十二節 令嬢と午後のお茶を

 場所はタラリオン王都二番区ヨハネ、その商店街である。

 大タラリオン城の城下街にあたるこの区画は、貴族や大市民の居住者が多く、ツクシが寝床にしているゴルゴダ酒場宿周辺とは街の趣が違った。路面は清潔で広々として、歩くひとは金の匂いを漂わせ、店に並ぶ商品は庶民とは縁遠い付加価値のつくものが多い。通りを走る馬車や馬は制限速度を守るので、過積載の荷馬車が怒涛のごとく行き来して、土埃を巻き上げるようなこともない。この大通りに一人、赤と白の派手な服を着た道化師が、ぷうぷうとアコーディオンを鳴らしつつ、道行くひとへおひねりをねだっている。

 道化の奏でるメロディは、ゆるやかな調べの円舞曲ロンド――。

 時刻は午後二時三十分。

 本日の日中最高気温は三十四度。

 真っ白なキャベリン(※女性用鍔広帽子)の鍔が作ったなだらかな波線で瞳の半分を隠したニーナが赤い唇に笑みを浮かせる。ニーナの白いサマー・ドレスへ紫色の木漏れ陽が落ちていた。近くをつれ立って歩いていた若い貴族風カップルの片割れ――男性のほうが、向かいから歩いてきた行商風の若者と正面衝突して、お互いゴロンと転げた。貴族風の男も行商風の男も怒らない。双方が尻餅をついたままカフェ・テラスの一席で冷たいグラスに唇を寄せるニーナに目と心を奪われている。もっとも、貴族風の男がつれていた若い淑女は、たいそうご立腹の様子である。

 白眉の令嬢を装ったニーナの対面席には、カッカと煮え立つ熱い珈琲をすする、眉間に険を作った中年男が一匹いた。これは間違いなくツクシである。切れ長の目元も麗しい美人を相手に、少し早いお茶の時間をしているツクシは、本日も完全に、完璧に、世界で一番、不機嫌だった。

「抜かったぜ、まさか、異世界こっちのカフェとやらにも氷があるとはな――」

 ツクシが熱い珈琲をひと口飲んで顔をうんと歪めた。

 その額が汗でギラギラ光っている。

「冷たいのにすればよかったのに」

 顔を傾けたニーナが、その瞳にツクシの不機嫌を映した。

「何をいってやがる。珈琲は熱いのが普通だろ――」

 ツクシが熱い珈琲カップに、また口をつけた――。


 ――買い物の帰り、商店街の一角にあるこのカッフェ・プレアデスを訪れたツクシとニーナがテラス席につくと、ウェイターが注文を取りにきた。この暑さだから冷えたものが欲しいよな、そう考えたツクシはアイス珈琲を注文する。ツクシのシンプルな注文を聞くと金髪に黒い前掛けをつけて気取った感じの若いウェイターが、

「お客様、当店にはアイス珈琲にも種類が御座いまして――」

 そう気取った感じで前置きをしたあと、エスプレッソビバレッジ、フラペチーノ、ブレンデッド、ノンブレンデッド、チャイチャイ、ティーティー、チャッチャッチャッと、ツクシにとって耳に馴染みのない気取った単語を並べた。さらには、その派生系の呪文を気取った感じで詠唱した。それをふまえて、である。グラスのサイズも砂糖もミルクも色々な種類があって、それを指定をしなければいけないらしい。

 おう、こいつ、クソほどしゃらくせェな。

 ぶっ殺して永遠に黙らせるかよ――。

 目から殺気を凛々と放出し、全身全霊で苛々したツクシが、腰にある魔刀の柄へゆるりと手を伸ばした。

「チィッ、この、クソ馬鹿めが!」

 刺すように鋭い舌打ちと地獄から響いてくるような罵倒もセットだ。

「らめぇええっ!」

 ツクシの殺気をまともに浴びた気取ったウェイターは、あられもない悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。

 ツクシは腰を落としてカックンカックン震える気取った感じのウェイターへ、

「俺の注文は珈琲だ。さっさとここへ持ってこい」

 何度も頷いたウェイター男は半泣き顔でよろよろ店内へ戻っていった。

 それを笑顔で眺めていたニーナは、バニラ・クリーム・フラペチーノのLサイズグラスを注文する――。


「――この、いしあたま」

 ニーナの瞳が細くなった。

 ツクシは、そのくすぐるような言葉の響きを無視して、

「ニーナはたいして驚かないんだな――」

「――ん?」

 ニーナは長い金色のスプーンで、背の高い、冷たいグラスをカラカラと掻き回している。

「その氷だ。異世界ここじゃ珍しいんだろ。特に夏はな」

 ツクシは白い椅子の背もたれに体重を預けて周囲を見回した。テラス席には他の客――たいていは若い男女の客が飛び石のような間隔を置いて席につき、氷入りの飲料が入った冷たいグラスを傾けている。

「私、初めてじゃないの――」

 ニーナが唇へ冷たいグラスを寄せた。

「へえ、ニーナはこの喫茶店に来たことがあるのか?」

 ツクシはニーナの美貌へ視線を戻した。

「一度もないわよ。あ、氷のこと? お城の晩餐会ではよく見たわ。戦争が始まる前のことだけれど――」

 ニーナは冷たい珈琲の上に浮いた白いクリームを見つめていた。

「――ああ」

 ツクシは話題を切り上げようとした。ツクシは詳しくリカルドたちの経歴を訊いていない。だが、交わされる会話の断片を頼りに、元貴族リカルドと元貴族令嬢ニーナの過去を大雑把に把握している。

 ニーナはツクシの不機嫌な顔に視線を送りながら、

「――グリーン・ワイバーンでデ・フロゥア山脈の氷室ひむろから氷を運ぶの」

「氷を空輸か。金持ち連中の考えそうなこった――」

 ツクシが顔を歪めた。

 貧乏人は無条件で金持ちを嫌うものである。

「でも、それも終わりね。導式製氷機があるから」

 ニーナがカフェの厨房へ視線を流した。厨房にあるキャビネット形状の導式製氷機内部から氷の塊が落ちる音がする。

「あれがあれば、冷たいビールも安くなるよな」

 ツクシも導式製氷機に視線を送った。

「お酒のことばっかり! でも、まだすごく高いみたいだよ、あの機械」

 プンッとニーナが鼻息を荒げた。

「ゴルゴダ酒場宿だと手が出ないか――」

 冷たいピルスナーは品薄であるし、冷やす手間もかかるので、ぬるいエールより割高である。

 ツクシは眉根を寄せてうつむいた。

「今はちょっと無理かもね。でもすぐに安くなるよ、きっと」

 深刻な表情になったツクシを、ニーナが不思議そうに見つめている。

 カップに残ったぬるい珈琲を一息に飲み干したツクシが、

「――なあ、ニーナ」

「――ん! なになに、ツクシ?」

 ニーナが顔を上げると、並木に萌える青葉を潜り抜けた夏の光線が、その瞳で乱れて跳ねる。瞳を輝かせたこの美貌を見れば、どんな朴念仁ぼくねんじんでも心拍数が上がるだろう。その朴念仁とやらが、男女の行為を可能にするならばの話ではあるが――。

「あれは――異形種は何で『古代種エイシェント』って名称なんだろうな?」

 ツクシは空にした珈琲カップを眺めていた。

 抜群の愛嬌を見せた目の前の彼女をこの男は見ていない。

「――うん。食人鬼オーガに似ているからかな。お父様もいっていたけれど!」

 肩と視線を落として、ニーナは歯を食いしばった。

「そのオーガってのは何だ?」

 うつむいているツクシの眼光がギラリと鋭くなる。

「大昔に――神話戦争エピック・ウォー時代に、南大陸――ドラゴニア大陸を席巻した種族よ。王立図書館にも記録が残っていない時代の話ね。人類と敵対した冥界の悪鬼、みたいな感じ、なのかな――」

 ニーナが気を取り直して視線を上げた。

「エピック。神話だな――」

 腕組みをしたツクシは夏の木漏れ陽を見上げている。

食人鬼オーガの子孫がグリーン・オーク族だという説があり、それを基に、ネストに出現する異形種を古代種・オーク族――エイシェント・オークと呼称している可能性が考えられますね」

 ツクシの不機嫌な視線を、上げた視線で捉え損ねたニーナは説明口調だ。

「――その食人鬼ってのは、どんな奴なんだ?」

 空へ上げていた視線をふいにツクシが落とした。

「そんなことをいわれても、神話の世界の生き物だから、誰も見たことがないわよ」

 ニーナは顔をプイと横向けて応えた。

 ニーナの長いとび色の髪が――本日は後ろで束ねていない――はらはらと跳ね上がる。

「俺たちはそれを――神話の化け物をネストで目撃したのか?」

 ツクシがニーナを見つめた。

 ニーナは諦めたようにツクシへ視線を返して、

「そうかも知れないわね。でも、もうこの話はおしまい。ツクシ、今日は休日よ。もっと楽しいお喋りがしたい、でしょ?」

「確かに今考えても答えが出ないな。そろそろ帰るぞ、ニーナ」

 ツクシは空いていた椅子の上に置いてあった買い物袋を手に立ち上がった。

「えぇえ、楽しいお喋りは!」

 ニーナはツクシを凝視した

 ツクシは目を丸くするニーナを横目で見やって口角を歪めた。


 §


「――吸血鬼ヴァンパイア、ね」

 そういって、ジャダは沈黙した。酒場宿・明けの明星の薄暗い店内に歓談の声はない。ヒトの声よりも、大きな置き時計の時を刻む音のほうが大きかった。古ぼけた酒場宿の止まった時間の流れを時計の針の音がどうにか進める店内にいる客は三人だけだ。カウンター席で酒の杯を傾けている三日月のような顔をした男が一人。強い蒸留酒が入った杯を震える手で包み込むんでいる枯れ木のような老人。

 それに、ゴロウだ。

 座っているのもくたびれる――。

 ゴロウの横でカウンター・テーブル席へ腰をかけて、頬杖をついたジャダは、そんな感じに見える。ゴロウが卓にあった銀のゴブレットを手にとった。異様に濃い色合いの赤ワインでその杯は満たされている。

「――ジャダ。最近、王都に吸血鬼がうろついてるって噂を聞いてねえか?」

 ゴロウは中身を飲み干してその杯を卓へ置いた。ゴロウの前、ジャダの前と、卓に二つあるその杯は細い足が長く、胴体半ばにかけて精巧な細工で植物文様が刻まれた高級そうな純銀の杯だ。この芸術的な価値のある杯へ注がれた劣悪な赤ワインの味は器の貫禄に完全な敗北を喫していた。

 どこのお屋敷からくすねてきたか知らんがなァ。

 こりゃあどう見ても盗品だよなァ――。

 ゴロウの灰色の瞳が曲面の部分へ映りこみ笑いの形へ変化する。

「――吸血鬼それ、ゴロウの専門だろ?」

 杯の赤ワインを口に含んだジャダは、心底から侮蔑するような眼差しを杯の中身へ落としながら、卓に杯を置いた。

「俺ァ『それ』の専門じゃねえよ。何度もいった筈だぜ」

 ゴロウは、くっそ、この野郎、やっぱり味がわからねえわけじゃねえんだなと、ジャダの頬がこけた横顔を恨めしそうに睨んでいる。

「そうか。聖教会からバックレると専門外になるのか――ああ、いい。シーマ、俺はもういらない」

 面白そうに笑ったジャダがシーマを制した。

 頷いたシーマは手に持ったワイン・ボトルから異様に濃い色合いの赤ワインをゴロウの杯へなみなみ注いだ。シーマはその間ずっと無言だった。ゴロウが目を丸くしてシーマの青い美貌を凝視している。

 導式ゴーグル越しにゴロウへ視線を返しながらだ。

 シーマは卓へワインの瓶を置いた。それはラベルが風化してボロボロになって、銘柄が判読できないような瓶で、本当にその中身がワインなのかどうか怪しいシロモノだ。

「あとは自分でやれ、ゴロウ」

 そう命令してシーマは厨房へ消えた。

 ゴロウはシーマの余計な気遣いをヤケになって喉へ流し込みながら、

「ジャダ、前にも俺ァいっただろ。『そっち』は聖教会にいた頃から俺の専門外なんだ。おめェ、その話のはぐらし方だと何かを知っているな?」

「それ訊いても無駄だぜ」

 そう返したジャダが紙巻タバコを血色悪く薄い唇に挟んだ。

「訊いても無駄か?」

 ゴロウはかぎ爪のような指でマッチを擦るジャダを見つめた。

「――ま、無駄だな」

 ジャダが返事と一緒に煙を吐いた。

 薄暗い酒場の天井へ紫煙が蛇行しながら立ち上ってゆく。

「くっそ、そうだろうなァ――」

 ゴロウはジャダが突き出したシガレット・ケースを手の動きだけで辞退した。タバコ葉の多くは南方からの輸入品であるから、紙巻タバコは高級嗜好品の部類になる。しかし、薬の悪党ジャダが勧める紙巻タバコには、タバコ葉以外の何が巻き込まれているのか知れたものではない。

「それを訊くために、ゴロウはわざわざ俺のところへ来たのか――ああ、シーマ、悪いな」

 シーマがカウンター・テーブル越しに陶器製の灰皿を置いた。そのシーマは何もいわずに踵を返して背を見せた。シーマが好んで着るドレスは背中が大きく開いたデザインで、そこから青い地肌の隆起が独特の色気を見せている。

「いや、それだけじゃねェ。十二番区の餓鬼集団レギオンが本件だ」

 ゴロウのダミ声が一段低くなった。

「ああ、あいつらか。派手にやっているみたいだな――」

 ジャダは目の先で揺らぐ煙を見つめている。

「おい、ジャダ」

 ゴロウが唸った。

「もう餓鬼どものヤンチャで済まないぜ。店をめちゃめちゃにされた奴がいる。治らねえ怪我人にされた奴がいる。何よりも消えちまった奴が多すぎる。全部、十二番区の餓鬼集団レギオンが十三番区をうろつくようになってからだ。奴らの数が多すぎて女衒街の自警団は対応し切れねえ。区の警備兵は全然頼りにならねえしなァ。ジャダ、これだけは何としてでも教えてもらうぜ。十二番区のクソ餓鬼どもはどこから湧いてくる?」

「ああ、十二番区の餓鬼集団は、十一番区と八番区の餓鬼集団にいた連中も頭数に入ってる」

 ジャダが紙巻タバコの灰を灰皿へ落とした。

「――あァ?」

 ゴロウが髭面をジャダへ向けた。

 ジャダは短くなった紙巻タバコを見つめながら、

「十二番区の餓鬼集団は最近になって大きくなったって話さ」

 結局、ジャダはタバコの火を灰皿で揉み消した。

「大きくなったって何だァ?」

 ゴロウが話を促した。

「ああ、十二番区の餓鬼集団レギオンが他の区の餓鬼集団レギオンを二つ吸収したんだ」

 ジャダは自分の杯のなかへ視線を落とした。

「そうなると、十二番区の餓鬼どもだけで、よその区の餓鬼集団を二つもノシちまったのか。おめェんとこのギルドは何をやってるんだ。餓鬼どもの抑えが全然、効いてねえだろうが!」

 ゴロウが怒鳴った。

 憤るゴロウに構わない。

 ジャダは侮蔑するような視線を杯のなかへ落としたまま、

「ゴロウ」

「あんだァ?」

「十二番区の餓鬼集団レギオンのことだ。あれは放っておけ。一切、構うな」

「そうもいかねえだろォ! 十三番区の馴染みに泣きつかれてるのは俺だぞ? 十二番区の餓鬼集団が絡んだ行方不明者はな、子供ガキや若い女だって多いんだ。そいつらはな、ここまで一人も帰ってきてねえんだぜ――」

 ゴロウは手酌で自分の杯へ悪いワインを注いだ。

「十二番区の餓鬼集団は、少し面倒なんだよ」

 ジャダは自分の杯を手にとった。

「面倒ってよォ。はァ――名もなき盗賊ギルドも堕ちたもんだよなァ。餓鬼集団レギオンのひとつも抑えることができなくなったのか?」

 ゴロウは歯を剥いてジャダを睨んだ。

 ジャダが血色の悪い唇へ杯を寄せて、

「十二番区の餓鬼集団の件な。あれは上級貴族が絡んでるぞ。侯爵だぜ」

「こ、侯爵って――おい、今、なんつった、ジャダ!」

 ゴロウが目を丸くして怒鳴った。

「――だから、面倒なんだよ」

 耳の真横でゴロウに吼えられたジャダは顔を歪めている。

 ゴロウは構わずに唸った。

「おめェんところのギルド、その件で、ちゃんと『働いてる』のか?」

「それ訊いても無駄だぜ」

 ジャダがゴロウへ目を向けた。頬の肉が削げ落ちたジャダの顔にある二つの眼玉が、残り少ない生命を燃料にして青白く燃えている。

「はァ、まァ、おめェの立場だとそうなるよなァ――」

 ゴロウはうなだれた。名もなき盗賊ギルドの幹部――錠前の破壊者ロック・ブレイカーのジャダが組織の情報を外部に漏らすことはない。

 例えそれを尋ねたものが生涯で唯一の友と呼べる男であったとしても――。

「――ゴロウ。グェンたちへ今は無理をするなと伝えておけ」

 しかし、ジャダが発した重い声はゴロウの予想を裏切った。

「へえ、随分と優しいじゃねえか。どうしたんだ、ジャダ、明日にでも死ぬのか?」

 ゴロウが歯を見せて笑った。

「俺はあの餓鬼どもの先輩だからな」

 ジャダの表情は変わらない。

「まァ、手本にしてもらいたくない先輩だけどなァ――」

 ゴロウが頷きながら杯に口をつけた。

「――だからだよ」

 ジャダは唇の端を歪めて自分を嘲笑った。

「あァ、グェンたちには釘を刺しておくぜ。つうかよォ、もう何度も釘は刺してあるんだけどなァ、俺のいうことを全然聞かないんだよォ、あいつらよォ困ったなァ――それでだ、話を変えるぞ。ジャダ、おめェは王都で吸血鬼を見たって噂をだなァ――」

 ゴロウが目を丸くした髭面をジャダへ寄せた。

「散々いってるだろ。それ訊いても無駄だぜ、ゴロウ」

 うつむいたジャダが薄い唇の端を反らせた。

 その角ばった肩を震わせてもいる。

「ああよォ、おめェの仕事の都合もあるんだろ。わかってるよ。まァ、いいんだ。吸血鬼の件は緊急ってわけじゃねえからよォ。個人的にちょっと気にかかってるってだけだからなァ――」

 ゴロウが視線を前に戻した。

「しかし、ゴロウは何故そこまでそれに――吸血鬼に拘ってるんだ?」

 ジャダが二本目の紙巻タバコを口に咥えた。

「さあ、何でだろうなァ?」

 ゴロウは不味い赤ワインの杯を呷る。

「これも『訊いても無駄』の部類か?」

 ジャダの横にいつの間にかシーマがいた。

 情夫の咥えた紙巻タバコの先に情婦がマッチを擦って火を点ける。

「――まァ、そういうこったァ」

 流れてきた紫色の煙が目に沁みた。

 ゴロウはまぶたを半分落としている。

 王都の十三番区ゴルゴダの区役所裏手にある小さな酒場宿・明けの明星。その薄暗いカウンター席で肩を並べるこの二人の男には、かつて、何の隠し立てもせず言葉を交わした時代が確かにあった。


 §


 カッフェ・プレアデスをあとにしたツクシとニーナは、四頭立ての乗り合い馬車を使って、王都一三番区ゴルゴダへ帰った。この乗り合い馬車は王都の一般的な公共交通機関らしいのだが、御者は革水筒から酒精強く香る液体をチビリチビリとやりながら馬へムチを入れており、その運転は至極乱暴だった。その乗り心地も石畳のちょっとした段差を車輪が踏むと、天井へ頭をぶつけるほど腰が浮くといった具合ですこぶる悪い。ガタンガタン上下に揺れる乗り合い馬車のなかで、ツクシの横に座るニーナは、プンと横向いて車窓を眺めていた。

「王都一番区ペテロと二番区ヨハネの境目を東西に走る大通りには、高級な劇場が並んでいて、その界隈の夜はすごく華やかになるのよ」

 買い物の前のことだ。

 ニーナはうきうきそわそわした態度でツクシに教えた。どうやら、ニーナは今宵の時間をその界隈でツクシと一緒に過ごしたかったらしい。

 ああもう、女って生き物は本当にしち面倒くせェな――。

 ツクシはニーナのムクれた横顔を盗み見た。女はしち面倒くさいとはいっても、買い物の案内をニーナへ頼んだのはツクシのほうだ。ツクシは落ち着かない気分である。

 乗り合い馬車を先に降りたツクシは、馬車から降りようしたニーナへ顔を横向けて手を差し伸べた。目の前にきた手を無視したニーナはスカートを両手でひょいとつまみ上げて馬車から飛び降りた。

 ムクれて歩くニーナの後ろを、買い物の荷物を小脇に抱えたツクシがうつむき加減についていった。地味な半そでシャツに黒いズボン姿で腰に刀を吊るし、ワーク・キャップをかぶったツクシ。白いサマードレスに白いキャベリンをかぶり、白い日傘を差して歩くニーナ。この状態だとツクシは貴族令嬢ニーナの従者にしか見えない。

 時刻は仕事に出たひとが帰路につく夕暮れどきだ。

 今日も王都十三番区ゴルゴダの路上は行き交うひとや馬、それに馬車が多かった。しかし、貴族令嬢然とした装いのニーナが鼻息も荒くズカズカ歩くと、向かいから来るひとは、これは貴族階級の非常時で行く先を邪魔すると面倒なことになるのかな、そんな感じで驚いて道を譲ってくれた。

 ツクシは先行するニーナの背中へ、

「ええと、だな。ニーナ、おい――」

「――何ッ!」

 まあこんな感じにニーナは返事をした。

「――おう。ニーナ、うちの酒場で一杯やっていくか、ん?」

 ツクシはいささか媚びへつらった口調で訊いた。

 ニーナは返事をしない。

「そんなにお芝居が見たかったのか――」

 声の調子と一緒に、ツクシの視線が落ちた。

「――別に?」

 短い返事と一緒に、ニーナが歩をゆるめた。

「今日の昼に食ったものより、セイジさんのメシのほうが全然、旨いぜ?」

 ツクシは脈ありと睨んで畳みかけた。買い物の手伝いを頼んだ手前、本日の昼食はツクシがニーナへ奢った。しかし、王都二番区にある建物や食器だけは立派な料理店で食べたその昼食は、たいして旨いものではなかったのである。

「――それはいえてる」

 うっ、とニーナの表情が変わった。たいして旨くもないものをゴルゴダ酒場宿の三倍の値段で提供していたその料理店をツクシに推薦したのは、他ならぬこのニーナだ。新聞か何かの記事で話題になっていた店を記憶に留めていたらしい。

 ツクシが自分の横まで下がってきたニーナへ、

「だから、俺の宿へ寄っていけよ。口直しをしようぜ」

「どうしようかな?」

 ニーナが視線をツクシへ流した。

 その目元はまだ厳しい。

「――わかった。お芝居にはいずれつれていってやる。正直にいうとな、俺は金に余裕がないんだよ。悪かった」

 降参したツクシが財政事情を暴露した。

「えぇえ、一昨日には失踪兵士発見の賞金が出たのに?」

 眉を寄せたニーナがツクシへ顔を向けた。

「ああな、あれな。あれは借金の返済でほとんど消えた。今日買った『これ』も案外、高かったからな。いや、案外どころじゃあねェぞ。二着ばかりで払いが金貨二枚に銀貨二枚だと、ネスト・ポーターの日当がまるっと消える金額だ。道理でここいらの連中は地味な格好をしているわけだよな――」

 ツクシは呻くようにいった。先日、ツクシは二人の失踪兵士発見で賞金の金貨六十枚を得た。これをツクシと行動を共にした八人で分配したので、ツクシが手にしたのは金貨七枚と銀貨が五枚だった。これにネスト・ポーターの賃金の金貨一枚に銀貨六枚(これは輸送が異形種の襲撃で中止されたから通常の半額ていど)を合わせて、ツクシは金貨九枚に銀貨一枚を手に入れた。ツクシはこのうちの金貨五枚をゴルゴダ酒場宿にある借金返済に充てた。ニーナと城下街までお買い物に行った今日のツクシが出費したのは、交通費、買い物、食事代諸々を含め、金貨三枚、銀貨六枚、少銀貨二枚だ。この散財した結果、ツクシの財布にあるのは銀貨七枚に小銀貨三枚になった。これは、賞金が出る前にツクシが持っていた小銭を加算した数字である。ゴルゴダ酒場宿には金貨七枚と銀貨四枚がツクシの借金として残っている。

 ああ、もうすぐ月末だから、また宿賃の請求がくるな。

 どうすんだこれ。

 また借金が増えるぞ――。

 うつむいて考えるツクシの顔色がかなり悪い。

 ニーナがはっと表情を変えて、

「ツクシ、借金があったの!」

「お、おう――ニーナ、借金といっても、ほとんどは宿賃だぜ。せ、生活費だ、生活費。色々と高くつくからな。最近、物価が高いだろ? この国の政治家は一体何をやっているんだ? やっぱりこっちでも、あいつら議事堂で毎日昼寝をしているのか?」

 ツクシはそんな言い訳をした。実のところ、ツクシの借金の元はほとんどが酒代だ。この男の借金の成分はその大半が本人の自堕落なのである。

「先にいってくれれば良かったのに。ごめん、ごめんね、ツクシ――」

 視線を斜め下へ落としたニーナの声が震えている。

「ああ、いや、これは俺が悪いんだ。ニーナが気にする必要はないぞ、本当に――」

 ツクシはニーナへ身を寄せて道の脇へ移動した。

 後ろから来た空の荷馬車が二人を掠めるようにして通り過ぎる。

 ニーナは身体を寄せてきたツクシへ顔を向けて、しかし、その視線は落としながら、

「それ、ユキちゃんが喜ぶといいね」

 令嬢の視線はツクシが小脇に抱えている買い物の荷物にある。

「ああ、そうだといいんだがな――」

 ツクシも自分の小脇にある荷物を見やった。

「でも、ツクシは何が原因でユキちゃんと喧嘩をしちゃったの?」

 ニーナが小首を傾げた。

「ま、まあ、ユキは小難しい年頃だからな。色々となあ、大変なんだよ、あれは――」

 ツクシは顔を背けた。「相部屋へクラウンを連れ込んでよろしくやったのが、ユキにバレちゃった、てへぺろ!」とか、ツクシは口が裂けてもよろしくやっているニーナにはいえない。クラウンとの一件から丸二日以上経過しているが、ユキは怒りは未だ冷めやらず、一言もツクシと口を聞いてくれないのである。会話どころか朝から晩まで目すら合わしてくれない。エイダもミュカレも、これは何か様子がおかしいぞ、そういった態度を見せ始めた。そこで、汚い大人であるツクシは子供のユキをモノで釣ることにした。その対価がこの金貨二枚と銀貨二枚の買い物である。

 ユキへ頭を下げるのもシャクだから、金目のモノを提供して、誤魔化してやろうか――。

 ツクシはこう考えていた。

 クズの発想である。

「ふぅん、へえ――?」

 女の勘が働いたニーナはツクシの顔を訝し気に見つめている。

 ツクシはあっちこっちへ視線を逃がしつつ、

「そ、それで、ニーナはこのあとどうする?」

「――ん、じゃあ、ツクシのお宿へ寄ってく」

 ニーナがここでようやく赤い唇に笑みを浮かせた。

 ツクシはその笑顔を見やって、

「怒っているより笑っているほうがずっといい」

 独り言のような口調だ。

「そ、そうかな?」

 ニーナの細まった瞳がキャベリンの鍔で隠れた。

「誰だって、そうさ」

 笑い方と笑う目的を忘れてしまった男が呟いた。

 ツクシの視線は前へ行っている。

「――そうよね」

 ツクシより遅れて歩いていることに気づいたニーナが足を速めた。

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