四節 ゴルゴダ酒場宿の長い一日(肆)

 ゴルゴダ酒場宿で行われた首脳会談は夕方に終わった。

 会談の終わり際、ジークリットが正式にタラリオン国王マルコ・ユリア・タラリオン十六世へ、ラット・ヒューマナ王国の使者送るようにと段取りをつけた。鼠王ムルムとその配下にあるワーラットたちは、ジークリットに散々やり込められて、チュウとうつむきながらゴルゴダ酒場宿をあとにした。これでタラリオン王国の元老院議会でネストの出入口問題が議題に上がる。

 異形の巣ネストを取り巻く状況が今後、変化する――。

 会談を終えた直後、ジークリットが延々とワインを飲んだくれていたツクシとゴロウ、それに、ツクシへぴったりとまとわりつくフロゥラのもとへ挨拶しにきた。

「このあとは、ネスト管理省にいる『ねずみども』追い込むだけですよ」

 ジークリットは笑っていたのだが、カウンター・テーブルの上にズラリと並んだ高級ワインの空き瓶を見ると、その顔が一気に青ざめた。ジークリットがいうに「封を開けていないワインは酒屋へ返品して、その代金を返してもらう約束になっていた」とのことである。

「騎士様よォ、小便でなら返せるぜ」

 ジークリットはゴロウの薄汚いダミ声の薄汚い冗談を耳にして本気の困り顔になった。

 ワインの杯を片手にツクシが「ククッ!」と邪悪に笑った。

 ツクシの悪い顔を見たフロゥラが「あっ!」と嬌声を漏らして身を震わせる。

「ま、出費の分は収穫がありましたよ――」

 ジークリットは諦めたような口調でいうと、女将のエイダに一声かけて、厄病神たちと一緒にゴルゴダ酒場宿を立ち去った。

 午後六時を回ったところで酒場を訪れた緑の妖精旅楽団が歌劇を催し始めた。シャルがリュートで演奏に参加している。

 今宵のシャルの演奏は情熱的な調べだ。

「今日のお客さんを呼んだのはツクシだからね。宴会の残りものでよければやるかい?」

 エイダが会談の席へ出した料理の残り物を盛り合わせた大皿を持ってきた。

 ツクシとゴロウは大喜びである。

 ゴルゴダ酒場宿は随分と儲かったらしい。

「今日の売り上げはいつもの三倍以上だよ!」

 エイダは鼻息を荒くして上機嫌だった。会場のワインを積極的に回収して、それらをガブ飲みしたツクシとゴロウもその売り上げへ貢献した形になったようだ。ミュカレは「今日は本当に疲れた! 足がむくむ!」そんな悲鳴を上げていたが、それでも、ホールで舞うように給仕していた。疲れたといっても動きがふわふわとしていてあまり疲れていないように見える。ユキはへろへろになったので、エイダが休憩をさせているようだ。もっとも、エイダは荒っぽい男の酔客が多い夜の接客を普段からユキへやらせたがらない。ユキは気が強い子なのでエイダの心配りが逆に不服でムクれたりもする。そのユキの代わりにマコトが淡々と働いていた。

 会談が終わっても、ツクシとゴロウの宴会はまだ続いている。

 カウンター・テーブルの上には普段は口にできない凝った調理法の旨いものが無料で並んでいたし、ガメたワインだって残っていた。ツクシにべったりとくっつくフロゥラは夜になっても帰る気配を見せずに、ツクシとゴロウの宴会へ花を添えている。

 むしろ、フロゥラの場合は夜になったからこそ帰宅をしないのだ。

「――やれやれだァ。だが、今日はいいワインを飲めたなァ」

 ゴロウが大皿のキジ肉のソテーを指でつまんで口へ放り込んだ。

「ま、役得ってやつだよな。ところで女王様、今日、ここへ来たねずみどもはどこから地下へ帰るんだ?」

 ツクシがひょいと上半身を傾けて自分の首筋を狙ったフロゥラの牙を避けた。

 フロゥラはムッと不満気にツクシの横顔を見つめながら、

「うん? そこらじゅうにねずみどもの出入口はあるよ。王都だとそうだな――地上へ出る道は昔の下水路が多い。そこのペクトクラシュ河の沿岸にも並んでいる」

 昼間からフロゥラはツクシに密着して酒を飲ませているのだが、しかし、まだ酒の酔いで隙を見せる気配がない。

 だが、夜はこれから――。

 フロゥラの妖しい美貌へすぐに微笑みが戻ってくる。

 ツクシは声低くして妖しく笑うフロゥラを横目で見やって、

「ああ、確かにあるな。俺も下水が出ていないから不思議だった」

「昔は使われていたよ。王都の下水がすべてペクトクラシュ河に流れ込んでいてな。汚い河だった、臭くて――」

 フロゥラがフルーツの皿にあった無花果いちじくを手にとった。

「それはいつ頃の話だ?」

 ツクシはおつまみが乗った大皿に手を伸ばした。

 物珍しさで手にとったのは塩漬け豚肉のゼリー寄せである。

「二千年くらい前」

 フロゥラが無花果を白い指先で割った。

「二千年かよ――」

 ツクシが口に運んだ塩漬け豚肉のゼリー寄せは、煮凝にこごりで固めたハムのような味だった。ゼリー部分も肉も旨味が濃い。しかし、一緒に香りの強いセリ科の野菜を細かく刻んだものが入っているので後味はさっぱりとしたものだ。

「私がまだヒト族だった頃の話――」

 フロゥラが無花果をツクシの口へ捻じ込んだ。控えめな甘さと、ひなたのような果物の香りが、ツクシの口の中でつぶつぶ弾ける。

「――へえ、女王様は元々、この王都の生まれだったのか?」

 ツクシが目を細めてフロゥラを見やった。こうしていると、フロゥラが瞳から発する危険な魔導式の効果が弱まるらしい。さっきゴロウが用を足しに席を立ったとき、こっそりツクシへ耳打ちしてくれた簡易魔導式対策だ。そして、ツクシが危惧した通り、フロゥラの瞳で魔導の紫炎が揺れていた。目から紫色の火を噴いているような有様である。

 フロゥラは自分を薄目で見つめるツクシに気づくとムッと眉を寄せて、

「――うん。もっともその頃、この場所にあった国の名前はタラリオンではなかったよ」

「ああ、そうなのか――?」

 こうとしか、カントレイア世界の歴史に疎いツクシはいえない。

「二千年前。マルドゥク王朝の時代だな――女王様、ひとつ訊いてもいいか?」

 ゴロウが大きな海ザリガニの尻尾を口の端から出した髭面をフロゥラへ向けた。ゴロウの手元で解体されているのは宴会の皿にあった大きな海ザリガニの塩茹でである。

 この赤髭野郎、一本しかなかったものを一人で全部食いやがったな――。

 ツクシは真剣に睨んだ。

 ゴロウは気づかないフリである。

「うん、何だ、ゴロウ?」

 ツクシに絡みつくフロゥラがゴロウへ視線を返した。

「あっ、ああよォ――どうして、聖教会は吸血鬼を血眼になって追っているんだ?」

 ゴロウは自分から訊いておいて迷う素振りを見せながら訊いた。

「何だ、ゴロウも知らないのか」

 ツクシがゴロウへ呆れ顔を見せた。

「知らねえなァ。魔導式を使うから、だとか、聖霊ウルテマと御子エリファウスの教えに反した、だとか、それらしいことは神学学会の学生だった頃に教えられたけどなァ。今になって考えるとよォ、どれもこれもとってつけたような理屈だしよォ。ただ、聖教会が屍鬼と吸血鬼を目の仇にしてるのだけは間違いねえんだが――」

 頬髯に手をやったゴロウは困り顔である。

「ゴロウはその聖教会に籍を置いていたんだろ。マジで無責任な野郎だよな」

 目を見開いたツクシの叱責はわざとらしい。

「そういわれてもよォ。俺だってナマの吸血鬼を見たのは、メイベル村が初めてだったしなァ。それまで、吸血鬼の存在なんて気にも留めていなかったしよォ。俺ァ本当に吸血鬼がこの世界に存在するのかどうかすらも疑っていたんだぜ――」

 そんな言い訳をしながら、ゴロウがフロゥラへ視線を送った。

 考えていた様子のフロゥラが、

「――うん。それを知りたいか? ゴロウ」

 今、吸血鬼の女王の美貌に笑顔はない。

「あっ、ああよォ、知りたいような、知りたくないような――」

 ゴロウは尻込みをした。

「案外と根性がないよな、この赤髭野郎はよ――」

 ツクシは口角を歪めて見やったが、ゴロウは緊張した様子でフロゥラを見つめている。

 フロゥラがフルーツの皿からぶどうをひと房を手にとって、

「ゴロウ、私はフロゥラ・ラックス・ヴァージニアだ」

「あァ、いや、女王様の名前はもう知ってるけどよォ――」

 反応に困ったゴロウが太い眉尻を下げた。

「――うん。エリファウス聖教の開祖エリファウス・トーレが率いた二十四人の使徒。そのうちの一人、聖女フローラ・バージニアン。今、生きているひとびとは、私の名前をそう呼んでいる。だが、私がエリファウスの手下であったことは一度もなかったぞ。あくまで奴と私は対等の立場だった。対等の、親しい間柄で――友人だった、かな――まあ、それはいいのだ。名前の発音がいい加減だよ。私の名はフロゥラだ。フローラではない。姓はヴァージニアだ。バージニアンではない。失礼な話だろう?」

 そう語ったフロゥラは、ぶちぶちとぶどうの房をむしって、そのぶどうをツクシの口へ乱暴に突き入れている。女王様はかなり苛立っているご様子なので、ツクシは抵抗せずにそのぶどうを食べた。今はフロゥラの話の腰を折りたくないという好奇心もある。

「――ま、まさか、女王様が黒髪の聖女フローラなのか?」

 ゴロウの目の玉が飛び出しそうになっていた。

「うん」

 フロゥラはゴロウに視線を返さずに頷いて、

「聖霊書を編集した輩が私を勝手に聖人の列へ加えた。そもそも、あの頃、エリファウスは教団なんぞを名乗っておらなんだよ。私がいたプロジェクト・チームの名称はエリファウス聖教会ではなく『幻想結社ファントム』だった。幻想結社に所属していたのは二十五人いてな。全員が運命潮流マナ・ベクトルの研究者だったよ。当時は運命潮流を制御する『式』が、魔法だの呪術だのと呼ばれていて、まだ体系化されていなかった。私たちはそれを――今でいう導式を研究するために、当時の王朝学会から選抜されたのだ。エリファウスも私もそのなかの一人」

 こう語っている間、フロゥラはツクシの不機嫌な横顔を上眼遣いで見つめながら、ぶどうの汁で濡れた自分の指先をねっとりしゃぶっていた。

「幻想結社。さっき、ジークリットがそんなことをいってたな」

 ツクシはフロゥラの危険で意図的な痴態を無視して正面を向いている。

 頬を染めてゆっくりとうつむいたフロゥラが細かく震えだした。

 やっている本人もそれなりに恥ずかしかったようである。

 フロゥラはうつむいたまま何度か深呼吸をしたあとで、

「エリファウス聖教会の成り立ちを私はよく知っている。エリファウス・トーレ個人のこともよく知っている、知りすぎている。だから、エリファウスが死んだあと、幻想結社の功績を宗教化したエリファウス聖教会は、この私を疎んじて消したがっているのだ。私には秘匿する情報がない。『秘匿オカルト』がないと宗教は成立せん。エリファウス聖教会にとって、この私は存在すると不都合な真実なのだ。もっとも、私をつけ狙う理由を知っている輩が今の聖教会にいるかどうかは知らん。そのくらい昔の話だよ。私にとっては昨日のことのように思えるが――」

 話を終えるとフロゥラはツクシへまた体重は預けた。何しろこの女王様は二千年も色呆けしたまま生きてきたので、そう簡単にはへこたれない。

 ツクシの胸元でフロゥラの頭がくりくり動いている。

「それで聖教会は私兵を使って吸血鬼を追い回しているのか。そりゃあ、確かに傍迷惑な話だよな――」

 ツクシは白ワインの杯を空にした。

「そうだろう? だから、ずっと傍にいて、か弱い私を守ってくれ、未来の旦那」

 シュッと顔を上げたフロゥラの甘えた声だ。

「あのな、お前のどこが、か弱いんだよ――」

 薄く目を閉じたツクシは魔導の紫炎が揺れるフロゥラの瞳を確認して呆れ顔だ。

 堅い表情でフロゥラを凝視していたゴロウが、

「じょ、女王様、女王様!」

「うーん、何だ、ゴロウ?」

 フロゥラはツクシの喉元を下から見つめながら気のない返事をした。

「もう、その話はいい。それ以上、俺に聞かせないでくれやい。それ以上を聞かされると命がいくつあっても足りねえぜ――」

 ゴロウの額が冷や汗で濡れて光っていた。

「それ見ろ、この赤髭野郎はやっぱり根性がねェだろ――?」

 口角を歪めたツクシは背を反らして喉元を狙うフロゥラの牙から逃れていた。

 ツクシはこの危険な吸血鬼の女王様の扱いにも慣れてきた様子である。

「うるせえよ、ツクシ、命あってのモノダネだぜ。エリファウス聖教会ってのはな、世界的な組織なんだよォ。ひと一匹ていどを消すなんてわけがねえんだ」

 ゴロウが曲がった髭面を上向けて赤ワインの杯を干した。

「おう、確かに、ゴルゴダ酒場宿ここへ聖教会の奴らが――武装ナントカ隊だよな。あいつらが女王様を狙って雪崩れ込んできたら面倒だよな」

 ツクシはカウンター席から振り向いた。出入口へ送ったツクシの視線が、そのあたりで給仕していたミュカレの視線とカチ合った。ツクシの胸元へフロゥラがべったりとしがみついて肉体を預けている。ミュカレのプラチナ・ブロンドの長髪が風もないのにふわりと浮いた。これは殺気である。

 ゴロウは表情を硬くして姿勢を正したツクシと、それにびったりくっつくフロゥラを見やって、

「しかし、女王様よォ。家に帰らなくて大丈夫なのか。見えるところに聖教会の総本山があるんだけどよォ?」

「うん。ジークリットが聖教会それのほうも抑えてくれると約束してくれた。奴の父親は大金持ちらしいな。ジークリットというよりも奴の父親の顔が聖教会に利くそうだ」

 フロゥラがツクシの胸元から応えた。

「へえ、ジークリットは、金持ちのところのボンボンなのか。そのわりにはケチだよな、あいつ――」

 ツクシが白ワインのボトルを左右に振った。

 中身はもうほとんど残っていない。

「ツクシ、金持ちってのはよォ、ケチだから金があるんだぜ」

 ケチ自慢のゴロウが赤ワインのボトルを手にとった。

「ああ、それもそうだな」

 ツクシは口角を歪めて頷いた。

「あァ、とうとう、ガメた酒が全部切れちまったなァ――おーい、マコトォ、追加でもう一本――!」

 ゴロウが空のボトルを掲げて声を張り上げた。

「ああ、ゴロウ、注文するのはちょっと待て――」

 ツクシは椅子に座ったまま身を屈めて、フロゥラの交差したふとももの間へ頭を突っ込んだ。

「あっ、ツクシ、こんな他人ひとの目がある場所で、んん――!」

 嬉しそうに身をくねらせたフロゥラが、ツクシの短い黒髪を撫で回しつつ、ふとももの交差をゆるめた。この女王様は二十四時間、ふしだらな物事を頭のなかで考えているのである。他人ひとに見られながらするのも大好きだ。

「――よっと」

 女王様の秘所ではなく、カウンター・テーブルの下をまさぐってきたツクシの手には、右に二本、左に一本、ワインのボトルを持っていた。

 白と赤それにロゼと三色揃っている。

「おっ!」

 ゴロウが歯を見せて笑った。笑う髭面を見やるツクシの口角も邪悪に歪む。ツクシはフロゥラのスカートが視線を遮ぎるカウンター・テーブルの下へ、昼間の会席で提供された未開封の高級ワインを何本か隠しておいたのだ。

「ほう、ツクシはそうやって私の部屋からラム酒の瓶を持ち出したか?」

 肩透かしを食らったフロゥラがツクシの悪い笑顔を冷たい表情で眺めていた。

「おう、やっぱりバレていたのか――」

 ツクシの顔が引きつった。

 少し間をおいて、

「――手癖が悪いな、未来の旦那は」

 フロゥラが牙のある笑顔を見せた。

 吸血鬼の女王様は細事を気にしない性分であらせられるようである。

「ああ、これでも、その昔は手癖が悪いのを捕まえる側だったんだぜ。俺も落ちぶれたもんだ。女王様、俺の悪い手癖の侘びだ、飲んでくれ。なかなかいける」

 ツクシは口角を歪めながら女王へ杯を献上した。

「では、一杯もらおうか」

 ツクシの差し出した杯を青白い指先が受け取った。

 ゴロウは緑の妖精旅楽団の催す歌劇が幕間の休憩に入ったところで帰路についた。カウンター席で身を寄せ合うツクシとフロゥラに気を使ったわけではない。ロング・ドレスの上にカーディガンを羽織った女がゴルゴダ酒場宿を訪れてゴロウを呼んだ。ゴロウを呼びにきた女は、ツクシたちが座る席に寄ったとき簡単な自己紹介をした。その女の名はミシャといった。軽くウェーブのかかった黒髪を顔の半分にかけたミシャは、その顔色が悪いせいか儚げな印象を受ける美人だった。ツクシは離れた場所で言葉を交わしているゴロウとミシャを眺めながら、「あれはゴロウの女かな」などと考えた。

 そのうち、ゴロウは酔いが覚めた表情になって、

「ツクシ、女王様、急用が入ったから俺ァ帰るぜ」

 ゴロウは急ぎ足で出ていった。とはいっても、昼間から酒を飲み続けているので白い武装ロング・コートを小脇に抱えたその足取りが頼りない。

 ミシャもゴロウを追って立ち去った。


 ゴロウが帰ったところで緑の妖精旅楽団が歌劇を再開して、酒場の喧騒に拍車をかけた。ツクシにはまだガメたワインのボトルがある。ツクシへ身を密着させながら、ワインを杯を傾けるフロゥラも帰る気配を見せない。ツクシは昼から浴びるように酒を飲んでいるのだが、それでも酒を飲み続けた。ついでに、ツクシはフロゥラの杯が空くたびに酒を注ぎ足した。フロゥラも嫌いではないようで受けた杯をぐいぐい干していった。

 その結果である。

「大人しゅく、私のモノにひゃれ、ツクシ!」

 吸血鬼の女王様は呂律が回らなくなるほど酔っている。

「あぁん? ひゃれ?」

 ツクシがフロゥラの杯へ赤ワインをどぼどぼ注いだ。

「――にゃれ!」

 フロゥラがタンと空にした杯を卓に置いてにゃんと吼えた。

「ククッ! どうだ、そぅれ、もう一杯――」

 ツクシはフロゥラの杯へ次々と刺客を注ぎ込む。

 この男は底意地が悪いのである。

「おぬしの――が欲しい」

 フロゥラが杯の縁を咥えながらトロンと蕩けた視線をツクシに送った。

「欲しいのは血か?」

 杯の縁を咥えたツクシの口角が歪んでいる。

「うん、夜だし喉が渇いてきた。腹の虫も餌が欲しくて暴れだす時間ひゃぞ」

 フロゥラが顔を寄せて恫喝すると、酒臭くて甘い吐息がツクシの短い前髪を揺らした。

「おいおい、あの虫は女王様のいうことなら聞くんだよな――」

 ツクシは牙があるフロゥラの口中を覗き込み、そこから虫が出てこないか確認をした。 今のところ、フロゥラの口から出ているのはワインの匂いが混じる吐息だけだった。

「だから、ツクシ、私の旦那ににゃれ!」

 女王様がまたにゃんと吼えた。

「旦那様ねェ。女王様よ、俺はずっと気になってたんだがな――」

 ツクシは首を捻りながら自分の杯へワインを注いだ。

「うん? 私の魅力的な肉体からだのことか? ツクシ、旦那ににゃれば好きなだけ、このからだをもてあそひぇるぞ? ん? ん?」

 フロゥラは強引にツクシの膝へおしりを乗せた。

「いや、そうじゃねェ。女王様、吸血鬼の下僕ヴァンパイア・サーバントって正確には何になるんだ。吸血鬼とは違うのか? ゴロウに聞いたんだが、その差が俺にはよくわからなかった」

 ツクシは自分の膝によっこいせと移動してきたフロゥラを眺めた。

 フロゥラの瞳で魔導式陣がへろへろ力なく回転している。

 見たところ大して効力がなさそうな感じである。

「うん? 吸血鬼と下僕? ぜんぜん違うろ」

 フロゥラがツクシの首へ両腕を回した。

 ツクシの不機嫌な顔へ魔性の色香を発散する美貌が接近してくる。

 紫の闇に染まったフロゥラの瞳がツクシの三白眼に映っていた。

「――どう違うんだ?」

 ツクシは胸に熱い感覚を覚えた。その瞳にある誘惑の魔導式陣が精神へ作用している。ツクシの視線は夜空の瞳に吸い寄せられたまま動けない。

 身動きもできない。

 焦燥感は外部から侵入する甘い感情が塗り潰してゆく。

 なるほど、強烈。

 これが魔導の力ってやつか――。

 ツクシは口角を歪めた。

 微笑みを返したフロゥラの唇がツクシの首元へ寄った。

 開いた唇の間にあるのは吸血鬼の牙。

 だが、しかし、獲物を狙う女王の牙は虚空を食らった。

「――下僕はただのひとだ。老化すゆし血への渇きも覚えん」

 ぽかんと応えたフロゥラが、ほんの少し遠ざかったツクシの顔を見つめた。ツクシは腰にある魔刀ひときり包丁の柄へ左手を添えている。これはツクシが使うワザのうちの『身霧ミキリ』という。身霧は魔刀の力を借りた空間跳躍で身体一個半分の瞬間移動が可能である。十二歩半の空間跳躍ができる魔合マアイより移動できる距離は短いが、斬る対象がなくても使用が可能なこの身霧ミキリは、ツクシが持つ唯一にして絶対無二の回避術だ。この身霧を使って椅子の上をほんの少しの距離、ゼロ秒の間で移動したツクシはフロゥラの牙を回避した。

 混乱したフロゥラの身体がふらついた。

「なるほど、陽の下に出ない限りは吸血鬼の下僕もヒト族と同じなのか?」

 ツクシがフロゥラの腰へ手を回して膝の上でじたばたしていた女を支えた。

「――うんっ。でも、下僕はヒト族より身体能力が遥かに強くなゆ!」

 ぱっと牙ある笑顔を見せたフロゥラが、ツクシの頭を両腕で抱き抱えて、それを自分の胸元へ押しつけた。フロゥラはどちらかといえば細身なのだが、その乳房はとても大きい。

 ツクシの顔面が柔らかいお肉に埋もれてしまう。

「おぅう、吸血鬼の下僕にもそれなりのメリットはあるのか。そういえば、女王様は下僕をぞろぞろと連れていたな。どうして、あんなにたくさんいるんだ。やっぱり女王様の護衛か何かか――それはそうとだな、女王様、そろそろ俺の上から退いて自分の椅子へ戻ってくれ。こうしていると酒が飲めないだろ。まあ、しかし、悪い気はしない、が――」

 ツクシはくぐもった力のない声を上げた。魔性の色香と酒精が入り混じる甘い匂いが、一呼吸するたび鼻腔へ流れ込んでくる。ツクシはフロゥラの牙からも、その瞳が発する魔の誘惑からも逃げ切る自信があった。

 しかし、これには耐えられるかどうか――。

「――うにゅ。一人から吸血し続けたら、下僕がすぐ貧血で死んでしまうらろ?」

 フロゥラは不承不承の態度でツクシの右隣の椅子へおしりを移動させた。

 ツクシは荒くなった鼻息を整えたあと、

「ああ、そりゃそうだよな、下僕はただのヒトだもんな。じゃあ、下僕ってのは吸血鬼の餌になるのか?」

「うにゅ、餌だにゃ。たいていの吸血鬼は下僕からしか血を吸わん。お互いの信頼関係がにゃいと成り立たん関係ら」

 フロゥラが空の杯をツクシへ突きつけた。

 ツクシはフロゥラの杯へ赤ワインを注ぎながら、

「そうなるとだ。旦那ってのは俺へ吸血鬼の餌になれ、という話になるんだな?」

「――うにゅ!」

 フロゥラが受けた杯を一気に干して力強く頷いた。

 ツクシは手酌で作った白ワインの杯を飲み干して、それをダンッと卓へ叩きつけると、

「そんな馬鹿な話は断固お断りだ!」

「心配しにゃくてもらいじょうら、ツクシなら、しゅぐ吸血鬼になれゆ。匂いでわかゆ――」

 フロゥラが卓に両肘をついた。

「吸血鬼とかな、こっちは全然、興味がねェぜ――」

 ツクシはフロゥラの杯へワインを注いだ。

「――私にも?」

 フロゥラは卓上に頬をつけて、杯へ流れ落ちる赤いワインを眺めている。

「フロゥラが普通の女だったらな――」

 ツクシは横になった美貌を眺めながら呟いたあと自分の杯へ赤ワインを注いだ。

「――私の肉体からだは普通ら。いあ、普通以上らろ、しゅぐにれも、ひゃめしてみろ!」

 わっと身を起こしたフロゥラがツクシへもたれかかった。

 ワイン・ボトルの注ぎ口が杯から逸れて卓に赤い液体がこぼれ落ちる。

「おう、酒がこぼれたじゃあないか、もったいないだろ」

 ツクシは卓上を濡らした赤ワインを見やって眉根を寄せた。

 血のような色合い――。

「――いや、俺は一番肝心なことを訊いてなかったぜ。女王様よ、吸血鬼が下僕を吸血し続けると下僕はいずれ吸血鬼に出世するんだったよな?」

「うんにゃ、吸血鬼になれぬ下僕もいゆよ。あれは適正があゆから。どうやっても魔導の胎動が定着しないものも、結構、多いのら――」

 フロゥラはツクシへ全体重を預けながら赤ワインの杯を手にとった。

「そこが重要だぜ。吸血鬼の適正が無い下僕は、どうなるんだ?」

 ツクシはまだ卓にこぼれた赤いワインを見つめている。

「普通に年齢を重ねて、普通にひととして死ぬ。下僕には弱い魔導の胎動があるらけらから肉体への影響力も弱いゆや。ほっておくと魔導の胎動もすぐ消えひゃう――」

 ワインを飲むフロゥラの青白い首は細く、それは、普通の女性と変わらないものだった。

「なるほどな。適正の無い下僕は吸血鬼より先に寿命で死ぬのか――」

 ツクシは呟くようにいった。

 ツクシはゴロウから聞いたメイベル村の吸血鬼のことを考えていた。

 ゴロウのことも考えた。

「吸血鬼同士の夫婦なら、永遠に添い遂げられゆ」

 いい終わるのと同時に、フロゥラが崩れ落ちそうになった。その青白い肩をツクシの手が支えた。フロゥラがツクシの不機嫌な顔を見上げた。

 今、吸血鬼の女王の瞳に魔の炎は揺れていない。

 女王の仮面もつけていない。

 そこにあったのは、ただ一人の女の美貌だった。

「――それで本当にすべてが上手くいくのか?」

 ツクシが訊いた。

 その三白眼に白い刃のきらめきが宿っている。

 それは、瞳に映る偽りをすべて斬り裂く眼光だった。

 吸血鬼の女王は息を呑み、常闇の瞳を伏せた。

 長い睫が深夜の瞳へ影を落とし込むと、そこにある闇が一層と濃いものになる。

「――らが、だ。吸血鬼同士で吸血しても血への渇きは決して癒せん。魔導の胎動が欲するのは魔導に染まっていない血なのら。らから、吸血鬼同士が夫婦になっても必ずお互いが下僕を作ゆ。たくさんの愛人や、恋人や、友人を作ゆ。それだから吸血鬼の夫婦は上手くいかなくなゆ――」

 フロゥラは唇から月下美人の嘆息を漏らした。

「お互いが必要に差し迫って浮気をするのか――」

 ツクシはフロゥラの肩から手を離した。

「――うにゅ」

 弱い返事と一緒にフロゥラが、ツクシからその身を離した。

「――呪われてるな」

 ツクシは赤ワインの杯を呷った。

「うにゅ。呪われてゆのら。吸血鬼同士は夫婦になゆと絶対に上手くいかんのら。不朽体アンコラプトは肉体が老化せんのら。らから、肉体の成長が必要な子供――子孫を残すことも吸血鬼にはできんのら。吸血鬼が夫婦の契りを結んだところで結果は絶対に残せん。それが永く時間がかかゆこともある、短い時間で破局にすゆこともある。らか、吸血鬼と吸血鬼が築いた絆は、いずれ、必ず、破綻すゆ。何かを得ることは、何かを失うこと、それが、自然の決めた――ことわりが定義した――忌々しい原則なゆた――」

 フロゥラは酒に屈服してパタンと卓に突っ伏した。

「それでも、俺へお前の旦那になれっていうのか?」

 勝利を確信したツクシは口角を歪めている。

「うん、そうら――」

 フロゥラが顔を上げる気配はない。

「ああ、おい、女王様、大丈夫か。急性アルコール中毒は怖いからな。俺が学生時代の話だぜ。飲みなれない酒を無理に飲ませたら、息が苦しいとか何とかいって、呼吸を切らしながら顔を真っ青にした奴がいてなあ。あのときは、そいつを水風呂へ叩き込んで、何とか事なきを得たが(※素人療法。救急車を呼びましょう。そもそも未成年が飲酒をしたら絶対にいけません)――」

 これはちょっとやりすぎたかな――。

 焦ったツクシがフロゥラの肩へ手をかけた瞬間である。

 青く、白く、しなやかな指先が、裸の肩口にあるツクシの手をやわく掴んで、

「ツクシの部屋は、この上なのらろ。私をつれてゆけ。私をそこで乱暴にしゆ。メチャメチャにしゆ。そういうのも、らいしゅきらから――」

「おっ、くっ、おう! おっ、俺の貸し部屋は女人禁制でな。げ、厳禁なんだよ、マジで――」

 ツクシは渾身の不意打ちを食らって顔を強張らせた。

 その意思が挫ける寸前、

「例え、それでも、一緒にずっと――」

 フロゥラはその危険な瞳をまぶたで閉じた。

 あとに聞こえるのは女王様の寝息だけだ。

 ツクシは安堵と未練が入り混じる溜息を吐いた。

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