十七節 女王の行進曲(伍)

 ツクシはねずみのしっぽをブンブン振りながら、チュウチュウ部屋から出てゆくポレットを見やりつつ、

「女王様よ、外からネストへ道を繋げたのは、ポレットたちなのか?」

「――うん」

 フロゥラはツクシの不機嫌な横顔を見つめたまま短く応えた。

 女王様は獲物を狙う目つきである。

「うん、って女王様、気軽にいってくれるけどよォ――」

 ゴロウは食い入るようにツクシの横顔を見つめるフロゥラを見つめた。

「赤髭はゴロウだったな。ワーラット族は意図して、ねずみの地下通路をネストへ繋げたわけではないよ。穴を掘っていたら自然と突き当たったのだ。何しろワーラットは一日中、穴を掘っているからな」

 フロゥラが笑った。

「うーん、やっぱり事故っすか――」

 ヤマダは苦笑いだ。

「女王陛下、ちょっと待ってくれ。ネスト内部に外への出入口があるのなら、何故、ネストに沸く異形種ヴァリアントは地上へ出てこないんだ?」

 ゴードン兵長は真剣な顔つきだった。

「――あ、もしかして!」

 ロッシ一等兵がフロゥラを凝視した。

「若いほうはロッシといったか、勘がいいな。そうだ、ワーラット族とて自衛のためなら戦う。ラット・ヒューマナ王国はネストの異形軍と戦争状態にあるのだ。もっとも、どちらが宣戦布告したわけでもないが――」

 瞳を細めたフロゥラがロッシ一等兵を見つめた。ロッシ一等兵は頬を赤く染めながら、硬くなった身体全体をずらすようにして視線から逃れた。

 フロゥラと長く目を合わせるのは危険なのだ。

「なるほどな。ネストで異形種と戦争をしていたのは、王国軍だけじゃなかったってわけだ。それでネストの内部に出入口があっても異形種が地上へ出てこれなかったのか」

 ツクシは真正面を向いていった。

 その横に座るフロゥラはツクシへほぼ全体重を預けて、その横顔を見つめていた。

 ツクシは真正面を向いている。

 無表情である。

 フロゥラは無表情のツクシの肩口へ頬をすりすりしながら、

「うん。ネストの内部には、いくつか出入口があるよ。しかし、大半はラット・ヒューマナの生活圏防衛軍が閉鎖中だ。浅い階層の出入口までは、なかなか手が回らないようだが――」

「ネストの内部にある出入口は、どこへ繋がってるんだ?」

 ツクシは戻ってきたポレットを見やった。ポレットが運んできたお盆の上には、グラスと氷と水、ラムの瓶に、冷たいジン・トニック、エールの入ったタンブラーに、おつまみを盛った金色の大皿――。

 ツクシの喉仏が動いたのを見たフロゥラがぱっと笑顔と牙を見せて、

「ねずみの地下道は王都の地下道へ続いている。使われなくなった下水道や上水路、旧文明時代の地下道――まあ、概ねは地下の廃路だよ。旧文明時代の遺跡へ繋っている道も多いのだ。色々珍しいものがあって面白いぞ。ツクシ、今度、私と一緒に見に行くか、今からでもよいぞ、ん? ん?」

 あと一押しでこの男は私の手に堕ちる。

 フロゥラはそんな錯覚したようだ。ポレットは各々が注文したドリンクをチュウチュウ配ると、ドライ・ルーツだとかナッツ類、それにチーズとサラミ・ソーセージなどを盛り合わせたおつまみの大皿をテーブルの真ん中へ置いた。

「ラム酒か、久々に飲むなァ――ところで女王様よ、地下で暮らすワーラットはともかく、何で吸血鬼がネストにいるんだ? 俺ァ、北部で一回だけ吸血鬼を見たことがある。でも、王都で吸血鬼を見たなんてのは、これまで一度も聞いたことがねえぜ?」

 ゴロウがラム酒の冷たいグラスを手にとった。

「ああ、そうだそうだ、それを忘れていた。おぬしらのなかで誰でも良い。タラリオンの王都で――この地上でだな、吸血鬼を見かけなかったか。そんな噂をがあるだとか、そんな話でもいいのだが?」

 フロゥラがその唇へジン・トニックの背の高いグラスを寄せている途中、質問に質問で返した。

「吸血鬼の女王様にそう訊かれてもなあ――」

 ツクシは口角を歪めて、氷で冷えたラム酒を喉へ流し込んだ。

 ラムの甘い芳香が舌と鼻へ一息で広がって喉が焼ける。

「ああよォ、それこそ、こっちが訊きたいことだぜ――」

 苦笑いのゴロウもラム酒を一気に喉へ流し込んだ。

「吸血鬼に関しては、こっちからいうことが何もないっすよね――」

 ヤマダは濃い茶色に色づいたラム酒のボトルを睨んでいた。

 どう見ても、このラムは樽で熟成されたものだぞ。

 蒸留酒の樽熟成技術は、もうウチ(※ボルドン酒店である)の専売特許でなくなりつつあるのか。

 これは、すぐにでも我が社の経営戦略を見直さないと――。

 ヤマダはそんなことを考えている。ダーク・ラムはラム原酒を寝かせて熟成させた酒である。ヤマダはドワーフ族のボルドンと酒屋の共同経営をしているので他社の商品にとても敏感だ。

「兵士の間で噂になっていたのは、ネストの家政婦――カレラのことだけだったな。吸血鬼の話は出ていなかった」

 ゴードン兵長がラムのグラスを傾けながらロッシ一等兵を見やった。

「そうっスね。聖教会の連中が来てからだったスね、吸血鬼の話題が兵士の間に出始めたの。地上だと――どうなんスかねえ。俺たちみたいなネスト制圧軍団に配属されている兵員はフロント・ライン(※ネスト最下層の戦場)と、管理省内の基地を行ったり来たりなんで、地上のことにはどうしても疎くなりがちなんスよ」

 ロッシ一等兵がエールのタンブラーに口をつけた。

「本当におぬしらは心当たりがないのか。ニバス・デメルクという名の吸血鬼だ。見た目は若い男だよ」

 フロゥラが大皿の上のドライ・アプリコットを指先でつまんで、ツクシの口元に突きつけた。フロゥラはあーんと口を開けて牙を見せている。これを女王様の手ずから食え、ということらしい。

 ツクシは獲物を狙う鋭い牙を横目で眺めながら、

「ニバス・デメルク。女王様はその吸血鬼を探しているのか?」

「そうだ」

 フロゥラの指がツクシの口へドライ・アプリコットを捻じ込んだ。

「――ほうして(どうして)?」

 モゴモゴとツクシが訊いた。

「その男は身内の恥でな。今から一年ほど前の話だ。大地下墓地宮殿メガロ・カタコンベ・パレスからニバス・デメルクとルーク・イド・ドラゴウンが一緒に逃亡した」

 フロゥラの視線がツクシの不機嫌な顔から外れた。

 ツクシはドライ・アプリコットをラム酒で流し込んで、

「ルーク・イド・ドラゴウン? あの屍鬼の魔導師アンデッド・メイガスと一緒に吸血鬼が大地下墓地宮殿――屍鬼の国から逃げただと? それはどういうことだ?」

「そうなると、吸血鬼は屍鬼の国にもいるのかァ?」

 ゴロウが眉根を寄せた。

「うん、私の本宅もそこに――屍鬼の国にあるよ」

 サラっと応えて、フロゥラが大皿にあったナッツを白い指先でつまんだ。フロゥラはそのままツクシの不機嫌な横顔をじっと見つめた。

 ツクシはむっつり口を閉じている。

「へええ、それは初耳っすよ。屍鬼と吸血鬼は仲がいいんすか。じゃあ、フロゥラさんは、屍鬼の女王様とも仲良しなんすか?」

 ヤマダの質問だ。

 そのヤマダは腕組みをしてまだラム酒の瓶を睨んでいる。

「黒ぶち眼鏡は確かヤマだったな。屍鬼の女王? ああ、イデア・エレシュキガルのことか――イデアは私の恋敵だ。大昔の話だがな。今は私の友人かな? 仲良しではないかも知れんな――」

 フロゥラが視線を落とした。フロゥラの視線が外れた隙に、ツクシがグラスを口に寄せた。むっと眉を寄せたフロゥラが酒を嚥下するツクシの横顔を睨んだ。フロゥラの指の先にまだナッツがある。

「――恋敵?」

 ゴードン兵長は苦笑いだ。

「よ、よくわかないっス。屍鬼ってだいたい喋れないっスよね。呻いたり唸ったりするだけじゃあないっスか、それが友人?」

 ロッシ一等兵が呻いた。屍鬼といわれるとゴードン兵長とロッシ一等兵に良い印象はない。ツクシたちだって屍鬼に対して良い印象はまったくない。

「うん、屍鬼といっても、ルーク・イド・ドラゴウンが作った出来損ないの屍鬼と、屍鬼の国の屍鬼はまるで違うぞ。まあ、イデアも失敗作をよく作るがな――」

 フロゥラの顔が苦いものになった。

「――そうなのか?」

 ツクシは下を向いて考え込んだ。

 フロゥラの私室に集った一同の会話がそこで途切れた。

「――まァ、この際、屍鬼の話は置いておこうや。そのニバス・デメルクって名前の吸血鬼を探しに女王様は王都へ来たってわけだよな?」

 ゴロウが沈黙を破った。

「そうだ、ゴロウ。だが、それがなかなか見つからんのだ。ねずみどもやロードに頼んで方々当たってはいるのだがな。ヒト族が活動するのはやはり昼が多いだろう。情報を収集しようにも吸血鬼とは時間帯が合わんのだ。ねずみは陽の光が苦手だから地上に出るのを嫌がるしな。それに、王都には聖教会の総本山があるし、陽の下に出れるのは私だけでもあるし、私だって昼間は少し眠いし――」

 フロゥラは段々といじけた口調になった。

「女王様よ、そのニバスっていう吸血鬼はそんなに危険な奴なのか?」

 ツクシが空のグラスを置くと控えていたポレットが氷を入れてラム酒を注いだ。

「うん。ニバス・デメルク自身は血族を作ることができん若い吸血鬼なのだ。だが、ニバスは私の本宅――大地下墓地宮殿メガロ・カタコンベ・パレスから面倒なものを盗んでいった。『独裁者ディクタートルのブレスレット』という名の魔導式具だよ」

 ツクシにぴったりと身体を寄せてゆるんでいたフロゥラの顔が変化した。

 瞳を魔炎で燃やしたフロゥラは捕食者の顔を見せている。

 ツクシは凄みを増したその美貌を横目で眺めながら、

「へえ、その道具は武器か何かか?」

「うん。いや、あの道具はひとを傷つけはせん。だが、他人の心を支配する強い魔導式を持っている。効力が見え辛いがかなり厄介なシロモノだ。あれはその昔、イデアがこさえたものなのだがな。『これ性能が陰気すぎるから気に食わないの!』とかなんとかで、うっちゃってあった。よりにもよって私の本宅に――」

 フロゥラの口振りを聞いている限り、屍鬼の国の女王様――イデア・エレシュキガルは、かなりの暴君であらせられる様子である。

 ゴロウがねずみの手でグラスへ注がれるラム酒を睨みながら、

「人心支配の魔導式。なるほどなァ、それは、かなり面倒だなァ――」

 導式と魔導式の知識が深いゴロウは何か心当たりがある様子だ。

「うん、そこでだ。私はヴァカンスついでに王都へニバス・デメルクを探しにきたのだ」

 深く頷いたフロゥラがジン・トニックが注がれた背の高いグラスを傾けた。

「ヴァカンスっすか――?」

 ヤマダは苦笑いである。

「はっはっ!」

 ゴードン兵長は短く笑った。

「いい加減すぎじゃないっスか――」

 ロッシ一等兵は呆れ顔だった。

「くっ――せっかくの休みに、聖教会の連中が手ぐすねを引いて待ち構えている場所になんぞ、私だって来たくはなかったのだ。だが、イデアの奴がな、『物品の紛失はフロゥラの管理不行き届きなの、昔から貴方は備品の管理にだらしないの!』とかなんとか、毎日毎日、ガミガミガミガミ私を煩く責める。私は大地下墓地宮殿で居候の身でもあるし、少し肩身が狭いというか、たまには王都へ買い物に行きたいなとか――」

 フロゥラが愚痴っぽくなった。

「しかし、女王様よ。何で吸血鬼がねずみと――ポレットたちと一緒にいるんだ?」

 ツクシがテーブルの脇に控えたポレットを見やった。

 屋内なのでシルクハットはかぶっていない。

「うん、それは――」

 フロゥラが視線を送ると、

「――吸血鬼とワーラットは太古から盟友の関係なのだ、チュウ!」

 ポレットが話を繋げた。

「へえ、吸血鬼とワーラットは仲が良いのか――」

 ツクシは鼻先をひくひくさせながら自分のグラスへラム酒を注ぐポレットを見つめた。

「ヒト族には知られていないようだが、ワーラット族の人口はかなり多いのだよ。地下のたいていの場所にワーラット族がいるのだ。私の他の吸血鬼は陽の下に出られん。だから、移動するときはワーラットの地下道を拝借するものが多い。それで自然と交流ができた。だがまあ、ここへ来て異形種ヴァリアントとの戦争に手を貸すことになるとは思いもせなんだが――」

 フロゥラは唇の端を歪めてポレットを見やった。

 ポレットは申し訳なさそうな様子でチュウと下を向いている。

「――なあ、ポレット」

 呼びかけたツクシがポレットが注いだラム酒の入ったグラスを手にとった。

「ツクシ、何だ、チュウ?」

 ポレットはラム酒のボトルに栓をしながら顔を向けた。

「お前ら、どこからどこまで穴を掘って繋げているんだ?」

 ツクシの眼光がポレットのねずみ面に突き刺さる。

「チュ、チュチュチュチュウ?」

 ポレットがねずみの言葉で応えた。小刻みに震えるポレットの胸元にある蝶ネクタイの中心で琥珀色の秘石ラピスが輝いている。これは、ツクシやヤマダが使用している翻訳用の導式具――虎魂のネックレスのペンダント部分についた秘石と同じものだ。よくよく見ると、そのなかでは導式がきらめきながら機動をしているので、その通訳用の導式具が突然壊れてしまったわけではない。

「――ま、まさかよォ」

 ゴロウのダミ声が裏返った。

「屍鬼の国からタラリオン王都まで?」

 ヤマダは表情を固めてポレットを凝視している。

「ワーラット族は屍鬼の国からドワーフ公国の坑道を通って、王都の地下まで自分たちの地下道を繋げているのか?」

 ゴードン兵長が尋問するような調子で訊いた。

「ほ、本当に繋げてるんスか!」

 ロッシ一等兵が叫んだ。

「チュウ、チュウ、チュ、チュウ?」

 ガクガク全身を震わせたポレットが、腰に吊るした革袋を手にとってナッツを口へ放り込んだ。ボリボリという音だけが沈黙した部屋で響く。

 ラム酒を一気に干したツクシが、

「どうやって金を稼いでいる?」

「うん? 私か? 私にとって金はいらんといっても他人から貢がれるものだ。稼ぐ必要なんぞはない。今も昔もな」

 自身の肉体をツクシの上に乗せた形になっているフロゥラが小さな声でいった。

 小さな声でもツクシへ聞こえる距離にフロゥラの妖しい美貌がある。

「いや、ワーラット族だ。ラット・ヒューマナ王国っていうワーラットの国があるんだろ。ワーラット族に収入源がないと国家の税収は保てん。服装を見る限り、ポレットだって結構金を持っていそうだしな。王都ではドワーフ公国と違って坑道掘りの仕事はない。ワーラット族は地上でほとんど姿を見ないが収入は間違いなくある。ここで問題だ。ワーラット族は何を仕事にして金を稼いでいる?」

 ポレットはナッツを必死に噛み砕いて騒音を立てているが、ツクシの低い声は良く通る。

「ああ、ツクシ、ねずみの地下運送だよ」

 フロゥラが回答を出した。

 それで、ピターンとポレットの動作が止まった。

「地下運送だと?」

 ツクシが不機嫌に唸った。

「うん、ワーラット族は地上で頼まれた荷を地下道で運んでいるのだ。毎日な」

 フロゥラがさらっといった。

「チュチュ、チュウチュチュウ!」

 ポレットが悲鳴を上げて首を左右にカクカクと振りながら周辺を警戒し始めた。この場に誰もポレットを攻撃するものはいないのだが、攻撃されている気分になっているようである。

「わざわざ地下道を使って、わざわざ地上の荷物を運ぶのかァ?」

 ゴロウが高速でカクカクするポレットを睨んだ。

「うーん、それはもしかすると――」

 ヤマダはラム酒の水割りを舐めながら深刻な顔だ。

「ああ、なるほどな――」

 ゴードン兵長がソファの背もたれへ体重を預けた。

「み、密輸っスか、ワーラット族は国境を越えた密輸を仕事にしているんスか!」

 ロッシ一等兵が結論を出した。

 ねずみの返事はない。

 うなだれたポレットは革袋のナッツを少しづつ口へ入れている。

「道理でモノに不自由がないお屋敷のわけだぜ――」

 ツクシがフロゥラの私室に並ぶ豪華な調度品の数々を眺めた。

 最終的に目を留めたのは、酒の瓶がずらりと並ぶ豪華なバー・キャビネットである。

「あァ、ディダックはそっちに――ねずみの密輸業に一枚噛んでたのかもなァ――」

 ゴロウはおつまみのチーズを口のなかで転がしながら呟くようにいった。

「ゴロウ、ディダックとさっきのゴブリン爺さんは盗賊ギルドってやつか?」

 大皿の上のおつまみに眺めていたツクシは、サラミ・ソーセージの薄切りをひとつもらおうかなと考えていた。しかし、横からツクシの口へフロゥラが指でつまんで突っ込んできたのはナッツだった。

「あァ、ツクシも感づいていたのか。あのゴブリンの爺さん、たぶん盗賊ギルドの偉いひとだぜ。ディダックだって、そこいらのチンピラじゃねえからなァ――」

 ゴロウが顔をツクシへ向けた。正確にいうと、ゴロウはツクシの不機嫌な横顔とツクシへねっとりとまとわりついているフロゥラへ視線を送った。

 ツクシは口のなかのナッツを不機嫌に噛み砕いたあとで、

「悠里から聞いたことがある。盗賊ギルドってのは異世界こっちでいう広域暴力団だってな。なるほどあれは堅気じゃねェ。そうすると、あの爺さんは組の会長ってところか――」

 そこで、会話が途切れた。

 フロゥラの私室にある置時計にある昼夜を示すからくり細工の、笑い顔が描かれた三日月が地平線へ沈もうとしている。

 夜明けは近い――。

 フロゥラはツクシの胸元へ顔を埋めながら、

「――うん。おぬしら、やはり、ニバス・デメルクを知らんのか。なかなか地上の連中と話す機会がなくてな。ネストにいる兵士は案外と世情に疎いのだよ。つれてきてもつれてきても、あまり役に立たんのだ。それで、おぬしらを別荘ここへ呼んだのだが、うーん――」

 フロゥラの声が眠そうだ。

「すまんが、そっちの件――吸血鬼のニバス・デメルクに関しては俺たちに訊いても、さっぱりだぜ。噂すら聞いたことがない」

 語る態度はふしだらだが、フロゥラの声色は深刻なので、少し気の毒になってきたツクシが謝った。

 酒をご馳走になった手前もある。

「――だから、私に手を貸せ、未来の旦那よ」

 シュッと顔を上げたフロゥラがツクシへ妖しい美貌を接近させた。

 その瞳を見てツクシが顔を歪めた。

 また誘惑の魔導式陣がビュンビュンと回転している。

「そういわれてもなあ――ああ、ひと探しなら、あいつが使えるか?」

 ツクシが顔を背けて呟いた。

「あいつ?」

 フロゥラが眉をぐっと寄せて不満を伝えつつ話を促した。

「女王様よ、俺の知り合いにジークリット・ウェルザーっていうクソ野郎がいる。そいつと取引してみたらどうだ。ジークリットはネストにある表とは別の出入口――ワーラットが使う出入口を知りたがっていた。あれは食えない小僧だが、あんなのでもタラリオン王国軍のお偉いさんらしい。ジークリットのクソ野郎は、おかしな諜報機関を手足のように使っているから情報通でもある。だから、ひと探しなら俺たちに訊くよりも、ジークリットと話をしたほうがいいかも知れん。それに、どうも、ジークリットは屍鬼の女王様に頭が上がらないみたいだ。女王様同士で仲が良いってさっきいってたよな。それなら、ジークリットを好きなだけ虐めてやれ」

 ツクシが口角を邪悪に歪めて見せた。

「うんっ、ジークリット・ウェルザー? あっ、大地下墓地宮殿で何度か見かけたな。王国の騎士のっ、三ツ首鷲といったか。ああっ、それ、すごくいい――」

 蕩けた表情かおのフロゥラがツクシの悪い顔を見つめた。


 §


 吸血鬼の女王との会談を終えたツクシたちは輪廻蛇環ウロボロス号で、下りエレベーター・キャンプまで送ってもらった。下りエレベーター・キャンプへ得体の知れない巨大蒸気機関車を横づけすると大騒ぎになる。少し手前でツクシたちは列車から降りた。フロゥラも帰りの客車に同乗していた。ツクシたちはやれやれといった表情で路面へ足をつけたが、ゴードン兵長だけは客車のタラップを降りる前に足を止めて、

「俺はこの女王陛下のもとに残る」

「何をいっているんスか兵長!」

 ロッシ一等兵が目を丸くした。

「もう決めたんだ」

 ゴードン兵長は笑いながらいった。

「じょ、冗談っスよね、ゴードン兵長!」

 ロッシ一等兵の顔が強張った。

「ロッシ、受け取れ」

 ゴードン兵長が水筒を放った。

「――とっ」

 ロッシ一等兵が飛んできた水筒を受け取った。

「戦場で飲む酒にはもう飽きた。女王陛下、俺を吸血鬼の下僕として雇ってもらえるか?」

 ゴードン兵長が後ろにいたフロゥラへ顔を向けた。

「――望んで来るものを闇は拒まん。だが、吸血鬼はそう良いものではない。我らの領域に入ればヒトへ決して戻れんぞ。その覚悟はできているのか?」

 フロゥラがいった。時刻は明け方であったが、吸血鬼の女王の声は未だ夜露に濡れ、瞳には夜霧が濃く晴れることはなく、その肉体は夜闇をまとっていた。

 フロゥラは捕食者の表情をゴードン兵長へ見せている。

 ゴードン兵長は魔の眷属の美貌をしばらく眺めたあと、

「――いいんだ。俺はひととして戦うことにもう飽きた」

 その男は闇に怯まなかった。

「うん、ならば、よかろう。私の下で己の欲望に沿って生きるがいい。おぬしの姓と名は――」

 フロゥラが微笑みを浮かべた。

「ウィリアム・ゴードン」

 ゴードンは主人へ笑みを返した。

「ウィリアム・ゴードン。夜の世界へようこそ。歓迎する」

 フロゥラとゴードンの姿が客車に消えて扉が閉じる。

 黙ったままその様子を眺めていたツクシが、

「奴を止めないのか、ゴロウ」

「――まァ、男の一大決心だからなァ」

 視線を落としたゴロウがそれだけいった。

 ツクシは感情が交錯した苦笑いを浮かべる髭面から視線を外した。

 決心をしなかったことで、ゴロウには後悔がある――。

「決心、っすか――」

 ヤマダが車窓から見えるゴードンの雄臭い横顔を見つめた。

 ゴードンの対面席に女王陛下の美貌がある。

「――ゴードン兵長!」

 ロッシ一等兵が車窓の下まで歩み寄った。

 車窓から顔を出したゴードンが笑って、

「ロッシ、お前はまだ若い。ネストで死ぬなよ」

「ゴードン兵長、本当に行っちゃうんスか――」

 ロッシ一等兵は言葉に詰まった。

「ロッシ、戦場で死ぬんじゃないぞ」

 ゴードンがそういったところで、汽笛が鳴り響いて冥界の列車が動きだした。

「これ、この水筒を俺に渡されても、俺、強い酒は全然――」

 ロッシ一等兵は列車を追いながら水筒を振りかざした。

「いずれ、お前も飲めるようになる。軍に、戦争に――国家に殺されるな、ロッシ。それは、つまらんぞ!」

 古強者ゴードンが餞別の言葉を叫んだ。

 汽笛がもう一度鳴って大通路は水蒸気にけぶった。

 ウィリアム・ゴードンは笑顔でひとの領域から去っていった。

 列車を追う足を止めたロッシ一等兵は手元の水筒を見つめた。

 それは去った男のスピリッツが入った水筒だった。


(五章 香る光の処女 了)

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