っている。ツクシの手元にも、セイジが用意してくれた朝食――白い丸パンとベーコン・エッグとトマトのスープがあった。ツクシは朝食に手をつけていない。食欲がないのだ。ツクシはオレンジモドキ・ジュースのタンブラーへ口をつけて酸っぱい液体をひと口だけ飲んだ。
「あの老人たちが本当にグェンを殺した犯人だというのか?」
そう唸ったのは、ツクシの対面に座る導式鎧姿のリカルドだ。今朝、リカルドとニーナはいつも通りゴルゴダ酒場宿を訪れたのだが、この場所はグェンの死で大混乱していた。結局、ツクシたちはこの日のネスト・ポーター登記に遅れた。全員、ネストへ通う気にもなれなかった。そのまま、リカルドとニーナは留まって口数が極端に少なくなったツクシから話を聞いていた。
「ツクシが十三番区の警備隊へ連絡をしたの?」
ツクシの横に座るニーナがおずおずと訊いた。
「――警備隊へは、アルさんと悠里、それにエルフのカルロが掛け合ったらしい」
ツクシが間を置いて応えた。
言葉足らずのツクシへ、
「アルさん? アルバトロス曲馬団のアルバトロスさんが治安維持警備隊へ連絡をしたの?」
ニーナが訊き直した。
「――ああ」
憤りを噛み殺しながら喋るツクシは返答が遅い。グェンの亡骸は、グェンの母親が何としてでも引き取るといった。グェンの義理の父親は――大工をやっているという話だが、エイダにいわせると、飲んだくれの博打好きのロクでなしの義理の父親は義理の息子の死に顔を見にこなかった。そこでゴルゴダ酒場宿の近隣住民がリヤカーを出して、グェンの亡骸をゴルゴダ墓場へ運び入れた。
王都十三番区治安維持警備隊の手でグェン殺しの容疑者はすぐ逮捕された。ゴルゴダ酒場宿前の騒ぎに馬を使って駆けつけた警備兵が周囲から事情を徴収したあと、すぐ行動を起こしたのである。容疑者を捕縛した若い警備兵の話である。グェン殺しの容疑者は全員がペクトクラシュ河南大橋の下をネグラにしている、浮浪民(※大意で浮浪者)だとのこと。
ツクシも警備兵に引かれていくグェン殺しの下手人を見た。グェン殺しの容疑者は、無気力の重みで顔の皮が垂れ下がった、酒と垢の臭いが漂う、老いたひとが三人だった。
ゴルゴダ酒場宿の前に集まったものは、全員が釈然としない思いで、王都十三番区治安警備部隊の手て引き立てられるグェン殺しの容疑者三人を眺めていた――。
「――王都の警備隊などアテになるものか。あのくたびれた老人どもが、はしっこいグェンを? 何のためにだ? まったく腑に落ちぬわ!」
リカルドの顔が怒りで歪んだ。
「――そうよね」
ニーナが視線を下向けたまま父親に同意した。最近はこの父娘もゴルゴダ酒場宿をよく訪れているから、ここで働く元気な子供たちを良く知っている。父親は顔を赤らめて際限なく憤った様子であり、その娘のほうは青ざめていた。卓の上にある会話はすぐ途切れる。沈黙を狙ったようにミュカレが飲み物を持ってきた。リカルドとニーナには一杯分の赤いワイン。ツクシにはエールの入ったタンブラーだった。
ツクシはエールのタンブラーを睨んで、
「ミュカレ、ユキは大丈夫なのか?」
「ウィシュキを少し飲ませた。今はエイダが見てる」
ミュカレの声にいつもの浮遊感はない。
「子供に酒か?」
ツクシは吐き捨てるようにいった。
「他にどうしようもないもの! 今朝に限ってゴロウがここへ来ないし――」
ツクシを睨むミュカレの目元が赤い。
「ミュカレよ、ゴロウも今日は手一杯なのだ――」
リカルドが酒を口にしてもニーナは黙っている。
「昨日の晩、何かあったのか?」
ツクシは昨晩、ミシャという女に呼ばれたゴロウが、何か慌てた様子で酒場宿から出ていったのを思い出した。
「
ニーナが赤ワインの杯に口をつけた。
「行方不明――消えたのは娼婦か?」
ツクシはうつむいたまま眉根を寄せた。
「そうなのかな、ゴロウはそっちも顔役だから――」
ニーナはワインを一口だけ飲んで杯を置いた。
「――そうか、娼婦か」
ツクシが低い声でいった。
かつてネストで見た光景が浮かぶ。
折り重なる糜爛死体は娼婦らしき女のものが多かった――。
「――ん?」
ニーナが極端に不機嫌なツクシの顔を見つめた。
「王都で娼婦はよく消えるのか?」
ツクシがエールの杯を一気に呷った。
「――消える――そういわれると、ゴロウが最近そんなことをいってた。新聞でも十三番区と十二番区の行方不明者が異常に多くなったって書いてあったわ。でも失踪者なんて、王都で珍しくもないのよ。ひとが――人口が多すぎるの、この街って――」
ニーナは不機嫌を喉の奥へ流し込もうと試みるツクシをずっと見つめていた。
「――そうか。王都から娼婦が消えたか」
喉元につかえた憤りが腹に収まらない。
ツクシが空の杯を卓へ乱暴に叩きつけると、酒が満たされた新しい杯がその横に現れた。ツクシが顔を上げると、セイジがお盆を持って立っている。
「――セイジさん」
ツクシが目を見開いた。
「男の手ですいません」
セイジが空いた杯を手にとって軽く頭を下げた。
「いや、それはいいんだが――ミュカレはどうした?」
気まずくなったツクシが顔を歪めた。
「裏にいます。顔が真っ青です。立てなくなりました」
セイジが応えた。
「――そうか。セイジさん、気を使わないでくれよ。いいんだ」
ツクシがセイジを見つめた。黒々とした髭で顔の下半分が覆われたドワーフ族の、巌のごとき面構えだ。目尻や目の下に刻まれた深いシワを見ると、セイジの年齢は人間でいうところ、五十歳前後に見える。ただ、ドワーフ族は三百年近く生きるので、セイジの実年齢は百歳を超えているのだろう。
セイジが目だけ笑みの形にして、
「こういうときは、男がしっかりしなきゃあいけません。ツクシさん、そうでしょう?」
普段はひたすら寡黙に厨房で働くセイジの珍しい
ツクシは奥歯を噛んで視線を落とした。
何だ、俺独りで鼻息を荒くして情けねェな。
セイジさんたちは、俺よりもグェンとの付き合いがずっと長い。
それなのに、だ――。
ツクシは酒で流し込めなかった憤りを喉を鳴らして呑み込んで、
「ああ、それは違いない。モグラやアリバはどうしているんだ? マコトも見当たらないな? そっちも心配だぜ」
「――走り回っていますよ」
セイジがいった。
「セイジさん、あいつらは戦争をするつもりか?」
ツクシの眼光が鋭いものになった。グェン殺しの容疑者として三人の浮浪民が逮捕された。だが、しかし、グェンを殺したのはずっと敵対していた似たような年代の
ツクシはそう考えている。
この場にいるひとはみんなそう考えていた。
「ええ、小僧どもは道具とひとを集めているようですね」
セイジが頷いた。
「セイジさん、あいつらをどうにかして止められんか?」
ツクシがいった。
「止めたいですがね――」
セイジの顔はやはり巌のごとしであり感情が読み取り辛い。
だが、黒い髭面に刻まれたシワが明らかに深くなっている。
これは苦渋である。
「――止められんのか?」
ツクシはタンブラーに口をつけた。
エールの苦味が舌の上で広がる。
「ツクシさん、
セイジがいった。
そういったのだが。
巌の視線は真下へ落ちた。
セイジはうなだれていた。
「ドワーフの男よ、そこをどうにかならぬのか!」
瞳を燃やしたリカルドがセイジをまっすぐ睨んだ。
「お父様、そんなに怒ったら駄目――」
ニーナが気の抜けた声でいった。
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