十二節 琥珀色のめぐり合い

 場所は戻ってゴルゴダ酒場宿だ。

「おう、カルロさん、もうやってるのか?」

 ツクシがいった。

「よう、ツクシ、お前もか?」

 カルロは顔を前に向けたまま応じた。

 ツクシが頷いて、

「休日に俺のやることはこれくらいだぜ」

「俺だって見ての通りだ」

 ツクシはカウンター席の右端で飲んだくれていたカルロの左に陣取った。だからといって、それ以上の言葉を交わすわけでもない。お互い黙って酒を飲む。

 結局、ツクシは昼前から酒を飲みだしたのだ。

「――フレイア。私がやるなといったことを、あなたは何度繰り返せば気が済むの!」

 宿の階段を下りきったところで、滅紫色のローブに導式ゴーグルの少女が怒っていた。激怒しているのは、アルバトロス曲馬団所属のフェデルマである。見た目は八歳児かそれ以下に見える。しかし、憤る口調は大人っぽい。

 猛烈に憤るフェデルマの前で、

「だってえ――」

「ミーィ――」

 子猫を抱きかかえた陰陽師っぽい装束の少女がうなだれていた。彼女はアルバトロス曲馬団所属のフレイアである。十四歳前後に見えるが口調は幼い。

「まあ、宿のなかでは飼えないからな。フレイア、また宿の裏でエサをやればいいよ」

 片刃の大剣を背負った黒い丸眼鏡の男が、カッカとしているフェデルマを宥めていた。アルバトロス曲馬団所属のロランドである。背に負った禍々しい大剣とは裏腹に、いつ見てもロランドは顔色悪く、前髪が長く、どうも頼りない。

「裏で餌付けするのも禁止。宿の迷惑になるでしょう」

 フェデルマが吐き捨てるようにいった。フェデルマの目はゴツゴツしたゴーグルで隠されているが、おそらく、その下にある目は、眉と同じくらい吊り上がっているのだろう。

「えっ、やだ、この子がかわいそう!」

「ミーミー!」

「フェデルマさ、そのくらいは――」

「ロランドは黙っていなさい」

「あのさ、そんなにガミガミと――」

「黙りなさい! だいたいね、ロランド、貴方がだらしないからいけないのよ。そういうところだけお父さんにそっくりで――」

 フェデルマの怒りの矛先が変わった。

 ロランドがたじたじになっている。

 ホールの中央では丸テーブル席に陣取ったエイダが算盤ソロバンを片手に宿の帳簿を睨みつけていた。ミュカレは付近でふわふわとステップを踏むようにブラシで床を磨いている。ツクシがミュカレに訊くと、マコトとセイジは馬を使って食材と備品の買出しにいっているらしい。

「ちょっと、わたくし、出かけますわ」

 階段から降りてきた金髪ドリルツインテールのマリー嬢が、ツンツンしながら表へ出ていった。

 ツクシはエールの杯を傾けながら宿の日常を眺めていた。ゴルゴダ酒場宿は明確な営業時間が決まってはいない。本格的な料理が客に提供されるのは夕刻からだ。ただ、正面出入口の扉は朝から夜まで開けてある。昼をすぎると、来客で客席の半分が埋まって賑やかになった。カウンター席で腰も重たく酒の杯を連ねるツクシの左にも、赤い髭面の大男が腰を下ろした。これはゴロウである。

 挨拶抜きだった。

「おい、ゴロウ。昨日の晩、どこでどんな女とアソんだのか俺に詳しく教えろ」

 ツクシが顔を前に向けたまま訊いた。

「あァ、ツクシ。教えてやるから、俺に一杯奢れや」

 ゴロウがニヤリと笑った。

 クソッ、本当にケチな野郎だ――。

 顔を歪めたツクシは、それでもミュカレを呼んだ。

 ゴロウはミュカレの手で運ばれてきた赤ワインの杯を傾けながら、

「ゴルゴダ酒場の東北へ十分くらい歩くとなァ。ペクトクラシュ河沿いに娼館が並ぶ区画があって好きなだけ女が買えるぜ」

 訊くとゴロウの定宿もその界隈あるらしい。先日、ツクシはネストで拾った秘石を金に換えたので財布に余裕がある。

 今夜にでも、その界隈を散策するかな。

 いや、今から行くかよ――。

 そわそわしだしたツクシがカウンター席から腰を浮かせたところで、

「や、やあ、ゴロウさん、ツクシさん」

「よう、お前らよ」

 ツクシとゴロウが振り返るとヤーコフとチムールが立っている。

 ゴロウがニヤニヤ笑いながら、

「お、チムール、ヤーコフ、いいところへ来たなァ。ツクシに一杯奢ってもらえ。金、持ってるぞォ、こいつ」

「おい、ゴロウ、手前てめえ――」

 ツクシが横目でゴロウを睨んだ。

 殺すつもりの眼光である。

 まったく怯む様子のないゴロウは、

「ツクシがな、昨日、ネストで秘石を拾ってなァ。どうも、それを金に換えたらしいぜ。あれは、でかい藍玉だった。金貨十二枚にはなったらしいなァ!」

 導式具細工店の親父トムとの交渉で得た金貨三枚の報酬が少なかった。

 そうゴロウは感じているようだった。

「おいおい、ツクシ、藍玉かよ。お前はどれだけ幸運なんだよ。それを一緒の班にいた俺たちに黙ってたのかよ。そりゃあよ、聞き捨てならねえよ。じゃあよ、ツクシに一杯奢ってもらうかよ、ご祝儀を貰わなきゃあよ!」

 いつも横を向いているチムールが真正面から笑顔を見せた。

「わ、悪いなツクシさん。今からご馳走になるよ!」

 叫ぶようにいったヤーコフも黒い髭面に満面の笑みを湛えている。ツクシは顔を歪めて抵抗したが、それでゴロウもチムールもヤーコフも帰る様子はない。結局、ツクシたちは揃って近くの丸テーブル席へ移動した。他の連中はともかく、ツクシは嫌々だ。

 ツクシはミュカレにグラッパを一本注文した。

 弱い酒をこいつらに飲ませていたら、俺の懐にある金はあっという間にムシり取られちまいそうだよな――。

 ツクシはこう考えた。

 ツクシに元いた世界とカントレイア世界の蒸留酒製造方法が同じかどうかはよくわからない。しかし、ゴルゴダ酒場宿にあるグラッパがブドウの粕取り焼酎であるということは、その味からして間違いなかった。このアルコール飲料の一般的な名称は、ポマース・ブランディ。グラッパはイタリアで生産されるポマース・ブランディの呼称である。フランスではこれをマールと呼んでいる。この酒の酒精は一般的に四十度~五十度。ツクシの感覚では、異世界のポマース・ブランディの酒精が五十度あると判断した。飲んだくれの知識をツクシが脳内で再生していると、ミュカレが酒の肴として鯉料理を勧めてきた。話を聞いていると鯉はペクトクラシュ河で養殖が盛んであり一般的な食材らしい。

「夕方の予約客の中で鯉料理を希望した一団があって、それを一尾余計に仕入れてきたので、良かったらいかが。鯉を食べるとすごく精力がつくのよお――」

 ミュカレがツクシの耳に熱い吐息をかけながら教えてくれた。

 今宵の女遊びを考えると精力をつけておくのも悪くない、か――。

 ツクシはその気になった。エールとグラッパで口を湿らせつつ待っていると、巨大な鯉の酒蒸し焼きが運ばれてきた。とにかく大きい。全長八十センチ以上ある巨大な鯉だ。味は淡白で白身魚のそれだった。そのうち、チーズとハムの盛り合わせや、追加で注文されたワインの太いボトルが運ばれてきた。ゴロウが隙を見て勝手に注文している。チムールやヤーコフも同じことをしていた。

 正午を二時間過ぎたところだ。

 悠里がゴルゴダ酒場宿に戻ってきた。鍔広帽子を頭に乗せて、茶色いマントを羽織って、手から黒いビジネス・バッグを下げた悠里の見た目は異世界のサラリーマンである。

「おい、悠里、約束通り、今からお前にも酒を奢るぞ!」

 ツクシが悠里をバカでかい声で呼んだ。

 酒で大きくなった声だ。

「あっ、ツクシさん、今、戻りました。おや、みなさんも、お揃いですね。うわ、すごいな。今日は何かのお祝いですか? ゴロウさんとそれに――誰でしたっけ?」

 悠里は卓の上に並んだ数々の料理と酒瓶を見て目を丸くした。

「ああよォ、悠里、まあ、座れよォ!」

 ゴロウがダミ声を張り上げた。

「俺はチムールだよ。お前が噂の悠里かよ。まあよ、座れよ、今日はツクシの奢りだからよ、遠慮するなよ」

 いつも気難しいチムールも今日は酒が手伝って上機嫌だ。

「お、おれはヤーコフだ。悠里さん、座れ、一杯やろう」

 ヤーコフはいつも通りの柔和な笑みで悠里へ着席を促した。

 丸テーブル席に腰を下ろそうとした悠里が、

「じゃあ遠慮なく――あっ、ええと、僕は今からやらないといけない見積もりがあるんで、あとで参加します。すぐ、やってきますから」

「あ? 悠里、今、ふざけたこといったな、手前てめえ?」

 ツクシが悠里をギッと睨んだ。

 三白眼が酒で完全に据わっている。

「――まあ、いいか。はい、ご馳走になります、ツクシさん、あははっ!」

 腰を下ろした悠里はそれでも嬉しそうだ。大酒飲みが集うとむさくるしい宴会は飲み比べの様相を見せた。酒に酔うと気が大きくなったり、いい加減になったりして、各々好き放題なことをいい始めるものだ。

「カントレイア世界に空路はないのか、あぁん!」

 ツクシが悠里へ大声で尋ねたのを皮切りに、カントレイア世界の交通機関が話題に上った。

 ゴロウが自分の杯へとドバドバと赤ワインを注ぎながら、

「ニホンでは、鉄でできた機械にひとが乗って空を飛ぶってか? グリーン・ワイバーンでなくてかァ? ツクシ、お前は馬鹿か、馬鹿なのか?」

「馬鹿は手前だ、この赤髭野郎。ああ、飛ぶぜ、飛行機なんか世界中で気軽に飛び交ってらあ――で、悠里よ、グリーンバンバーンってなんのことだ?」

 ツクシが空の杯を悠里の前に突きつけた。

 悠里がにこにことツクシの杯にグラッパを注ぎながら、

「ツクシさん、グリーン・ワイバーンですよ。あれはドラゴニア大陸のディ・ラクエイア山脈周辺に生息する生き物でしてね。ひとを乗せて空を飛びます。グリーン・ワイバーンは草食動物でよく懐くから飼いやすいんです。グリーン・ワイバーンはタラリオン王国空軍の主力――」

「――悠里よ、お前の話は長いんだよ、もうよ、一生黙ってろよ。とにかくよ、ツクシ、お前のフカシはもういいよ。ありえねえよ、導式機関で空飛ぶとかよ、頭のなかにあるお花畑の国なんだろよ、そのニホンって国はよ!」

 悠里の長弁舌を遮って、赤ら顔になったチムールが息巻いた。息巻く息が酒臭い。悠里がチムールの横顔を「きいっ!」と睨んだ。チムールは丸シカトである。

「おい、チムール、手前てめえ、俺の話をちゃんと聞いてたのか? 飛行機はジェットエンジンだよ、油を燃やして飛ぶんだ。導式機関なんて得体の知れないシロモノじゃねェ。文明の利器ってやつだ。プロペラで飛ぶやつもあるぜ、レシプロ機だ、これも油が燃料だ。内燃機関だ、霧状に噴霧した油を細かく爆発させてな、ピストンを動かすんだよ、わかるか、ピ、ス、ト、ンだよ、ぬあぁん!」

 ツクシがこの説明をするのは本日三回目だ。

「おいおいおいおいツクシよ。まず鉄の塊が空を飛べるわけねえよ。わけわからねえよ。全ッ然面白くねえ冗談だよそれよ。性格がしつこいんだよ、お前はよ!」

 そういうチムールも散々しつこくツクシに絡んでいる。

「だ、だが、チムール。今は導式機関で動く荷車があるんだろ? だから、そ、空だって、いつかは飛べるかもしれない!」

 酒の勢いなのか。

 チムールの意見に珍しくヤーコフが反論をした。

 チムールは横目でヤーコフを睨みながら、

「ヤーコフよ、あれはまともに走らなかったんだよ、すぐそこの河に沈んだらしいよ。ガラクタだよ、あんなものはよ!」

「し、失敗は成功の母だ、チムール!」

 ヤーコフが叫んだ。このヤーコフは粗野な山男といった風貌だが案外と新しい技術に興味があるらしい。

 機嫌を良くしたツクシは悠里の手からグラッパの瓶をひったくって、

「おう、ヤーコフ、お前はなかなか、いいことをいうじゃねェか。良し良し、俺の杯を受けろ――」

「ああ、ツクシさんはわかってる。わ、わかってるなあ――」

 ヤーコフは顔をほころばせ透明な強い酒で満たされる自分の杯を眺めている。

 顔をしかめたチムールがゴロウの手からワインの瓶をひったくって、

「それよりツクシよ。腰につけているおかしなサーベルの剣術をよ、どこで習ったんだよ。そっちが俺は気になるよ。それもニホン製品とやらなのかよ?」

 頷いたゴロウが、

「それは、俺も気になってたぜ、チムール。ツクシ、おめェが腰から吊るしてるのはカタナってやつなんだろ。それ、倭国の騎士しか持ってねえサーベルだ。おめェはサムライ・ナイトなのか?」

「ツ、ツクシさん、やっぱり、サ、サムライ・ナイトなのか?」

 サムライ・ナイトと聞いて興奮したヤーコフの黒い髭面が真っ赤になった。

「えっ、ツクシさん、またまたその刀で誰かっちゃったんですか。やっぱり、日本でそういうスジのひとだったんですね。僕もそうだと思ってたんですよ。眼光ハンパないですし。それって完全にひと殺しの目ですよね、ツクシさん」

 悠里がツクシの不機嫌な横顔をじっと見つめた。

 ツクシは悠里の無表情で端正な顔を横目で力の限り睨んでいる。

「なんだよ、悠里よ、そういうスジってよ――」

 酒の杯の縁を齧りながら呟いたチムールが、

「ああ! 名もなき盗賊ギルドのことかよ。だろうな、堅気の顔つきじゃねえよ、こいつはよ。ツクシよ、これまで何人殺してきたんだよ、正直にいえよ。百や二百なら俺だって驚かねえからよ」

 チムールはどうしてもツクシを大量殺人鬼シリアル・キラーにしたいようだった。

「あのな、お前らな。だいたい、何だよ、そのサムライ・ナイトって。言葉の意味が微妙にかぶってるだろ――はあ、俺は小便に行って来るぜ」

 ツクシが苦虫を噛み潰したような顔で席を立つと、ホールの中央でエイダと交渉をしている二人の男が目に映った。


 丸テーブル席で帳簿を睨んでいたエイダが睨んだままの顔を上げて、

「またアンタらは営業にきたのかい。しっつこいねえ!」

「女将さん、うちの商品をここに置いてやってくださいよ、少しだけ、ね、何本かだけでいいんだから!」

 そう頼み込んでいるのは、黒髭の禿親父である。髭の親父はまるで贅肉で作った樽のような体形だった。その横で、黒ぶち眼鏡をかけた小柄な男もぺこぺこ頭を下げている。それでも黒ぶち眼鏡の男のほうが贅肉樽より身長が大きい。

「前にもいったろ。うちは大衆酒場だからねえ。だいたい高すぎるんだよ。アンタらのとこの酒はさ――」

 エイダは乗り気ではないようである。

「まあ、そういわずに、女将さん、味見だけでもお願いしますよ。ゴルゴダ酒場宿にうちの商品を置かせてもらえばね、いい宣伝になるし、うちの商売も軌道に乗るんです。そうすれば、卸値だって勉強できる。勝手ないい分なのはわかっていますが。ひとつ頼みますよ――おい、ヤマ、試供品持ってこい」

 贅肉樽が黒ぶち眼鏡へ髭面を向けた。

 黒ぶち眼鏡の男はヤマ、という名前のようである。

「了解っす、ボルドンさん!」

 ヤマが表へ出ていった。

「アンタは確かボルドンっていったかねえ――ボルドンさんねえ、試しても、いい返事はできないと思うけどねえ。大麦で作った火酒を樽で寝かすのまではいいんだけどね。寝かした年数で値段が高くなるんだろ」

 ジロリとエイダが贅肉樽――ボルドンを見やった。かなりの迫力である。

 ボルドンが揉み手をしながら、

「はい、そりゃあ、そうですよ。樽で寝かした年数が長いと、それだけ原酒の味のカドが取れてまろみがですな。この樽の種類もキモでして――」

「それは、この前にも聞いたよ。そこも問題なんだよ。同じ酒で値段が違うと、うちの客は納得をしないだろうしねえ」

「あっ、いやいや、そこは女将さん、そこらは、味を見ればわかるんですよ――おーい、ヤマ、早くしろ!」

 ボルドンが表へ怒鳴ったところで、用を足して戻ってきたツクシが、丸テーブル席へ腰を下ろした。待ち構えていたように、悠里がツクシの杯へグラッパを注いだ。

 偉そうに頷いたツクシはおもむろに杯を手にとって、

「うん――とにかく、俺もこの悠里も日本から来たってのは嘘じゃねェ。だから、いくら俺に訊かれても倭国ってのは知らん。サムライ・ナイトも知らん!」

「だからよ、ツクシよ、お前のフカシはもういいよ。それを何度聞かせるつもりだよ。しつこいんだよ、お前はよ」

 チムールがすかさず巻き舌でツクシに絡んだ。

 ツクシは飲み干した杯をダンと卓上へ叩きつけて、

「チムール、俺がいっていることは、フカシじゃあねェ!」

「まあ、ツクシさん、落ち着いて落ち着いて――」

 悠里がツクシの杯にグラッパをまた注いだ。青い瓶からとくとくと流れる透明な液体を眺める悠里の顔は穏やかだ。お酌をするのが好きらしい。

 ゴロウがでかいハムの固まりを噛み千切りながら、

「ツクシ、ニホンはもういいからよォ。サムライ・ナイトの話を俺たちに聞かせろやい」

「ツ、ツクシさん、おれも聞きたい。で、伝説のサムライ・ナイト、流離さすらいいの剣士の英雄譚!」

 ヤーコフが叫んだ。

「だから、倭国もサムライ・ナイトも俺は知らん。日本だ。俺がしているのは、日本の話だ!」

 いよいよプッツンしたツクシの怒鳴り声が響き渡ったのと同時である。

「ガシャーン!」

 ものが割れる音がした。

「おう?」

 ツクシが見やると割れた瓶から流れ出た琥珀色の液体が酒場の床を濡らしている。その近くにヤマが突っ立っていた。表から持ってきた酒瓶を取り落としたらしい。

「おい、ヤマ、気をつけろい! ああ、もう、不手際ですいません。女将さん、今すぐに片付けますんで――」

 ボルドンがエイダへ禿げた頭をペコペコ下げている最中である。

「あら、いいのよ。私がやるから――」

 長柄のブラシとチリトリを持ってきたミュカレが割れた瓶を片付け始めた。

「ああ、これはエルフのお嬢さん。まったく面目ねえ。ウチの若いのの不注意で――」

 ボルドンが禿頭を下げる方向を変えると、「あら、お嬢さんだなんて――」と、微笑みを大きくしたミュカレの作業スピードがおそろしく速くなった。

 下げた禿頭を上げたボルドンが、

「おい、ヤマ、何をボンヤリ突っ立ってやがる。さっさと女将さんとエルフのお嬢さんに謝れ!」

 ぼうっと突っ立っていたヤマは返事をせずにふらふら歩きだした。

「ヤマ、おい、どうしたんだ?」

 その背にボルドンが声をかけた。

 ヤマはそのままツクシたちのいる丸テーブル席に歩み寄って、

「ニホン? 今、日本っていいましたか?」

 頬を真っ赤にしたヤマは黒ぶち眼鏡のレンズを曇らせているので、表情がはっきりとわからない。

「あぁん、だからどうした、この野郎?」

 ツクシはヤマを眺めた。ヤマは身長百六十センチ弱の小柄な三十路絡みの男だ。黒ぶち眼鏡をかけて黒い髪、濃紺の上衣と紺色のズボン姿で腰に黒い前掛けをつけている。見た目はどこかしらの従業員風である。あとの特徴といえば、このヤマは首から琥珀色のペンダントをさげていた。言語翻訳用の導式具――虎魂のペンダントだ。

 それを見て、「おや?」と、ツクシは表情を変えた。

「ん、どうかしましたか?」

 悠里もヤマを見上げた。

「自分はS県のS市出身の山田孝太郎やまだこうたろうといいます。このカントレイアに迷い込んで、い、い、一年くらいいっ一年――うっひ、ぐぅえ、おぅえええ!」

 ヤマ――ヤマダが泣き始めた。

 うおんうおん、と声を上げて、惚れ惚れするような男泣きである。

 酒の酔いを一気に冷たくしたツクシが、

「あ、あんたも日本から異世界こっちへ迷い込んだのか!」

「おっ、おっ、驚いた、カントレイアにまだ日本人が!」

 悠里も飛び出さんばかりに目を丸くした。

「何だよ、この野郎はよ、メソメソとよ――」

 チムールは怪訝な顔である。

「へえ、この眼鏡の男もツクシと悠里の同郷なのか。ニホンだか倭国だか、はっきりしろよなァ――」

 ゴロウは青かびチーズを口にいれてもごもごといった。

「お、おれも気持ちはわかるよ、ヤマさんとかいったな。久方ぶりに同郷人と再会したら、な、泣けるよな、うん!」

 ヤーコフはヤマダに同情しているようだ。

 ボルドンがそろそろ近寄ってきて、

「お、おい、ヤマ、大丈夫か?」

「うっぐ、ボルドンさん。つ、つ、遂に見つけました――」

 ヤマダは黒ぶち眼鏡を額に上げて、腕で目元をゴシゴシやっている。

「ああ、これが、ヤマのいってたニホンから来たひとたちなのか。背丈は確かに同じくらいだよなあ――」

 感嘆の声を上げたボルドンはチムールを見つめている。

「俺はこんな奴よ、知らねえよ、ドワーフのデブ親父よ」

 そのチムールはきっぱりと否定した。どうもボルドンはドワーフ族らしいのだが、その体形は贅肉で丸くて、ただの太った禿親父に見える。

「――ん、そうなると、ヤマの同郷は誰なんだ?」

 ボルドンが訊いた。

「うぐえっ、た、たぶん、青い目のひとと、この目つきがすごく悪いチンピラ風の――あっ、すんません、すんません!」

 ヤマダはものすごい勢いで何度も頭を下げた。

「――ああ、別にいい。いいよ、謝らなくて。そういうの慣れてるからよ。ヤマダさん。俺は九条尽だ。ツクシでいいぜ」

 ツクシは不機嫌な顔と平坦な声で自己紹介した。

「――あっ、僕は八多羅悠里です。ヤマダさん、悠里でいいですよ。神奈川のY市出身です」

 遅れて名乗った悠里が、

「ヤマダさん、まあ、ここに座ってくださいよ。お互いに話を聞きたいでしょう。しかし驚きました。まだ心臓の鼓動がおかしいですよ。もっとも、心臓が止まったところで僕は絶対に死ねないですけれどね、あはっ!」

「何だい、この男は。ツクシと悠里の同郷なのかね?」

 怪訝な顔のエイダも寄ってきた。

「ああっ、そうだ。ヤマ、早く試供品を持ってこい!」

 ボルドンがエイダを見上げて叫んだ。

「あっ、すんません、ボルドンさん。すぐ屋台から取ってきます!」

 ヤマダは宿の表へ飛び出していった。

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