十三節 抗争と和解
午後六時過ぎだ。
ツクシとニーナが入店するとゴルゴダ酒場宿は満席だった。もっとも、足を踏み入れる前から外へ漏れ聞こえる喧噪の大きさで状況は想定できた。隊商や冒険者といったような、半分堅気半分ヤクザな男どもが席を埋めて、飲む、食う、騒ぐ、喧嘩すると、今宵もゴルゴダ酒場宿は大賑わいである。
「――陽が落ちると本当に賑やかね。座れるかしら?」
ニーナがキャベリンを手にとった。
「ああ、クソ、今日は週末だからな。こっちじゃ
先客に席を詰めてもらうか――。
そう考えたツクシはカウンター席へ目を向けたのだが、そこもすし詰め状態で酔客が並び、二人が割り込むのは難しそうな気配だった。
ツクシとニーナが正面出入口で突っ立っていると、ミュカレがほわほわと寄ってきて、
「そうよ、忙しいのよお、グェンたちが朝からまたいないの――へえ、ツクシ、『今日は』ニーナさんと一緒だったの、ふーん!」
声をかけたのはツクシだったが、ミュカレの瞳はニーナを見つめていた。
ほぼ、睨んでいる。
「ええ、一日中、ツクシと私は一緒だったのよ、ミュカレさん――え? 『今日は』って何? ツクシ、『今日は』って、どういうこと?」
ニーナはツクシを睨んだ。
「ニーナ。そういう細かいことを気にしだすと、ストレスで肌が荒れたりすると思うぞ――」
ツクシは真横を向いている。
「おい、エルフのおねえちゃん、酒、酒!」
「おーい、こっちも酒が足りねえぞ!」
「こっちも頼む、早くしてくれよ!」
客席の方々から注文の声が相次いだ。
「はぁい、もぉお、今日はマコトまでいないのよお――」
ミュカレが愚痴と一緒にふわりと背を向けた。
ツクシが厨房へ向かってステップを踏むミュカレの背に、
「あ、ミュカレ、ユキはどこにいる?」
「今夜のユキは銭湯の釜炊きにまわってる、どこもかしこも人手不足なのよお!」
振り向かずにミュカレが応えた。
「本当に忙しいみたいね」
ニーナが笑った。
壁際の丸テーブル席で――ツクシたちがよく使う席だ――杯を傾けるリカルドを発見したツクシが、
「ああ、壁際のテーブル席で、リカルドさんが飲んでるぜ。へえ、フィージャもいるのか。もう一人は誰だ? まあいい。ニーナ、親父さんと合い席にしてもらおう」
ツクシはニーナへ声をかけたのだが、そこにニーナはいなかった。長いスカートを指でつまんで裾を上げた(こうしないと歩き辛いらしい)ニーナが、白い花柄のレース生地を使った
「おう――」
ツクシはその場にぽかんと突っ立っている。
「――フゥム、なるほど、ウェスタリア大陸はそのような状況になっておるのか。それは大変だったよな」
リカルドは何やら同情している様子だった。
「お父様、ここで何をやっているの?」
ニーナがいった。
その声色は低く重く、非情な感じの物言いである。
はっ、と顔を上げたリカルドが、
「――ニ、ニーナ、何故ここに! 今夜は遅くなると、今朝、我輩に告げたではないか。さ、さては自分の父親を
ニーナは眉尻と目尻を高々と吊り上げて、
「くだらないことをいってないで、すぐ家に帰るわよ!」
大憤慨するニーナに驚いて、リカルドと同席していたフィージャと白い長髪の女性は目を丸くしている。
リカルドは遅れて歩み寄ってきたツクシへ、
「まっ、待つのだ、ニーナよ。おお、ツクシも一緒なのか。そうだ、ここで一緒に夕食を――」
「そんなたくさんお酒を飲んで、また咳が――病気の発作が出たらどうするの。お酒を飲んでいるときは、お薬の効き目が弱くなるって、ゴロウだっていってたじゃない――」
ニーナの声が震えている。
一呼吸分だけ考えたツクシはニーナの味方をすることに決めた。
「なあ、親父さん、人目のあるところで娘を泣かせるなよ」
「――ウム、今日は、これで終わりにしよう」
リカルドは立ち上がったが、その視線は自分の杯に半分ある赤ワインに未練がましく残っている。その卓上に赤ワインの空瓶だけで四本も並んでいた。
これだけ飲んで、まだ酒が足りないのか、このオッサン。
大概にしとけよ、病気云々を抜きにしても身体を壊すぜ――。
ツクシは娘を泣かせてまで大酒を飲むリカルドを凝視した。
そういっても、ツクシ自身の酒量もリカルドと似たようなものであって――。
「ごめんね、ツクシ。今日は私、お父様と一緒に帰るから――」
ニーナが笑みのない顔をツクシへ向けた。
「ニーナもそんなに怒るな。男には息抜きが必要なときもあるんだ」
ツクシはカウンター・テーブル越しにのエイダへ勘定を支払っているリカルドを眺めている。
「それ、男のひとに限った話じゃないわ。ホント、自分勝手なんだから――」
ニーナはツクシの横顔から視線を外した
「――そうだな。お前が正しい。気をつけて帰れ。今日は助かったぜ、ニーナ」
ツクシは口角を歪めて見せた。
「――ん、またね」
ニーナが赤い唇に弱い笑みを浮かせた。
ツクシはお互い沈黙してゴルゴダ酒場宿をあとにするリカルド父娘を黙って見送った。
「ツクシさん、突っ立っていないで、座ってください」
「ツクシ、早くここに座れ。遠慮するな」
ツクシの背に声をかけたのは、リカルドと同席していた普段着のフィージャと、肉体に貼りつくような山吹色のドレスを着た白い長髪の女性だ。
「ああ、そうするか。フィージャと、ええと、そっちは誰だったか――?」
腰を落ち着けたツクシが白い長髪の女性を見つめた。
その
うーん、どこかで見たことあるよな――。
ツクシがまだも白い髪の麗人を見つめていると、そこにある桜色の唇が開いて、
「ツクシ、もう俺の顔を忘れたのか?」
「――まさか、お前、リュウなのか?」
ツクシが表情を消した。
この麗人はあのリュウである。
「ああ、そうだ」
リュウは締まった笑みを唇に浮かべた。
「女だったのかよ、お前――」
ツクシが呻いた。
少し間を置いて、瞳を伏せたリュウが、
「やっぱり、ツクシも俺を男だと思っていたのか――」
リュウの暗い声だ。桜花のようなまぶたを持つリュウがうつむくと、その目元から女の色香がゆらゆら流れ出す。
ツクシは顔を強張らせて、
「ああ、いや、リュウ、気を悪くするな。お前は自分のことを『俺』といってたから、勘違いをした。しかし、なんでリュウは男のフリをしていたんだ?」
「いや、俺は特別、女であることを隠してはいない。確かに男のような
リュウは自分の胸元を見やった。
ツクシもリュウの視線の先へ目を向けた。
確かにリュウの乳房は貧相な感じだった。リュウは肉体に密着するようなドレスを着ているので小さな胸が余計に目立つ。しかし、ドレスの長いスカート部分には大胆なスリットが入っていて、そこから覗く白いふとももが女性を主張していた。
「リュウ、その喋り方で勘違いされるのだと思いますよ」
フィージャが慰めるような調子でいった。
リュウは顔を上げない。
気まずくなってきたツクシが、
「そっ、そうだ、そうだな、フィージャ。リュウ、たぶん、その胸は関係ないぞ。小さいのが好きな男だっているからな。まあ、全体から見れば、小さいのが好きな男は少数派なのかも知れんが、俺だってあまり、おっぱいの大小は気にしないほうだぞ。まあ、多少は気にするが、が――」
不穏な気配を察したツクシは言葉を切った。
フィージャが目を丸くしてツクシを見つめていた。
キキキッ、とうつむいたリュウの歯噛みする音が聞こえる。
視線をウロウロさせながらツクシは続けた。
「ああ、いや、違う違う。そんな話じゃねェ。リ、リュウの苗字が
ツクシは弁が立つ男ではないのである。
リュウがツクシを本気で睨んでいた。
少し間を置いたあとで、
「――ドラゴン? ああ、ツクシ、それは、たぶん字が違うぞ。俺の姓の『劉』は
不貞腐れた態度のリュウが杯のワインを一気に飲み干して酒に焼けた吐息を吐いた。
「ツクシさん、リュウは武人の家柄の生まれなんです。劉家は代々、
フィージャが補足説明をした。
「それはそれで厳つい苗字だな。お、悪いな、ミュカレ」
ツクシの前にミュカレの手で杯が置かれた。
杯の中身は冷たいピルスナーだった。
ミュカレは人外の美貌をツクシの顔に横付けして、
「ニーナさんが帰ったと思ったら、ツクシの相手はまた違う女の子なの?」
「あのなあ、ミュカレ。こいつらは、ええと、何だ――ああ、職場の同僚だぜ。リュウとフィージャっていうんだ」
ツクシが横目で視線を送るとスカイ・ブルーの瞳が真っ平に病んでいる。
ユキがミュカレに余計なことを吹き込んでないといいんだがな――。
ツクシは心配になってきた。
「それはさっき、リカルドさんから聞きました。リュウさん、フィージャさん、それにツクシさん、他にご注文は?」
ミュカレが姿勢を正して頬にかかった髪を手で払うと、腰まであるプラチナ・ブロンドの髪が輝きながら宙を舞う。
いい女なら、ここにいるわ!
そんな感じのポーズである。
「もう一杯もらおう。さっきの酒がいい、ウイシュキといったか?」
もう相当な量を飲んでいるようだが、リュウは酔っている気配がない。
「私はお水を」
フィージャは酒がさほど好きではないようだ。
「ミュカレ、俺は軽い食い物を頼む」
ツクシはたいして旨くないがやたら高額だった二番区の昼食を思い出して顔を歪めた。
「はぁい、承りました」
ミュカレが間延びした返事と一緒に背を向けた。
「――武人か。そうすると、リュウは軍人の家庭で育ったんだな。それで喋り方が男っぽい」
ツクシが杯の上からリュウへ視線を送った。
「でも、リュウの下の名前は可愛いですよ、ね?」
フィージャもリュウを見やった。
「かっ、可愛いかな?」
リュウは下を向いてモジモジしている。
ツクシが一息にピルスナーの杯を空にして、
「――確か、リュウの名前は『
「覚えていてくれたか、ツクシ!」
リュウが大きな声でいった。
笑顔である。
「なら、これからは、お前をユンファと呼んだほうがいいのか? 『ちゃん』も付けたほうがいいのか。ユンファちゃん?」
ツクシはリュウの華のような笑みを憮然と眺めた。
「い、いや、それは恥ずかしい、やめろ! 頼むから、それはやめてくれ、ツクシ――」
リュウは目をぴよぴよ泳がせた。
その頬が赤い。
「ああ、これはやっぱり女だぜ。女って生き物は本当にしち面倒臭いよな――」
ツクシが顔をしかめると、フィージャが白い牙を見せて笑った。
§
真夏の熱気に霞んだ半月が路地裏を照らしていた。
屋台が横倒しになって、その近くに老人が倒れている。倒れた老人の脇でおさげ髪の女の子が泣いていた。その周辺で数十人の少年たちが、お互いを、殴る、蹴る、投げ飛ばすの乱闘中だ。
路地裏に沈殿した王都の闇を青い怒りが切り裂いている。
「――クソガキ、俺に勝つのは百年早いぜ」
グェンが大の字に伸びた喧嘩相手へ向かって吐き捨てた。その大見得を切ったグェンが、横を向いて「ふんっ」と手鼻をかむと鼻血が宙を飛ぶ。
その背後で、黒い肌の巨漢が大槌を振りかざした。
倒した敵の脇腹へ蹴りをぶち込んでいたアリバが、
「――グェンの兄貴、後ろ、後ろ!」
危機を伝えるのに気を取られたアリバは敵に足を掴まれて倒れた。
「――ぉおぉ!」
丸い身体を丸く丸めたモグラが、グェンを背後から襲った黒い肌の巨漢にタックルを決めると、大槌が路面に落ちた。少年というには大きすぎる二人の少年がもつれて転がり、上になり下になって殴り合う。骨と骨、肉と肉が衝突し、黒い肌の巨漢とモグラの顔に色がついた。
体格の差で黒い肌の巨漢が優勢のように見える。
「――モグラ!」
加勢しようと足を踏み出したグェンの頬をヒュッと刃物が掠めた。グェンは横に飛んで、襲ってきたその刃をすんでのところで交わしている。その浅黒い頬に赤い血を一筋流れていた。
グェンは腰の短刀を引き抜いて、
「へえ、喧嘩に
グェンの首筋を狙ってサーベルを振るったのは、頭を黒いバンダナで覆った青年だった。眼と眼の間が寄ったおちょぼ口の若者だ。態度はふてぶてしく、動作は隙がなく、いかにも若いチンピラといった印象だった。黒バンダナ青年の顔はニヤついているが、その目は油断なくグェンを警戒している。刃物が出たのを確認した戦争中の子供たちは敵との間に適当な距離を取って手に手に得物を構えた。
錆びの浮いた短剣。
粗雑な作りのサーベル。
釘を打った棍棒。
角材。
ブラック・ジャック。
建物の解体に使われる大槌。
長剣を鞘から引き抜くものも何人かいた。
敵対する少年たちはお互いに列を作って相対している。列から一歩前に出ているのは、短剣を持ったグェンとサーベルを持った黒いバンダナの青年だ。
「――グェン、そのサーベルは僕がやる」
マコトがシャツを腕まくりしながら進み出た。
マコトは手に薪を持っている。
刃渡り八十センチのサーベルを相手に薪だけでは頼りなく見えるが――。
「おいおい、こんな雑魚をマコトが相手にする必要ないだろ?」
グェンが目を見開いた。
「いや、僕が――汝、異な神の眷属なれども
マコトは薪を片手にそのまま進んだ。
「グェン、そのサーベルは僕がやる。下がってくれ――導式・
マコトの言葉が二重に聞こえてくる。
軌跡の担い手する独特の詠唱――口述鍵だ。
顔を歪めたグェンは不承不承の態度で後ろへ下がった。
「薪でこの俺とやり合うつもりか?」
黒バンダナ青年の眉間が冷えた。
「フィオ、サンドラ、ウルズ、イグニ、スリサズ、エナージ――」
マコトは超高速で呟きながら無造作に歩を進め、そのまま、黒バンダナ青年が持つサーベルの制空権に進入した。
「――舐めやがって、死ねや!」
黒バンダナの青年がサーベルを振り下ろした。狙ったのはマコトの肩口である。そのサーベルは錆びが浮いているような粗悪品だったが、それでもまともに食らえば大怪我は免れない。マコトは薪を振り上げた。振り上げられた薪に導式の光が巡っている。
サーベルの刃が薪と激突した。
青い導式の光が散ってバババッと打撃音が連続する。サーベルは宙を舞い、薪はマコトの手に残った。サーベルが路面でガランガランと音を鳴らした。余裕と笑いを顔から消した黒バンダナの青年は痺れた自分の右手を左手でかばっている。
この戦場にあるすべての視線がマコトに集中した。
「――な、何だ?」
黒バンダナの青年は後ろへ下がって距離を取った。
「おい、エンリコ。そっ、そいつはマコトだ。ギャングスタのマコト・ブラウニングだ――」
顔の左半分に
「ひっキ、こいつが、ギャングスタの導式使い!」
叫ぶのと同時に猿顔の男が逃げだした。その背にひるがえった茶色いマントを合図に、グェンたちと対峙していた集団は一斉に逃げていった。黒バンダナの青年――エンリコも例外ではない。
モグラと殴り合っていた黒人の巨漢が、
「エンリコ、マシラ、ミケル、まだ終わってないだろ!」
「ハービー、すぐ逃げろ。導式使いの相手をするな。ボスのいったことを忘れたのか!」
刺青の男が怒鳴って返した。
その声はもう遠い路地の奥から聞こえてくる。
「――オラァ!」
掛け声と一緒に宙を跳んだアリバが突っ立っていた黒人の巨漢――ハービーの胸元へドロップ・キックをお見舞いした。不意打ちをもらってハービーはぶっ倒れた。アリバは小柄な少年だが、その分すばしっこく身軽である。
グェンが路面で気絶している敵グループの少年へ顎をしゃくりながら、
「おい、豚ゴリラ。そこで伸びてるお仲間をお前がつれていけ。そいつをここに置いていったら確実にぶっ殺してペクトクラシュ河の魚の餌にする。ゴルゴダ・ギャングスタは大マジだ。お前らの
「俺はハービーだ! 俺は『マディア・ファナクティクス』のハービー・ベントリーだ!」
ハービーが甲高い声で凄んだ。このハービーは身長は百九十センチ、筋肉で覆われた首元などは切り株のようで大人以上の体格である。しかし、顔と声は幼いハービーは気絶した仲間を小脇に抱えて戦場から立ち去った。
「知ってるよ、そんなこと」
グェンが呟いた。
歩み寄ってきたアリバが、
「やっぱり凄いなあ、マコト兄貴の導式剣術はさあ」
アリバの顔に新しい青タンがついている。
「アリバ、導式剣術じゃない。大昔の単純な式。導式で道具に打撃力を何回分か溜める。陣ですらない――」
説明口調のマコトが薪を放り捨てた。
グェンがそのマコトの横顔を見つめている。
マコトは視線を返さない。
路上に倒れて動かない老人を揺さぶっていた少年が、
「グェン、グェン! イギー爺さんが目を開けないよ!」
泣いていた女の子の傍らのモグラが、
「マコト、マコト! リズの手が変な方向に曲がってるよう! チキショウ、あいつら、女の子を相手に、こんな!」
ギャングスタの少年たちが横倒しになった屋台の脇に倒れた老人――イギー老人と、その横で弱々しく泣くおさげ髪の女の子――リズを囲んだ。
「――脱臼かな。リズ、他に痛いところはないか?」
マコトがリズへ声をかけた。顔を上げたリズはその瞳からぽろぽろと涙がこぼして応えた。服装は所々とツギの当たったボロのワンピースだが、小麦色の肌に金髪の、綺麗な顔立ちをした女の子だ。
リズは痛みだけで泣いてるわけじゃない――。
普段は滅多に表情を変えないマコトが顔を歪めて、近くに倒れているイギー老人を見やった。白髪に白い髭のイギー老人はリズの祖父だ。王国陸軍の兵士だったリズの父親は北の戦争に行って死んだ。リズの母親は屍鬼動乱の日の朝、仕事に出たきり帰ってこなかった。このイギー老人はたった一人残ったリズの身内――。
グェンがイギー老人の傍らに膝をついて、
「イギー爺さんは頭を打ったみたいだな。おい、お前ら、爺さんを揺さぶるな――これはゴロウを呼ばないとヤバそうだぞ――アリバ、すぐ走れ、モグラもゴロウを探してつれてこい!」
「まかせろ、兄貴、俺は区役所方面へ走る!」
「オイラは、やどりぎ亭(※ゴロウの定宿)を見てくる!」
アリバとモグラが駆けていった。顔を腫らし、鼻血もまだ乾ききらないのだが、アリバもモグラも全速力だった。
「グェン、僕はうちの宿を見てくる。この時間帯にゴロウが居そうな場所はそのくらいだ。悪いけど僕はそのまま宿の仕事に戻るよ。あとはまかせた」
マコトが立ち上がった。
「マコト!」
グェンが強い調子で呼び止めると、その背中越しにマコトが横顔を見せた。
眼鏡のレンズに月光が反射して青く光っている。
グェンがいった。
「お前、本当にいいのか。街中で導式を使っているのがバレたら退学――いや、それどころじゃ済まないだろ。下手をすれば警備兵に捕まって吊るし首に――」
「――グェン。もう、学校はいいんだ」
マコトが遮った。
「けど、俺はさ、お前には学校へ行って欲し――」
グェンの口調が弱々しくなった。マコトは
「グェン、イギーさんとリズを頼む」
マコトが背を向けた。
「マコト!」
また呼び止めたグェンが、
「――ありがとな」
「――しつこいよ、グェン」
マコトの声は笑っているように聞こえた。
グェンからはマコトの背しか見えない。
そのとき、マコトが笑ったのかどうか、グェンにはわからなかった。
マコトはそのまま振り向かずに走っていった。
独り頷いたグェンが、
「よし、みんな、警備兵が来る前に場所を変える。イギー爺さんを家まで運ぶんだ。リズ、歩けるか。無理なら手を貸すから俺たちにいえよ。ついでに爺さんの屋台も運ぶぞ!」
威勢のいい応答が返ってきて、ギャングスタのメンバーが一斉に動き出した。大喧嘩のあとの少年たちは顔を腫らし、その傷口からまだ血が流れているものも多かったが、しかし、それを痛いとこぼすものは誰もいない。
少年たちは誰一人として自分の痛みを主張しなかった。
§
リュウとフィージャを相手にツクシは夜更けまで酒を飲む――つもりだったのだが、同席して一時間もすると彼女たちは帰宅した。話を聞くと、買い物をする目的で外出したリュウとフィージャは、ゴルゴダ酒場宿の前で不審な動きを見せていたリカルドと偶然出会って食事に誘われたらしい。リュウとフィージャは十三番区の区役所の北にある彼らの家(これは賃貸らしいが)で、主人(フィージャにいわせるとご主人さま)を待たせているといった。そのご主人さまとやらは長い間待たせると癇癪を起こすとのこと。
「リュウとフィージャにも、色々と事情があるのだろうな――」
そんなことを考えつつ、ツクシは貸し部屋の床で大胡坐をかいて読めない新聞を眺めていた。相変わらずツクシはカントレイア世界の文字がほとんど読めないし、家庭教師を頼んでいる――膝の上に乗せれば新聞だって読んでもらえる――ユキには最近、嫌われている。なので、ツクシは新聞の挿絵を見てその内容を想像するしかない。
新聞の三面には黒いシルエットになった人物が女や子供をさらう、ものものしい挿絵があった――むむ、誘拐事件でも頻発しているのかな、とツクシは眉をひそめた。
新聞の一面には、勇ましく刺突剣を振りかざした三ツ首鷲の騎士の号令で突撃するタラリオン王国陸軍の挿絵があった――戦時中の戦況広告なんか、アテになるもんかよと、ツクシの口角が皮肉に歪んだ。
その他は、一週間のお天気だとか――これも全然アテにならない――王都で起こった細かい出来事の記事が並んでいる。広告欄に描かれたウィスキー瓶を発見したツクシが「おお!」と声に出して驚いた。ボルドン酒店の主力銘柄バルドルである。
「ほう、バルドルは十二年(※ウィスキーを樽で寝かせた年数)まであるのかよ――」
財布の中身が頼りなく、酔うまで飲めないツクシは喉を鳴らした。
夜半過ぎだ。
読んでるフリに飽きたツクシが新聞を投げ捨てたところで、仕事を終えたユキが貸し部屋へ帰ってきた。だぶだぶの大人用シャツ(※ツクシのシャツ)に下はキュロット姿で風呂桶を抱えたユキは、そこにぽつねんと座っていたツクシを一瞥だにしない。ユキは顔と猫耳をツクシとは逆の方角へ向けて移動した。ユキのしっぽはバタバタと忙しなく動いて、ツクシの存在を拒絶している。
「――今日は遅かったな、お疲れさん」
ツクシのねぎらいの言葉にもユキの反応はない。ユキは貸し部屋に設置されている長持の上へお風呂セットを置くと、キュロット・スカートを脱いで、ポイッとそれを適当な場所へ放り、回れ右してベッドへ向かった。この間、ユキは終始無言であり無表情だった。しかし、ベッドの脇まで移動したユキはそこで動きを止めた。
ベッドの上にツクシの買い物が置いてある。
「それ、いつまでも俺のシャツをユキが着ているのも、あれだろうからな。その、なんだ、プレゼントか――」
ツクシは歯切れ悪く伝えた。ユキは無言で包装紙を破いた。なかに入っていたのはキャミソール・ドレスだ。色が白いものと黒いもので二着ある。
「――ツクシ、向こう」
ユキが背中でいった。
「おう、すぐ着てみろ。サイズ、合っているといいんだが――」
ツクシが立ち上がって歩み寄ろうとした。
「――あっち向いて」
短い言葉でユキはツクシの行動を遮った。
「お、おう。着替えるのか、すまんすまん――」
ツクシはその場で身体を反転させた。
「――ツクシ」
そう呼びかけられて、ツクシが振り返ると、着替え終わったユキがそこにいた。全体的にレースで透けて白い地の肌が見え、短いスカート丈からは、細く白いふとももを大胆に露出させた、黒いキャミソール・ドレス姿のユキである。
その姿のユキが無表情でツクシを見上げている。
サイズは問題ないようだ。
似合ってもいる。
だが、やはりデザインが子供向けではなかったかも知れん――。
ツクシは心配そうにユキを見つめた。すると、ユキがきゅっと下唇を噛んだ。攻撃される気配を感じたツクシの腰が無意識に下へ落ちる。しかし、ユキはツクシよりさらに重心を低くして突進した。
猫耳美幼女の頭突きがツクシのみぞおちに深々と突き刺さる。
「――ぐあっ!」
身体が「く」の字に折れるほど重いユキの一撃であったが、ツクシは歯を食いしばってこれを耐えた。大人の意地である。ツクシの身体に両手をまわしてホールドすると、ユキは動きを止めた。
「おい、ユキ、どうした。わざわざニーナを洋品店につれていって選んだんだがな。それ、気に入らなくても、ニーナの趣味だ。俺を責めるなよ?」
なんだ、ユキは泣いてるのか。
そんなに気に食わなかったのか――。
ツクシは自分の胸元より下に顔を埋め、小さな肩を震わせるユキを見て不安になった。
「うぅ!」
ユキが頭と猫耳を左右に振った。
「なんだ、ユキ、わからんぞ。はっきりといえ――」
ツクシは眉根を寄せた。
「うぅ、うぅう――」
呻き声でユキは返事をした。
「その服、気に入ったのか?」
ツクシが訊いた。
「うぅ! うぅ!」
ユキは二度、ツクシの胸の下で頷いた。
「――そうか、ならいい。ユキ、もう寝ろ。明日も仕事で早いんだろ?」
安堵の溜息を吐いたツクシはユキの肩に手を置いて身体を離した。
ユキはうつむいたまま目元を手の甲でゴシゴシとやっている。
「しかし近頃は夜も蒸し暑いな。女将さんに聞いたが、これ異常気象だってな。王都の夏がこんなに暑いのは、珍しいらしい――」
ツクシはブツクサいいながら窓際へ歩み寄った。
「ツクシ」
ユキが呼んだ。
「あぁん?」
ここまで俺が気を使ってやっても、まだ何か文句があるのか。
女って生き物はマジでしち面倒くせェよな――。
ツクシは不機嫌な返事と一緒に不機嫌な顔をユキへ向けた。
猫の瞳を極細くしたユキが、
「ツクシ、今夜はわたしと一緒にベッドで寝る?」
泣きはらした目元赤らみ頬も赤らみ上気して、さらに湯上りで全身の血色も良く色づいた猫耳美幼女の微笑みがツクシを捉えている。猫耳美幼女の服装は幼い柔肌がうっすら透けて見えるような、大人びた黒いキャミソール・ドレスである。小さい女の子が専門の男性でなくてもその冥府魔道に引きずり込みかねない破壊力を持つ、計算し尽されたユキの誘惑だった。
「ああ、お前、くっついてきて暑苦しいから、それはやめとく。ユキ、窓を全部開けていいか? 防虫剤を炊いても、少し虫が部屋に入ってくるかも知れんが――本当に今夜も蒸し暑いよな――」
ツクシはブツクサいいながら貸し部屋の鎧戸を全開にした。
ツクシの目に輝ける光の橋となった、夜のペクトクラシュ河南大橋が映り込む。
床を焦げつくほど睨みつけて力をため込んだあとだった。
「ツクシの、ばかあっ!」
ユキが絶叫した。
「おうっ!」
驚いたツクシが窓際から振り返ると、ブンムクれたユキがベッドに横たわっている。ツクシに背を向けて寝るユキのしっぽだけがビッタンビッタンと暴れて、本人の不満を示していた。
ツクシは大きな溜息を吐いた。
今宵の王都は熱帯夜である。
(四章 姿無き殺戮の徒 了)
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