三節 清水は冷たく、肌白く

 ウルズ組は上がりエレベーター・キャンプと下りエレベーター・キャンプ間を二往復したところで、ボルドウ輸送警備小隊から本日分の輸送作業終了を告げられた。触れ回ったのは例の若い兵士のハンスだ。ネスト・ポーターの全員が上がりエレベーターキャンプ内に到達したのを確認して、エレベーター衛兵が何人かで伸縮扉を閉じた。下に張られたレールと伸縮扉の滑車が擦れて軋む金属音が夜間休憩時間の合図になる。

 ツクシたちはネスト行商が提供する不味いメシへ総じて不満を述べながら夕飯を終えた。チムールとヤーコフだけは昼と同じく持ち込んだ干し肉と黒パンで夕食を済ました。

「あいつらみたいに携帯食で済ましたほうが賢いかもな――」

 ツクシは愚痴った。そのくらい今日の夕飯はハズレだった。得体の知れない肉を使った塩辛いシチューと歯が欠けそうなほど堅い黒パンである。

「ああ、あいつら、この前と同じ行商かよ――」

 ツクシは食べ終わったあとに気づいて苛々した。そのあと、エレベーター・キャンプ内では夜の酒盛りが始まった。ネスト行商の屋台では酒も売られている。以前と同様、カード博打をやる者も多い。ゴロウとチムールがカード博打をやっている男の輪に加わろうと打診したが、参加をお断りされた。ゴロウは博打で負けた金を絶対に払わないので有名だし、チムールはチムールで面倒な性格の男だ。そのゴロウとチムールの代わりに平身低頭のヤマダがカード博打をやっている輪へ加わった。元から博打の場にいた男たちは、ほほう、これは見るからにカモが来やがったなと、そんな笑顔になっている。

「へえ、ヤマさんは博打をやるのか――」

 ツクシは壁際に座ったまま勝負の行方を見守った。男たちがやっているのは、カードを使ったゲーム――ドロー・ポーカーのようだ。ヤマダは勝ち続けた。カード博打の輪にいる男たちの顔がどんどん渋くなる。勝ち得た硬貨を無造作にかき集めるヤマダの表情は動かない。まさしくポーカー・フェイスだ。その勝ちっぷりを眺めているゴロウとチムールとヤーコフ、それにトニーは目を丸くしていた。

「へえ、ヤマさんは意外にも博才バクサイがあるんだな――」

 口角を歪めたツクシは、すぐカッとなる性格だから博打には向いてない。自分でもそれはわかっている。金を賭ける博打はやらない主義のツクシの両脇で、ユキとモグラも座っていた。ユキは疲れたのか三角座りのままうつらうつらしていた。眠そうなモグラは大人たちの喧騒をぽけっと眺めている。

「ひとっ風呂浴びて眠りたいところだ――」

 あくびをしながらツクシが呟いた。

「エレベーター・キャンプにお風呂はないけど、水場ならあるわよ?」

 そういったのはリカルドの杯にお酌をしていたニーナである。導式鎧を脱いだニーナは、肉体のラインがはっきりと出る黒い防護スーツ姿だ。厳つい導式鎧を脱ぎ捨てたリカルドは、ひらひらとフリルがついた白いシャツに黒いズボン姿で赤ワインの杯を傾けている。

「へえ、ネストに水場があるのか?」

 ツクシが訊いた。

「うん。ほら、あそこの天幕の間の細い通路の奥だよ。私が案内してあげる」

 ニーナが兵士が使う天幕と天幕の間を指さした。

「それはありがたいな。リカルドさん、すまないが子供たちを見ていてくれるか?」

 立ち上がったツクシを寝ぼけた目でユキとモグラがツクシを見上げた。

「ウム、いわれずともだ」

 リカルドが快諾した。


 ニーナに案内されたツクシが、エレベーター・キャンプ内にあっても封印を施されていなかったその脇道を進むと、先から水音が聞こえてきた。壁沿いに半円状になった石造りの水場がある。神獣グリフォンを模した石像の口から透き通った水がゆるゆると流れ出している。その奥へ続く道は金網と有刺鉄線で厳重に封印されていた。設置された導式灯が月明かりのような光で水場の周辺を照らしている。

「ネストは地下だから、水脈に当たれば水が出るのは当然か――」

 ツクシはグローブを外した。

「うん、エレベーター・キャンプには、たいてい、何個も水場があるわよ」

 流れる水で手を濡らすツクシの横にニーナが立った。

「――飲めるか?」

 ツクシは目を細めて透き通った水を見つめた。

「ん、私? あまり強くないよ?」

 ニーナがいった。

「いや、酒じゃあねェよ、この水だ」

 ツクシがニーナの顔へ目を向けた。

 悪戯っぽく笑う切れ長の目元にあるのは少女の名残。

 どうも、トボけた愛嬌のある女だよな――。

 ツクシの口角も歪む。

「――水のことね!」

 あっ、と表情を変えたニーナが、

「大丈夫よ、深い層の綺麗な地下水だから」

 頷いたツクシが、顔を洗って口をすすぎ、ニーナへ水場を譲った。

「――やだ、タオル忘れた」

 ニーナが手ぬぐいを使うツクシの顔をじっと見つめた。

 俺は女に気を回すような軟弱な男じゃねェ。

 貸してくれ、と素直にいえ、この小娘めが――。

 ツクシもじっと視線を返した。青白い薄明かりに照らされた水場で、目つき悪い中年男と切れ長の目の若い美女が、お互いの視線を合わせ、やがて、戦わせ始めた。

 その最中、流水のせせらぎだけが岩の壁に反響していた。

「――使え。手ぬぐいなら余分にある」

 気まずくなったツクシが先に折れて手ぬぐいを突き出した。

 顔を歪めたツクシは真横を向いている。

「いいの?」

 それを受け取ったニーナに気後れをした様子はない。

「ああ、遠慮するな。貰い物の新品だ。ヤマさんに頼めば、くれると思うぜ」

 ツクシは年上の貫禄を見せようと頑張った。ツクシから渡された手ぬぐいにあった文字を見つめて、「ボルドン酒店」呟いたニーナがクスクス笑っている。

 何がおかしいんだ、この女――。

 ツクシは肩を震わせるニーナを眺めている。眺めている前だ。ニーナの防護スーツの前面に付いた止め具を外して上半身をはだけた。ニーナはスーツの下に胸元だけ隠すような白いタンクトップを着ていた。ニーナはツクシに白い背中を見せながら、その下着もさっと脱いでしまう。

「ぅお!」

 女性の不意打ちにツクシが呻いた。

「――ツクシ」

 ニーナは手に持った下着を突き出して、右腕を胸元に押しつけて乳房を隠している。かなり大きくて形もよろしい。この場合、隠している方が男性にとってよほど扇情的である。

「――なっ、何だ!」

 ニーナの手にあった下着をツクシが受け取った。

 若い女の体温が男の手に熱い。

 ニーナがツクシの必死な顔へ視線を流しながら、

「そんなに必死に見ないで。穴が開いちゃいそう。あと、水場にひとが来たら追い返してね」

 ツクシの視線はニーナの右腕で隠された胸元や腰のくびれた部分をウロウロしている。

「あのな――」

 ツクシが熱くなった溜息と一緒にニーナへ背を向けた。未練はあったが、ツクシにも意地もある。ただ、ツクシは右手にニーナの下着を握っている。女性の下着を握りしめながら意地を張っても格好良くはない。

 ツクシの背のほうで、ニーナはボルドン酒屋の手ぬぐいと冷水を使って身体を清め始めた。

 くそう、全裸とはいかないかよ――。

 ツクシがその様子を盗み見ながら、ぬらぬらと眼光を鋭くしていると、ニーナがふっと横顔を見せた。

 ツクシとニーナの視線がまともにぶつかる。

 ニーナの目元が笑う――。


 §


 ひとが来るのを警戒しながら、お互い手早く行為を済ませたあとだ。

「これ、洗って返さないと――」

 黒い防護スーツ姿に戻ったニーナが手元の手ぬぐいを見つめた。

「ああ、いい、いいよ。洗濯物は宿に頼んでいるから負担にならん――」

 ツクシがニーナの手から手ぬぐいを奪い取った。

「ツクシ、私が恥ずかしいんだけど。ニオイとか、ついてるかもだし?」

 ニーナが歩きだした。

「それ以前だぜ。知らない男の前で肌を晒すほうがずっと恥ずかしいだろ?」

 横を歩くツクシがニーナへ不機嫌な顔を向けた。

 ニーナはツクシの不機嫌を瞳に近く映したあと、

「――ツクシは、もう良く知っているでしょ?」

 ツクシは赤らんで歪んだ顔を横に向けただけで返事をしない。

 ツクシとニーナは地べたに腰を下ろすネスト・ポーターたちを踏み越えるようにして自分たちの荷がある場所へ戻った。壁際にいたリカルドがワインの杯をまだ傾けている。

「リカルドさん。ユキとモグラを見ていてもらって助かった」

 ツクシがいった。

 ユキとモグラは背嚢を枕に寝息を立てていた。

「お父様、買ってきたお酒を飲んでない? ダメよ、ほどほどにしないと」

 ニーナは目尻を吊り上げた。

「ウム、礼には及ばんぞ、ツクシ。弱者を守るのは当然の務めよ」

 リカルドはツクシだけに返事をした。どうも、リカルドは娘に酒量を制限されているようだ。ツクシがゴザに気だるくなった腰を下ろしたところで、ヤマダが博打の勝ち銭を持って凱旋した。訊くと、ヤマダの勝ちが過ぎて博打の場がお開きになってしまったという。これは賭場荒らしである。周囲をゴロウ、チムール、ヤーコフ、トニーが取り囲み、尊敬の眼差しをヤマダに送っていた。

「博打が強いんだな、ヤマさん。驚いたぜ」

 ツクシが口角を歪めて見せた。

「そんなに勝ったんだ。すごいね、ヤマさん」

 ニーナも笑顔を向けた。

 頭に手を置いたヤマダが、

「ええまあ――自分、雀荘でアルバイトをしていたことがあったんすよ。そのとき色々な博打をバイトの同僚に教えられて。そいつが本当に悪い奴だったんすよ――」

 ツクシが主にゴロウへ鋭い視線を突き刺しながら、

「ヤマさん、あぶく銭を取ったなら気をつけろよ。そいつら、すぐムシりにくるぜ。寄生虫みたいなもんだ」

「おいおい、ご挨拶だなァ、ツクシ――」

 ニヤニヤしながらゴロウがツクシの横で胡坐をかいた。

「金のある奴から奪って何が悪いんだよ、ツクシよ」

 チムールが薄い唇を反らせた。

「き、昨日はご馳走になった、ありがとうな、ツクシさん」

 ヤーコフが笑った。

「しかし大勝だったよな、ヤマ。俺たちに酒を一杯奢ってくれよ」

 トニーはさっそくヤマダからムシりとろうと画策していた。

「――あ、そうそう。みなさん、良かったらこれやってください」

 ヤマダが背嚢から瓶を取り出したウィスキーの大瓶を見て、

「ヤマさんはそれを持ち込んできたのか。断る理由はないよな」

 ツクシが目を見開いた。

「おっ、ヤマ、昨日の酒かァ!」

 ゴロウも目を丸くした。

「ヤマよ、それは頼まれても遠慮はしねえよ」

 チムールが薄い唇を舐めた。

「ヤ、ヤマさん、い、いいのかい?」

 ヤーコフが身を乗り出した。トニーは目の色を変える周囲に少し戸惑っている様子である。

「ああでも、コップが人数分ないな――」

 ヤマダが眉間に谷を作った。

「おっしゃ、ヤマ、ちょっと待ってろォ!」

 ゴロウが店仕舞いの片付けをしていたネスト行商のほうへドタバタ走っていった。恫喝めいた短い交渉のあとだ。木製のコップを調達したゴロウが走って戻ってきた。

「おお、さすが、ゴロウさん、仕事が早い! リカルドさんもどうぞ。良かったら、ニーナさんも。女性にはウィスキーのストレート、ちょっとキツイかも知れませんが――」

 ヤマダはまずウィスキーの瓶を凝視していたリカルドへ立膝で擦り寄った。

 大きく頷いたリカルドがヤマダへ手にもっていた杯を突き出して、

「ウム、興味深い。ヤマよ、喜んでその杯を受けるとしよう」

「お父様、味を見るくらいにしてね?」

 ニーナは横目で父親を睨んでいる。

 そのニーナの杯にも、ヤマダはウィスキーを注いだ。

 ウィスキーの杯に鼻を近づけたリカルドが、

「フム? エールのような、妙な色合いよな。香りは麦の火酒。しかしこれは複雑な――」

 鼻の下のカイゼル髭が上下へ忙しなく動いている。

「ええ、リカルドさん。大元の原酒は大麦を原料にした透明な蒸留酒っす。異世界こっちの俗称では火酒っすね。それを樽で何年か寝かせると、こんな色と香りがつくっす。樽が持っている色と香りが時間をかけて原酒に移るんですね」

 ヤマダがウィスキーの大まかな説明をした。

「フム。これは樽の色と香りとな。薬草を火酒に漬け込むのではなく、樽で寝かせるとこのような良い香りが出るのか。まあ、いただこう――」

 杯を呷ったリカルドが、

「――フム、これはまさしく火酒の強さよ。強いが、しかし、火酒とは思えぬほどに口当たりが良い。少々無骨な味わいだ。しかし、そのなかにも幾多の香りがある。これは面白い。樽の香がこのような複雑な味わいを産むとはな!」

「これが、ボルドン酒屋の主力製品っす。ウィスキーっていいます。この銘柄は『バルドル』ですよ。良かったら贔屓にしてやってください」

 ヤマダは頬を赤くして嬉しそうだった。

「ケホッ! すっご、これ強すぎ――」

 ニーナはウィルキーに咳き込んだ。

 娘のほうは酒に強くないようである。

 苦笑いのヤマダが、

「あ、そうそう、いい忘れていました。水で割ったほうがいいっすよ。むしろ、それがお勧めの飲み方っすね。瓶詰め時に加水してアルコール度数を調整してありますが、そのままだと基本的にキツイっすから」

 その進言を受けて、ニーナは革水筒の水をウィスキーに足したのだが、ひと口飲んでまた眉を強く寄せた。

「水かァ。この味を薄めちまうのも、どうかなァ?」

 ゴロウはストレートのウィスキーをぐいぐい呷っている。

「俺もよ、このままのほうがいいよ。この強さがいいんだよ」

 チムールはウィスキーをひと口飲むごとに顔を縮めてご満悦だ。

「あ、ああ、チムール。喉が焼けるのが火酒の良さだ。ウ、ウィスキーか?」

 ヤーコフが杯を呷って目をうんと細くした。

「んー、俺はちょっと水を入れたほうが好みかもな――」

 トニーは水割り派のようだ。

「我輩は気に入ったぞ。これは食前酒や食後酒に良さそうだ」

 リカルドが空にした杯をヤマダに突き出した。

「お父様。強いお酒は身体に障るわ、そのくらいにしておいて」

 ニーナが細い眉を吊り上げた。

「野暮をいうでない、ニーナよ」

 リカルドはムッと眉を寄せた。

 ヤマダは親子のやり取りを見て迷っていたが、結局、リカルドの杯へウィスキーを注いだ。

「――私のいうこと、全然聞かないんだから」

 ニーナが視線を落とした。

 どこの世界の親子も似たようなものだな――。

 ウィスキーの杯を片手に横目でうつむいたニーナを眺めていたツクシが、

「しかし、金をとらずにくれていいのか、ヤマさん。このウィスキーは大事な商品なんだろ?」

「宣伝も兼ねてますから、いいんすよ。この世界の宣伝は口コミが一番強いっす。広告屋――異世界こっちのチンドン屋を使う手もあるけど、あれはどうも効果が怪しいっすね。金も無駄にかかりますし」

 ヤマダの言葉に頷いて、ツクシは杯を呷った。顔を赤らめたチムールが背嚢から黒い干し肉の塊を取り出し山刀で切り刻んだ。ヤーコフは杯を舐めながら、チムールを見守っている。

 チムールは胸元から取り出した手ぬぐいを広げて切り刻んだ干し肉を並べると、

「ツマミだよ、食えよ」

「へえ、チムールが珍しいじゃねえか。どうした、もう酔ったのか?」

 一番先にゴロウが干し肉へ手を伸ばした。ツクシも干し肉を口に入れた。それはむっと獣臭くて硬いものだ。だが、常温で飲むニート(※ストレートの意)のウィスキーの無骨で誇り高き酒の香は干し肉の獣臭に負けることがない。

「うるせえよ、ゴロウ。これはヤマへの礼だよ。お前らはついでだよ。だからよ、食えよ、ヤマよ」

 チムールが干し肉の大きな塊を手にとってヤマダの鼻先に突きつけた。

「いえ、自分で勝手にやっていることっす。気にしないでください」

 苦く笑ったヤマダが干し肉を受け取ってそれを口に運んだ。

 口のなかの獣臭さをウィスキーで流したツクシが、

「これは何の肉だ?」

「ぶ、豚だ。安物だけどな。む、村では猪や鹿で干し肉を作った」

 ヤーコフが応えた。

「俺は猪のほうがいいよ、豚は腑抜けた味がするからよ。しかしよ、ヤマよ、俺はこの酒が本当に気に入ったよ。値段は一本いくらすんだよ、これよ」

 チムールは木の杯に底にある琥珀色を見つめた。

「あ、ああ、ヤマさん、一本もって帰りたい。ひ、火酒だから日持ちもいいんだろう?」

 ヤーコフが身を乗り出した。

「えと、八枚くらいっすかね?」

 ヤマダはひと際苦み走った笑みを浮かべた。

「これ一瓶が八枚。ぎ、銀貨でか?」

 水割りをちびちびやっていたトニーの声が裏返った。

 頷いたヤマダが、

「ええ、トニーさん。小売では一番安いものでこの値段っすね。ゴルゴダ宿酒場でも、同じ値段で出している筈っすよ」

 卸値は半額程度まで負けているのかな――。

 ツクシはウィスキーを口内に溜めながら考えた。

「ヤマよォ、もう少し値段を勉強できねえのかよォ?」

「値段が高すぎるよ、ヤマよ。とても手がでねえよ」

「す、すまない、ヤマさん、そんな高価なものだとは――」

 ゴロウとチムールとヤーコフは手に持った杯を凝視した。

「いやいや、申し訳ないっす。小売ではまだ勉強ができなくて――ウィスキーの製造はまだ技術的に問題が山積みなんすよ。うちが原酒仕入れている蒸留所はドワーフ公国内にあるので、まず王都までの輸送に金がかかる。樽も特注だからコストが高い。何よりも原酒の熟成に時間がかかります。理想は蒸留所から直営なんですけど、今はまだそれが厳しいっす。ただ、ボルドンさんとよく、これから店の規模を広げていこう、そんな話はしているっす。時間がかかっても、いずれは安くできると思うっすよ。いえ、必ず安くしてみせますよ!」

 ツクシは語るヤマダの真剣な表情を見て眉根を寄せた。日本でのヤマダは不遇の環境にいたらしい。それがどうして日本へ帰還する決意を固めたのだろうか。昨日の夜、ヤマダは何かを考え込んでいる様子だったが――。

「――昨日の夜、この高級ウィスキーの空瓶が、五、六本は、テーブルに転がっていたな。おい、俺から目を逸らすな、こっちを見ろ。殺されてェのか。お前らだよ、お前ら。ゴロウ、チムール、それに、ヤーコフだ。いいか、良く聞け、昨日の会計はな――」

 ツクシは他人のことを考えているうちに自分の境遇を思い出して殺気立った。ツクシの眉尻が天を衝かんばかりにハネ上がり、その三白眼は底冷えする鋭い輝き帯びている。ゴロウ、チムール、ヤーコフはこれを見ないことにして各々の杯にある酒をじっくり味わっていた。先日の酒宴に関係がないトニーがツクシの形相を見て真っ青だ。リカルドは杯にあるウィスキーを慈しむようにして舐めている。ニーナはツクシの悪人顔を面白そうに眺めていた。

 ヤマダが苦笑いで殺気立つツクシの杯へ酒を足しながら、

「自分も昨日の晩はツクシさんから奢られたっすよ」

「ああ、いや、ヤマさんはいいんだ。そんなたくさん飲んでなかっただろ。ん、いや待てよ。あのとき、この馬鹿高いウィスキーをガバガバやっていたのは、アルさんだったな。クッソ、あのオッサンは――」

 ツクシがうなだれた。

「フム、この酒が銀貨八枚か。ニーナよ」

 リカルドが口を開いた。

「お父様、絶対にダメよ」

 ニーナは即答である。

「ムウ、親のいうことを全然、聞かぬ娘よなあ――」

 リカルドが鼻先にシワをよせた。

 ネストの酒宴中、ツクシが訊いた。

「チムールとヤーコフはいつも干し肉を食っているよな。これが好きなのか?」

「ネ、ネスト行商が売るメシは高いので節約してる」

 ヤーコフが応えた。話を聞くとチムールとヤーコフはネスト・ポーターの賃金を貯めて、王都で何か商売を興そうと考えているらしい。

「革製品の店を王都でやりたいんだよ。卸でも小売りでもいんだけどよ。それによ、俺たちができそうなのはよ、それくらいしかないしよ」

 チムールがいった。チムールは狩りの名手であり動物の革の扱いも手馴れている。これはヤーコフが周囲に教えた。チムールとヤーコフはグリフォニア大陸の北西部、その山村の出身の幼馴染であり、無二の親友であり、お互いを相棒と呼ぶ仲だ。戦乱が始まる前、チムールは村の狩人でヤーコフは村の木こりだった。

 ヤーコフが語り続けた。

 チムールが領主の御前狩で一番大きな牡鹿を仕留めたこと。村唯一の酒場にはその牡鹿の頭の剥製が飾られていたこと。村の祭りや、村の女たち、自分たちの家族や友人や村でやっていた仕事のこと。夏の朝霧にけぶる山の輝き。秋に肥え太る獣の躍動と山の恵み。山村の厳しい冬の暮らし。その冬を越した春の喜び――。

 視線を落としたニーナが小さな声で、

「ヤーコフのその話、何度聞かせるつもりなの――」

 ヤマダはヤーコフの顔をじっと見つめていた。ゴロウとリカルドとトニーは杯を静かに傾けていた。チムールは横を向いてずっと黙っていた。しかし、黒い髭面をほころばせて語るヤーコフをチムールはいつものようには止めない。酔いが手伝って上機嫌なのか、ヤーコフを止めるのが面倒なのか、横を向いているチムールの顔から読み取れない。

「お、おれたちは村に帰りたい。でも村はたぶん戦争でなくなった。だから、チムールと俺は金が貯まったら王都で商売を始めるつもりだ」

 話の最後で視線を落としたヤーコフはもう笑っていなかった。

「――村へ帰れたら一番いいんだけどよ」

 横を向いたままチムールがいった。そこで、ヤマダが持ち込んだウィスキー『バルドル』の瓶は空になった。

「戦争か――」

 ツクシはうつむいたまま呟いた。誰からも返答はなかった。会話を切らしたままツクシたちは床についた。他のネスト・ポーターや兵士たちは、もうほとんどが寝入っている。

 エレベーター・キャンプにファングの遠吠えが長く響く。


 夜半過ぎだ。

 ユキに揺り起こされてツクシの目が覚めた。

 丸い眉を寄せて、猫耳をピクピクとさせ、切羽詰まった表情のユキが、

「ツクシ、おトイレ行きたい」

「んなもの、一人で行ってこい」

 そういいかけたツクシが、自分の寝袋を剥ぎ取った。ネスト・ポーターのなかには以前のトニーのように自分の女を連れ込んで、休憩時間に男女の行為を働く輩もいないことはない。男女でなくても行為を働いている輩もいないこともない。ツクシ自身も直近の出来事でその身に覚えがないわけではない。ともあれ、幼い女の子のユキを一人で行動をさせるのは危険である。

 そもそも、俺の目の届く範囲にいろとユキへいったのは、俺自身じゃないか――。

 自省で顔を歪めたツクシはユキと一緒に、エレベーターキャンプの片隅にある仮設トイレ――屎尿を貯める樽が床下にある高床式の小屋へ行った。ユキはそこで小用を済ませた。そのついでに、ツクシも小用を済ませた。その仮設トイレは臭うのでエレベーター・キャンプの中心から遠い位置にあるのだ。すっきりした筈のツクシもユキもそこから出てくるときはしかめっ面だった。しかめっ面のまま、ツクシとユキが寝床へ戻ってくると、リカルドが咳をしていた。ニーナが咳き込むリカルドの背をさすっている。ゴロウも起きてリカルドの様子を見ていた。

「このていど、何ともないぞ」

 リカルドは強がっているが、そのカイゼル髭が赤いもので濡れている。

「何ともなくはないわよ、あんなに強いお酒をたくさん飲んで!」

 ニーナは刺すような口調だった。

 ゴロウがリカルドの脈をとったりその胸元を開いて眺めたりしながら、

「肌の色はさほど悪くないし、熱もないみたいだ。咳止めをやるか――」

 ゴロウが与えた咳止めの薬が効いたのだろうか。

 しばらくするとリカルドの咳は収まった。ツクシとユキは声をかけそびれたまま壁際に身体を横たえた。そのまま眠れないでいると戻ってきたゴロウがツクシの横に寝転がった。

「リカルドさんは病気なのか?」

 ツクシの問いに、

「まァなァ――」

 ゴロウが短く応えた。

 ツクシはそれ以上を訊かずに目を閉じた。

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