五節 ゴルゴダ酒場宿の長い一日(伍)

 緑の妖精旅楽団の歌劇が終わると、酔客の歓声と野次で宿が揺れた。トンガリ帽子を袋代わりにした妖精たちが宙を飛び交う硬貨のおひねりをかき集める。歌劇に伴奏で参加シャルへ銀色やら金色やら高等な硬貨を手渡すものも多くいた。たくましい野郎どもに囲まれたシャルは嬉しそうに頬を赤くしていた。

「あれは男の子の筈だよな。どっちが、そういう趣味なのか――」

 シャルを眺めていたツクシの眉間へおひねりの流れ弾が直撃した。赤くなった眉間に手をやったツクシが柱時計へ目を向けると午後十一時の十分前だ。酒場の客がそろそろ引け始める頃合である。

 ツクシはカウンター・テーブルを枕に寝息を立てるフロゥラへ視線を戻した。

 この危険人物をこのまま寝かせておくわけにもいかない。

 かといって、女王様は自分の足で歩いて帰れそうにもない。

 さて、どうしたものかな――。

 眉根を寄せたツクシが最後の杯を口に寄せたところで、

「――ツクシ」

 後ろから男の声で呼ばれた。

「おう、ゴードンか」

 ツクシが振り返ると、先日に吸血鬼軍へ志願したゴードンがいた。王国陸軍服を捨てたゴードンは黒いフード付きマントですっぽり全身を覆っている。

「善い夜だな」

 ゴードンがフードを外して男臭い笑みを見せた。

 ツクシは椅子の背もたれに肘を預けて、

「ああ、女王様のお迎えかよ?」

「下僕の勤めだ。陽が落ちてから俺の他にも何人かで、この酒場宿を警護していた」

 ゴードンが後ろへ視線だけを送った。

 酒場の出入口には黒マントの男たちが控えている。

「なるほどな、今夜のゴルゴダ酒場宿は吸血鬼の下僕だらけだったってわけか――」

 ツクシが頷いて見せた。

「いや、吸血鬼ヴァンパイア吸血貴族ヴァンパイア・ノーブルもいる。それに、ねずみのお陰で下僕も武器に不自由しない」

 ゴードンが黒マントをはだけて見せた。

 腰の剣帯からペッパー・ボックス型の連短筒とサーベルが吊るされている。

「その上でチチンプイプイをぶっ放す連中まで来ているのか。物騒だよなあ――」

 ツクシはぐーすか無防備に寝ている女王様を横目で見やった。

「女王陛下はわずらわしいといって嫌うが――」

 ゴードンがまた渋い笑顔を見せた。

「じゃあ、女王様をつれて帰ってくれ。飲ませすぎたみたいだ。手間をかけてすまん、ゴードン」

 ツクシは赤ワインの杯を一気に干した。

「ツクシは飲み比べで女王陛下に勝ったのか。ひとのうちにお前とは一対一サシで飲んでみたかった。いい店だ、これが、あの有名な、ゴルゴダ酒場宿――」

 ゴードンが酒場を見回した。

 深夜でも歓談する酔客の声で活気がある。

「――ゴードン」

 ツクシが呼びかけた。

「ん?」

 ゴードンが目を向けた。

「顔色が悪くなったな」

 ツクシが口角を歪めて見せた。

「ああ、それらしくなってきたか?」

 ゴードンも笑った。


 §


「うわあっ、フロゥラ様ァ!」

 ゴルゴダ酒場宿の表で吸血鬼や吸血鬼の下僕の悲鳴が重なった。

「あらあら――」

 骨馬のレィディが馬のしっぽをふりふり呟いた。馬番の仕事を終えて、宿へ入ろうとしていたグェンが騒ぎのほうへ目を向けた。下僕たちの肩を借りて酒場宿を出た直後、女王様がお吐きあそばされた様子である。吐き気に敗けたフロゥラは四つん這いだ。

 虫は吐いていない。

「うぅう、夜はこれからだというのに、あのツクシが憎い、憎たらしいっ!」

 フロゥラが下僕が差し出す手をえいえいと振り払っている。吐くまで酒に酔ったフロゥラは自力で立つことも難しそうだ。それでも女王様はその場でしばらく頑張っていたのだが、やがて、ムスッと不機嫌な顔で下僕の手を借りた。女王さまは深夜でもひとや馬車が行き交う騒がしいゴルゴダの大通りを下僕たちに支えられしょんぼり帰路につく。

 その白い背に流れる漆黒の長髪を立ち並ぶ街路灯が明るく照らしていた。


 §


 表から男たちの騒ぐ声が聞こえた。

「おうおう、喧嘩なら見物しにいくかよ。飛び入り参加して、ひと暴れするのも悪くねェ。見ず知らずの野郎の顔を、思い切ってブン殴ると、胸がスカッとするものだからな――」

 ツクシがおつまみの大皿に残っていた生ハムを口から垂らして、カウンター席から振り返ると、グェンが背後に視線を向けながら入店してきた。のんびりしたグェンの態度を見ると表の騒ぎは駆けつけて見にいくほど派手な喧嘩ではないらしい。

「何だよ、つまらねェ――」

 ツクシがいつもの不機嫌な表情に戻ったところで、ラウが裏口から顔を出して、

「あっ、グェン、ちょうどいい、裏で釜炊きを手伝え!」

 グェンはずり落ちて目を半分隠していたバンダナを手で引き上げて、

「ええ、アリバとモグラは何してんの?」

「客から湯がぬるいといわれてな。裏へ見に行ったらボイラー室で寝ていやがった。蹴っ飛ばしても叩いても目を覚まさん。今日は忙しかったから疲れているのは、まあわかるけどなあ――おっと、ツクシの旦那、騒がしくしてすいやせんね、ウヒヒ!」

 ラウはイヤらしい笑い声と一緒にわざとらしい笑顔を見せた。

「気にするなよ、ラウさん。グェンも大変だな。ああ、余りものでよければ、食うか?」

 ツクシはおつまみの大皿へ顎をしゃくった。大皿の上には生ハムだのチーズだのヤマウズラのグリルだの肉や魚のパテを乗せた小さなパンだのと、まだ結構な量のご馳走が残っている。

「おお、ハムもらう、チーズも――うもうも、ツクシ、今日は忙しかったからさ、みんな大変なんだう!」

 グェンは口に食べ物を詰めたまま喋った。

「おう、グェン、リスの頬袋みたいになってるぞ。欲しけりゃ全部もってけ。ああ、裏で仕事をしているモグラやアリバにもくれてやれよな」

 ツクシはグェンの胸元へ大皿を突きつけた。

「んぐっ。い、いいのかよ、こんな豪華なモン。遠慮はしないぜ、ツクシ」

 大皿をひったくったグェンは、そのついでに、パテを乗せた小さなパンを口へ放り込んだ。

「こういうとき、子供ガキが大人に遠慮をするんじゃねェ。百年早いぜ」

 ツクシが口角を歪めて見せた。

「うも、子供ガキって! んぐっ――ま、いいか。じゃ、俺は釜炊きに行くよ。ラウのオッサン、今日は三割増しだぜ。二割じゃ足りないよ」

 ガキ呼ばわりされるのが大嫌いなグェンだが、手元に来たご馳走に視線を落として吠えかかるのは思い止まった様子だ。

 ラウは裏口から出てゆくグェンを見送って、

「抜かりねえよなァ――」

 舌打ちこそしたものの、ラウの顔はさほど気分を害しているように見えない。

「三割って給金のことか。俺がグェンくらいの年齢のときは、のほほんとしたものだったがな――」

 ツクシは呟いた。グェンや、グェンの率いる餓鬼集団レギオン・ゴルゴダ・ギャングスタに所属する少年少女たちは、親無し宿無しの孤児(一部例外もある)だから、毎日、その腹を満たすのが精一杯で贅沢な食べ物などは口にできない。ツクシは裏口から消えようとしているグェンの背中を眺めながら、おつまみの大皿をグェンにくれてやって良かったなと思った。

 一抹のやる瀬ない感情も胸に覚えている。

「――ツクシ!」

 突然、グェンが振り向いた。

「おう、グェン、どうした?」

 ツクシが訊いた。

「ああ、あのな――ツクシ、これありがとな、アリバやモグラも喜ぶよ!」

 グェンは気恥ずかしそうに礼をいうと走っていった。

「じゃ、ツクシの旦那、あっしも失礼しやす」

 その言葉へツクシが目を向けると、そこに残っていたのは言葉だけで、ラウの背中はもう裏口から消えようとしている。

「俺もそろそろ風呂へ入って寝るか――」

 ツクシが呟くと、

「旦那が来るまでは必ず風呂を開けときやすよ、ウヒヒッ!」

 裏口の奥からゴブリンの笑い声が響いた。

 ラウは地獄耳なのだ。

 ツクシが腰を浮かせかけたところで、

「もう、今日は本当に疲れたあ!」

 きゃんきゃん鳴きながら、ミュカレがカウンター席へ腰を下ろした。

 ツクシが座る右隣である。

「おう、ミュカレ、お疲れさん。ユキも今日は疲れていたみたいだが――」

 ツクシの後ろから、

「ツクシ、わたしはここにいるよ!」

 ユキの声がかかった。

「おう、ユキ、平気か?」

 ツクシが振り返ると、ユキがしっぽをくねくねさせながら、汚れた皿を厨房へ運搬している最中だ。

「番台でやすんでたの。今から酒場のかたづけしなきゃ!」

 元気よく応えてユキは厨房へ消えた。

「――ユキは私と交代」

 ミュカレは頬杖をついてツクシへ視線を流している。

「ミュカレも朝から走り回っていたもんな。でも、マコトはまだやってるぜ?」

 ツクシは卓を雑巾がけするマコトを見やった。

「マコトはいいのよ。たまに黙っていなくなるんだから。今日は私の代わりにへとへとになってもらうわ」

 ミュカレは脇を抜けたマコトへ聞こえるようにいった。

 マコトは視線をミュカレに返しただけで厨房へ消えた。

「あいつはほとんど表情が変わらないから、疲れてるかどうかわからんな――」

 ツクシのマコト評である。

 実際、マコトは無表情で厨房とホールを行き来している。

「それはそうと、ツクシ。昼から女の子が入れ替わり立ち代りでなんなの?」

 ミュカレが会話の流れをぶった切った。

「おう。俺は、そろそろ風呂へ行こうかなあ――」

 ツクシが呻いた。「なんなの?」と訊かれても、本日ゴルゴダ酒場宿を来訪した女性の面々をツクシが呼び寄せたわけでもない。

「ツクシ、まだ、私の話があるのだけれど?」

 ミュカレが怖い声で呼び止めた。

「うぬっ、ぐおっ――」

 立ち上がったツクシの身体が揺れている。

「あっ、ツクシ!」

 ミュカレが倒れそうになったツクシを支えた。

 カウンター席の椅子が横倒しになる。

 おう、案外とすばしっこくて力持ちなんだな――。

 ツクシは真横に来たエルフの美貌を見やって、

「ああ、ミュカレ、大丈夫だ」

「さすがにこれだけ飲むとツクシでも立てなくなるほど酔うのね――」

 ツクシの肩口で呟いたミュカレが、カウンター・テーブルの上に並び立つワインの空き瓶を見やった。昼のうちに一回、ミュカレが片付けたのだが、それでも二十本近くの空き瓶がある。

「ああ、今日は飲んだぜ。払いもなしで浴びるほど飲んだ。俺は満足だ。無料酒ただざけより旨いものはないよな」

 ツクシは口角を歪めて見せた。

「私もツクシとお酒、飲みたかったな――」

 ミュカレが囁いたところで、

「ほう、確かにいいワインだな」

「今、帰りましたよ、ツクシさん!」

 ツクシがミュカレに支えられたまま目を向けると、アルバトロスと悠里が帰還している。

「あら、アルに悠里。お帰りなさい。何かご注文はある?」

 ミュカレがツクシを抱えたまま微笑んだ。

「今日は外で済ましてきたぜ。うーん、九八八年の赤か、これは全般的に大当たり年だったよなァ――」

 アルバトロスはワインの空瓶のラベルを眺めていた

「おう、アルさんに一本くらい取っておこうと思ってたんだがな。また世話になったし――だが、案外とあの女王様が酒に強くて、結局、全部飲まれちまったんだ。いや、悪かった――」

 ツクシが硬い表情で言い訳をした。

「へえ、あの黒髪の吸血鬼はツクシの女王様なの? ニーナ、クラウン、シャオシン、リュウとフィージャにまだいるわけ?」

 唸ったのはツクシの胸元にいたミュカレである。

 うつむいたミュカレは親指の爪をガリガリ齧っていた。

 下向いたその視線が床を貫きそうだ。

「おう、フィージャも頭数に入っているのか?」

 ツクシは怖い顔が視界に入らない方向へ身体をずらした。

「ツクシは節操がないみたいだから。そうそう、ユキから色々と聞いたわよ――」

 クワッと顔を上げたミュカレの瞳が真っ平になっていた。

「あっ! そのワイン、そんなにいいものだったのか。アルさん、すまなかったな、空瓶を並べておいたら、そりゃあ、目の毒だよなあ!」

 クッソ、あの猫娘、ミュカレにあることないことをべらべら喋りやがったな――。

 眉間を厳しくしたツクシがアルバトロスへ声をかけた。

 熱心にワインの空瓶を見比べているアルバトロスの返答はない。

「いいんですよ、ツクシさん。おやっさんはジークリットの顔を見るのはいやだといって、朝から逃げ回ってたんです。このひとは、ズルですから、ズル――ん、女? ツクシさん、また女でトラブルですか?」

 代わりに返事をした悠里がツクシをじっと見つめた。

「また」って何だよ、この野郎、人聞きの悪い表現を使うんじゃねェ――。

 ツクシが悠里を睨みつけた。

 悠里は無表情である。

 アルバトロスがワインの空瓶を天井から落ちる灯りに透かしながら、

「よくないぜ、ツクシ。こんなにもったいない飲み方をしやがって――」

 空き瓶の底に少しだけその内容が残っている。

 案外としつこくてケチ臭いなこのオッサン――。

 ツクシがアルバトロスをじっと見つめた。

 アルバトロスはツクシの視線を気にしている気配がない。

「――ああ、もう。俺はとにかく風呂へ行く――ぬぅおっ!」

 面倒になってきたツクシは、ミュカレから身を離して歩きだしたが、よろめいて近くの丸テーブルへ両手をついた。

「お、どうした、ツクシ?」

 アルバトロスがツクシを見やった。

「ツクシさん、大丈夫ですか!」

 今度は悠里がツクシの腰に手を回して身体を支えた。

 ツクシは身体を寄せる悠里から上半身を反らして距離を取りつつ、

「ああ、悠里、酒に酔っているだけだ、たいしたことはないない――」

「ツクシさん、僕が風呂まで肩を貸しますよ」

 悠里は真剣な顔つきだ。

「いいから、いいから、うおっ――」

 悠里を突き放して歩きだすと、ツクシの視界に映る床面は斜めに傾いていた。

「ツクシ、無理しないで」

 ミュカレがよろけたツクシをふわりと受け止めた。

「そうですよ、ツクシさん」

 悠里がツクシの背中へ手を回した。

 ツクシはミュカレと悠里に挟まれた状態になる。

「じゃあ、お言葉に甘えておくか――」

 女の肩を借りるか、

 男色の気配が濃くある野郎の肩を借りるか――。

 ツクシは迷ったが、結局、悠里の肩を借りることにした。

 危険ではあるが、女の肩に重荷をのせたら男が廃る。

 ここは譲れぬ男の意地である。

 アルバトロスが寄り添ったツクシと悠里を眺めながら、

「本当に仲がいいよな。やっぱり、お前らホモだろ。それとも、両方いけるクチなのか、掘ったり掘られたりか。はぁーん、お前らって、ホモ土方なのか?」

 ツクシはうつむいた。

 悠里はうつむいたツクシへキラキラとした笑顔を寄せている。

「はい、ツクシ、お水よ」

 眉尻を下げて心配そうなミュカレが水の杯を差し出した。

「おう、水か、これはありがたい。酒に弱くなったぜ。年齢としは取りたくねェよな――」

 ツクシは一息にその水を飲み干した。そのあとで、ミュカレはいつ水を持ってきたのかと怪訝な顔になった。

 それは青い草花の香りがわずかにある冷水だ。

 奥深い森林を奔る渓流のような――。

 悠里の手を借りて、なんとか風呂を済ましたツクシは、貸し部屋へやはり悠里の肩を借りて向かった。

 風呂でいい男に磨きをかけた悠里が、ツクシの貸し部屋へ理由もなく侵入しようとする。

「この部屋はユキと俺のプライベートな空間だから悠里は入ってくんな」

 ツクシは悠里の不服そうな顔をバタンと扉で締め出した。躊躇は一切ない。

 悠里の濃厚なホモ・アピールを、無難にやりすごした(これももう手慣れたものだ)ツクシは、視界のなかでは左右に傾く暗い貸し部屋を左右に揺れながら進んで、開いた鎧戸へ辿り着くと窓枠へ両肘を預けた。

 眼下にある大通りは街路灯で明るい。

 人工の光の下を行き交うひとびとは昼同様の賑わいを持続している。

 光り輝くペクトクラシュ河南大橋が近くにある。

 ツクシはひやりとした夜の息吹に頬を撫でられて秋の気配を感じた。

 王都の夏はそれほど長くない。

 鎧戸を閉じたツクシは、小さな机の上の丸い導式灯へ手を触れて、弱い照明を確保した。横にあった木彫りの熊に青白い光が当たる。頭が大きくて、鮭を抱えた、可愛い感じの熊である。

 ツクシはベッドへ倒れこんだ。

 見上げる暗い天井がうわんうわんと波打っている。

 それでもツクシは、いい気分なのである。

「高級な酒は悪酔いしないというがな。それとも、ミュカレの不思議な水が効いたのか――」

 満足気に口角を歪めたツクシが深い眠りに落ちた――ところで、風呂桶を抱えたユキが入ってきた。仕事が終わって湯上りのユキは白いキャミソール・ドレス姿だった。ユキはベッドのツクシへ視線を流しつつお風呂セットを長持の上に置いた。

 振り返ったユキはツクシを目がけて、ていっと宙を飛ぶ。

「げっふ――!」

 ツクシの身体が「く」の字に折れ曲がった。体重は三十キロ未満の銀の猫がツクシの腹の上に急降下してきたのだ。顔を歪めたツクシが薄く目を開けると、身体の上で猫耳を立てたユキが鋭い犬歯を見せてニシシと笑っている。

 ま、この牙で血を吸われることはないか――。

 ツクシは諦めて目を閉じた。限界まで酒に酔ったツクシは、ユキを跳ね除ける力も床下へ移動する気力もない。そのまま布団へ潜り込んだユキはツクシの胸元に頬を寄せて笑ったまま瞳を閉じた。


 §


 ツクシは夢を見た。

 ゴルゴダ酒場宿へ窓から訪れる陽差しは、やわらかい黄色の穏やかなもので、時刻はよく晴れた日の午前中らしい。ネスト・ポーターの仕事がない日――休日はたいてい、ツクシは財布の中身を睨みながら、ゴルゴダ酒場宿のカウンター席で酒を飲む。日本にいた頃もカントレイア世界に迷い込んだあとも休日の行動は変わらない。昼間から酒を飲んで、新聞を読んで、テレビを見て、空いた時間を無為に潰している。だが、異界には新聞はあってもテレビはない。だから、ツクシは階段近くの丸テーブル席にいるアルバトロスと、その彼を囲む子供たちを眺めていた。グェンや、ユキや、アリバや、モグラや、シャルや、マコトが、アルバトロスが語る冒険談に耳を傾けている。

「ああよォ、グェンは将来、船乗りか冒険者になりたいらしいんだ。だから、アルさんたちが暇をしていると土産話をいつもせがんでいるぜ」

 いつの間にか、左隣に座っていたゴロウが教えてくれた。

 グェンたちを見やるゴロウのどんぐり眼が細くなっている。

「おう。グェンなら何にでも、なれるだろうな」

 頷いたツクシがグラスへ口をつけた。そのグラスにあるのは飲むたびに味が変る不思議な酒だった。

 今、ツクシの口内に広がっているのはぶどうの酒だ。

「グェンは、はしっこいからなァ、少し生意気だがな――」

 笑ったゴロウが口へグラスを寄せた。

「確かにグェンは威勢がいいよな――」

「ああよォ、元気な奴だァ――」

 ツクシは口角を歪めながら、ゴロウは微笑みながら、グェンへ目を向けた。

 アルバトロスが語る冒険談も佳境に入ったようである。

 隊商を警護しつつ渓谷の道を行くアルバトロス曲馬団。そこへ、荒野オークの略奪者団レイダースが急襲してきて、云々、云々、云々――アルバトロスは唇の端を吊り上げながら、もったいをつけて語った。

「ああ、もう、それでどうなったんだ、アル!」

 痺れを切らしたグェンが続きを急かすと、

「――グェン、グェン、グェン!」

 宿の裏口から呼ぶ声が聞こえた。

 呼ばれたグェンは不満たらたら、カウンター席に座ったツクシの脇を抜けて、裏口へ足を向けた。

 またラウさんが用事でグェンを呼んだのか――。

 ツクシは思った。

 しかし、あのおかしな声はラウさんではなかったような――。

 ツクシは考え直した。

 グェンを今行かせるとまずい――。

 カッと目を見開いたツクシが立ち上がって、

「おい、グェン、そっちへ行くな、ちょっと待て!」

 しかし、ツクシが見つめる裏口の奥は真っ黒な闇が、ざわざわ、ざわざわと音を出して、蠢いているばかりであった。

 グェンの姿はもうそこに――。


 §


 朝である。

 ツクシは貸し部屋のベッドの上でうんうんとうなされながら目を覚ました。

「クッソ、この猫の所為で毎朝毎朝だな――」

 最高に不機嫌な顔のツクシが布団を剥ぎ取ると、案の定、胸の上に乗っかったユキが寝息を立てていた。そのまま、ツクシは枕元に置いた白銀の懐中時計を手にとった。薄明りのなかで目を凝らすと時刻は朝の五時を少し過ぎたところだ。

「やっぱりまだ起きるには早い時間だぞ、この猫めが――!」

 ツクシが払いのけると、ベットから転げ落ちたユキはコロンコロン床を転がって、止まったところで「ふぎゃん!」と一声鳴いた。カクカク眠気に震えながら、どうにか身を起こしたユキは女の子座りだ。いつもなら、そのユキへ口角を歪めて見せるところだが、この日のツクシは不機嫌な顔のままだった。

 早朝から宿の表で騒ぐ声がする。

「ああ、また交通事故かよ――」

 ツクシは貸し部屋の鎧戸へ歩み寄った。王都で最も交通量が多い交差点に面しているゴルゴダ酒場宿の前は荷馬車の衝突事故がとても多い。お互い急いでいるから、そのたいていは派手な事故で死人も出る。事故で運良く死人が出なければ、お互いにいきり立った御者同士で刃物を使った大喧嘩になるので、やはり死人だの怪我人が出るのだ。ゴルゴダ酒場宿前の喧嘩と交通事故は、王都十三番区ゴルゴダの名物になっている。

 ツクシは大あくびをしながら鎧戸を開けた。

 早朝の澄んだ空気に洗われた空は青く晴れ渡り、新鮮な朝陽が斜めから王都へ降り注いでいる。目を細めたツクシが視線を下にやると、交差点の街路灯の下で何やらひとが集まって騒いでいた。

「――おう、グェン」

 ツクシは呻いた。

 首に縄をかけられたグェンの胸に短刀が突き立っている。

 高く吊るされたグェンを見上げながら騒ぐひとの声は悲嘆のみだ。

 ツクシは貸し部屋の鎧戸をそっと閉じた。

 ユキは床へ女の子座りで眠そうにツクシを眺めている。

 ツクシは魔刀を手にとると、黙ったまま貸し部屋を出て、その扉を静かに閉じた。

 階下に向かいながら、

 ユキ、今は、鎧戸を開けるな、

 ユキ、今は、もう少し寝ていろ、

 ユキ、今は、部屋から出るな、

 ツクシは声を出さずにユキへ命令した。

 そう願った。

 せめて、グェンを、グェンの身体を地面へ降ろしてやるまで――。

 ゴルゴダ酒場宿の馬子。

 餓鬼集団レギオン・ゴルゴダ・ギャングスタの指導者リーダー

 グェン・フリーベリが殺害された。

 グェンは十五歳でまだ少年といっていい年齢だった。

 その日の明け方に発見されたグェン少年の亡骸は、ゴルゴダ酒場宿の近くにある街路灯から縄で吊るされていた。

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