十三節 屍と硝煙の三日間
造酒屋を経営しているボルドンが、ゴルゴダ酒場宿へ売り込みにきたものはウィスキーだった。
セイジが厨房から顔を見せると、「ドワーフの兄弟が料理人とは珍しい!」と、ボルドンは大喜びだ。もっとも、王都で、ドワーフ族が経営する酒屋も珍しいようである。ミュカレも「ウィスキーを試飲する」と強弁した。それを聞いてエイダは渋い顔だった。
「この火酒、味に丸みと様々な香りがあります。バニラや花や煙草――まだありますね。これは複雑な――女将さん、この火酒はかなり面白い」
ウィスキーを試飲したセイジは巌のような顔をエイダへ向けた。エイダは渋い顔である。ストレートのウィスキーを、水のように一気飲みしたミュカレが、「私、これかなり好きかも!」と、太鼓判を押した。
エイダは渋い顔のままグラスを呷って、
「うん、確かにこの味は面白いねえ――」
ヤマダが空になったそのグラスへウィスキーを注ぎ入れた。
渋い顔のまま、またグラスを呷ったエイダが、
「無色の火酒へ香味を漬け込んだリキュール酒と違って、このウィシュキって酒は続けて飲んでも味に飽きがこない。ミュカレはともかくとしてだよ。セイジさんがそういうなら間違いもないのだろうし――まあ、これも何かの縁かねえ――」
エイダは鬼の渋面をボルドンとヤマダへ向けた。
エイダの粘り強い値段交渉が終わると、ボルドンがほくほく顔でゴルゴダ酒場宿をあとにした。ボルドン酒店の商品――ウィスキーがゴルゴダ酒場宿に置かれることが決まったのだ。ヤマダは仕事の早上がりを許されて、ツクシの酒宴に参加した。丸テーブル席に並ぶ酒の瓶にウィスキー一瓶が追加された。席についたヤマダは改めて自己紹介をした。ヤマダは三十六歳の男性で、S県にある実家で年老いた両親と暮らしていたという。ヤマダには妹が一人いるそうだが、これは嫁にいったので実家にいないらしい。ともあれ、今から一年ほど前の朝、ヤマダは自宅の玄関口から外出しようとした。そして、それは起こった。ツクシや悠里と同じだった。ヤマダも扉を開けた先がこの異世界カントレイアへ続いていたという。
「ヤマさんも、会社に行く途中だったのか」
ツクシが訊いた。ツクシよりヤマダは年上である。だから「ヤマさん」とツクシは呼ぶことに決めたらしい。
「ああ、いえ、当時の僕は求職中でして――」
歯切れ悪く語られたヤマダの話を聞くと、日本にいた頃のヤマダは世間でいうニートだったらしい。大学卒業後、ヤマダは建材を取り扱う中小企業の営業職に就職した。しかし、そこを三年で辞めた以後は派遣の仕事やアルバイトを転々としていたという。そのたいていは上手くいかなかった。転職を繰り返すうちに心が折れたヤマダは三十歳過ぎてからずっと実家に引き篭っていたという。
「でも、その日の朝は一念発起して、
ヤマダの表情は暗く、また泣き出しそうだ。
「
ツクシが口角を歪めた。このツクシは、いざ本当に困ったとき助けてくれない世間様なんぞはクソみたいなもんだ。クソのいうことなんざ、いちいち気にかけていられるかよ、そう考えているような男だ。
「そもそも今のヤマさんは酒屋の店員なんでしょう。日本よりもずっとハードな
悠里が笑った。
今度はヤマダが顔を赤らめて、またモゴモゴ口篭った。
「褒めてもだめか。どうも面倒な男だなあ――」
顔を歪めたツクシがヤマダの杯へウィスキーをダバダバと注いだ。頭を下げたヤマダが、ツクシから受けた杯をグッと飲んだ直後に咳き込んだ。ヤマダは酒屋に勤めているようだが酒にはあまり強くないようだ。
ヤマダは酒を入れて気分が落ち着いたところで話を続けた。ヤマダがこの世界へ出現した地点は、ツクシが迷い込んだ場所よりも北西寄りだった。王都十二番区マディアの貧民窟がヤマダの出現した座標である。ヤマダとツクシの違う点がまだ一つ。ヤマダがこの世界に出現したのは、今から一年前と少し前、屍鬼動乱が起こった初日だった。時刻は陽が昇りきらない早朝だったという。
ヤマダの話は続く――。
§
石畳の道が入り組む狭い路地裏に、チェックの入ったシャツに、ジーンズ姿の中年男――ヤマダが突っ立っていた。路地の両脇には三角屋根を乗せた古風な石造り建築が立ち並び、石畳の路上に空樽や木箱や空き瓶が散乱していた。
「ゲームでしか見たことないような風景だな――」
ヤマダは呟いた。西洋ファンタジーがテーマの箱庭ゲームである。明らかに日本ではない、ヤマダがいるのはそんな街並みだった。
「僕は家の玄関を出た筈だけど、ここはどこなんだろう――」
ヤマダは途方に暮れて天を仰いだ。重い曇り雲に覆われた空は墨を流したように暗かった。暗い空に三匹の巨大な生き物が舞っていた。翼を広げると、その翼開長が三十メートル以上はありそうだ。
竜のように見えるけど腕がないから、ワイバーンってやつかもな――。
ヤマダは口をぽかんと開けて竜のような飛行生物を眺めた。ワイバーンに騎乗しているひと影が、ヤマダの黒ぶち眼鏡に映っている。馬のいななきが聞こえて、ヤマダは地上へ視線を戻した。裸馬が一匹、立ち尽くすヤマダの前をうろうろとしていた。ここまでヤマダの聴覚を塞いでいた耳鳴りが消えると、悲鳴や罵声や怒鳴り声が聞こてくる。騒ぎが起こっているのは通りの奥のようだ。そちらからネグリジェ姿の女性が子供の手を引いて走ってきた。
「イエンメ、イナンスティル、コルプゥスダェモンス。ホゥモ、オーバウェリクルゥム!」
「オーバウェリクルゥム、ボーバ!」
ヤマダの脇を通り過ぎながらその親子は叫ぶようにいった。
すごく、綺麗なひとだな――。
ヤマダは振り向いて走り去るその親子を見つめた。子供の手を引いて何かから急いで逃げていくその
言葉はわからないし。
猫耳だし、猫のしっぽだし。
これはどうも僕の夢なのか――。
ヤマダは苦笑いを顔に浮かべて歩きだした。路地裏を抜けたヤマダは広い石畳の通りに出た。騒ぐ声が聞こえてきた道である。道の両側にある家屋から火の手が上がって、黒煙を噴いていた。通りに出ているひとは何かを大声で叫びながら走り回っている。その逃げ惑うひとびとを青黒いひと影が追い回していた。青黒いひと影に追いつかれた小太りの中年女性が悲鳴を上げた。それを合図に周辺にいた青黒いひと影が、転がった中年女性へ覆いかぶさった。
「ぎゃっ、あぁあっ、ああっ、ああぁあ!」
中年女性の悲鳴だ。
「このやろう、うちのかみさんに何をしやがる!」
近くにいた恰幅の良い中年男性が、中年女に群がった青黒い鬼を角材で殴った。打ち下ろれる角材が赤黒く染まる。角材で力の限り殴りつけても、青黒いひと影は反応を見せない。その下になった中年女の悲鳴が途切れた。その瞬間、殴られる一方だった青黒い人影が中年男性へ襲いかかった。鬼に組みつかれた男性は青黒いひと影ともつれ合って転がった。そこへまた青黒い鬼たちが駆け寄って群がってゆく。
そんな光景が周辺一帯に広がっていた。
西欧風の古い町並みに猫耳とゾンビとはおかしな夢だ――。
ヤマダは苦笑いでうつむいた。視線を下へ向けると足元に黄色い蜜柑が転がっている。ヤマダは蜜柑を拾って鼻を近づけた――甘酸っぱい、爽やかな香りだ。
どうもこれは夏蜜柑みたいだな。
どこから転がってきたんだ――。
顔を上げたヤマダは視線を惑わせると、付近で野菜を積んだリヤカーが横倒しになっていた。その影で何かが蠢いている。ヤマダが近寄ると散乱した野菜と一緒に、ひとが倒れていた。三十歳前後の、ワンピース姿の女性だ。女性は何か言いたそうに口を開けたり閉じたりしていた。その口からは言葉の代わりに血が溢れ出た。青黒いひと影が女性の腹に顔を埋めていた。その青黒いひと影がヤマダへ顔を向けた。それは、シャツにベスト、それにズボン姿の男だった。男が身に着けている衣服は虫が食い、カビが生えてボロボロだった。男の顔を見ると目の玉は濁った白身だけで、鼻の先などは腐り落ちていた。男の脇腹からは何かがぶら下がっている。
ヤマダは、ベルトかな? と思った。
しかし違う。その黒ずんだものは男の内臓だ。ヤマダの鼻を肉の腐った甘ったるい臭いが突いて、その喉元に悲鳴と吐き気がせり上がる。
色彩がついた夢を見ることはある。
しかし、ここまではっきりと臭いがついている夢などありえない――。
歯を食いしばったヤマダは回れ右をして逃げだした。
ヤマダの逃走劇が始まる――。
§
ヤマダの話に耳を傾けていたツクシが、
「俺も
「僕は
悠里が笑いながら杯のウィスキーを一息で飲み干した。
「いやいや、運が良かっただけっす。逃げ回っている最中は空いている店舗や家屋を拝借できましたし、そこで食べ物や飲み物も調達できました。やったことは火事場泥棒っすよ。でも、他に選択肢がなかった。他の生きていたひとたちも似たようなことをやっていました。そのうち王国軍が来て戦争になったっす。むしろ、こっちが凄かった。そこらじゅうで銃声やら大砲の音が鳴っていました。王国軍も混乱していて見境いなしっすよ。誤射で死んだひとをたくさん見ました――」
ヤマダはスタウト(※上面発酵の黒ビール)をチビリと飲んだ。
「ヤマは屍鬼動乱の生き残り組だったのかァ。そりゃあ、大変だったな。しかし、このヤマの店の酒――ウイシュキっていうのか。これは、なかなかいけるなァ。火酒にしては妙な色合いなんで最初は戸惑ったが口当たりがいいぜェ」
ゴロウはウィスキーが気に入った様子である。
「おうよ、ヤマよ、うめえェよ、この酒はよ。しっかし、こりゃあ酔うよ。酔うための酒って感じだよ」
ウィスキーの杯を片手に上機嫌のチムールは顔を真っ赤にしている。
「お、おれもウィシュキが気に入った。この戻りの強さ、おれ好みだ」
頷いたヤーコフは意外にも酒の
ツクシが悠里にウィスキーをお酌をさせながら、
「ところで、ヤマさん。その首につけている虎魂のネックレスはどうやって手に入れたんだ。
「あっ、これは、社長――あのボルドンさんに頂いたもので――」
ヤマダは話を続けた――。
§
ヤマダは行く先々で屍鬼の大群と逃げ惑うひとびとに出くわした。ヤマダが日本から異世界に持ち込んだのは肩からかけた四角いカバンだけだ。カバンに入っているのは、筆記用具だとか、メモ帳だとか、タオルだとか履歴書だとか、
専念せざるを得なかった。
タラリオン王国陸軍が事態を収拾するために部隊を展開し始めたのだ。その戦力は、銃歩兵を中心に、重装歩兵、軽装歩兵、軽騎兵、通信兵、衛生兵、工兵、それに火砲兵と
屍鬼動乱勃発から数えて二日目の朝。
タラリオン王国陸軍の屍鬼掃討作戦が開始された。屍鬼はその形がヒト族と似通っている。街中を逃げ惑うひとびとと屍鬼の区別は難しい。王国軍は発砲することに躊躇いがなかった。王国軍に射殺された市民を目撃したヤマダは震え上がった。この危険な軍隊と屍鬼の双方から距離を取るために、ヤマダは空になった家屋を必死で探して、そこで仮眠を取りつつ食料や飲料を調達、銃声と屍鬼から逃げ続けた。
屍鬼動乱勃発から数えて三日目の朝。
聞こえる銃声は少なくなった。倉庫街と天幕街の境界線付近を、よろよろ彷徨っていたヤマダは前方に屍鬼を何匹か発見した。付近の建物へ逃げ込んだヤマダは、その扉を硬く閉じる。逃げ込んだ部屋は酒の香りが篭っていた。
ここは酒屋かな、飲み物を調達できるかも――。
そう考えたヤマダは卓の上の瓶を手にとってコルクを引き抜き鼻を近づけた。ウィスキーの香りだ。ヤマダは酒に強いわけではないので、これを飲料にするのは難しい。
じゃあ、食べ物はないかなあ――。
ヤマダが屋内を物色すると床に何かを引きずった痕跡がある。明らかに血痕だ。ヤマダは警戒しながら血痕を追った。すると、逃げ込んだ建物の裏口で男が倒れている。樽のような体形の男だった。うつ伏せになって横たわるその男の下に広がった血だまりが渇いて黒くなっている。
まだ生きているのか。
いや、ゾンビになって襲ってきやしないか――。
ヤマダは身構えながら倒れていた男に近づいて、
「あの、大丈夫ですか?」
反応はない。
声をかけたところで、ここは日本語が通じないんだよな――。
そう考えた直後、不安と疲労がどっと襲ってきて、へたり込んだヤマダは立ち上がることができなくなった。
チクショウ、散々な人生だ。
クソのような僕の人生だ。
僕の人生はずっと散々だった。
僕は頑張ってきた。
僕なりに必死でやってきたんだ。
それなのに、僕だけこんな仕打ち、酷いだろう。
僕の人生はいつも我慢することだけで、いいことなんてひとつもなかった。
上手くいったことなんて、ひとつも、本当にひとつもなかった――。
うつむくヤマダの眼鏡のレンズに涙が落ちた。三十六年間の人生である。そのなかで特別に嫌な思い出の数々だけが、ヤマダの頭にくるくると浮かんで消えてゆく。
男の悔し涙が、こぼれる、こぼれる、こぼれる――。
膝をついて泣くヤマダの後ろで、
「バルドル、バルドルよ!」
叫び声が上がった。
ヤマダは涙と鼻水を垂れ流したまま振り向いた。ヤマダの後ろに立っていたのは、倒れている男と似たような体形の――樽のような体形の髭親父だった。
ボルドン酒店のドワーフ社長、ボルドン・バルハウスである――。
§
「――それが、あのドワーフ親父ボルドンとヤマさんの出会いってわけか」
頷いたツクシが空にした杯を卓へ置いた。
ヤマダがいった。
「はい、ボルトンさんは双子の兄弟――バルドルさんと一緒に商売をしていたんす。屍鬼動乱が勃発した日のことです。ボルドンさんはタラリオン城の城下町方面へ営業に行っていたので騒ぎに巻き込まれなかった。でも、倉庫兼自宅で、ブレンディング(※ウィスキー原酒の混合)をしていた弟のバルドルさんは助からなくて――」
「そうか。その屍鬼動乱でボルドンは弟に死なれたのか――」
ツクシが呟くようにいった。
頷いたヤマダが、
「最初はもちろん、ボルドンさんに僕の言葉は――日本語は通じなかったっす。けれど、すぐ察したボルドンさんが虎魂のネックレスを貸してくれました。ドワーフ族は、タラリオンの公用語――エスト・オプティカ語でなくて、ドヴェルグ語を使うんですよね。だから、王都に住んでいるドワーフ族は翻訳用に虎魂のネックレスを持っていることが多いんです。僕が使っているネックレスは屍鬼に襲われて死んだボルドンさんの弟さん――バルドルさんの遺品なんすよ」
「不幸中の幸いというか何というか――あ、マコト、ウィスキーをもう一本、このテーブルに頼むよ」
神妙な顔で頷いた悠里が、そのついでに、近くを通ったマコトへ注文をした。
「わかった、悠里」
マコトが表情を変えずに返事をした。ヤマダの話に耳を傾けているうちに陽は暮れていた。酒場の席はすべて酔客で埋まって喧騒が大きくなっている。
チムールが空になった杯を手で弄びながら、
「でもよ、ヤマよ。どうして、お前が、あのドワーフ親父がやっている酒屋で働くことになったんだよ?」
そのチムールの杯に、マコトの手がウィスキーを注いだ。
「へえ、気が利くじゃねェかよ」
チムールが赤ら顔で笑った。
「いえ、これが仕事ですから。ごゆっくり」
マコトは厨房へ消えた。
頭を手に置いて苦笑いのヤマダが、
「ええと、お前も弟のために泣いてくれるのかってボルドンさんが――それで、僕のことを気に入ってくれたみたいっす。良ければ俺の店を手伝わないかという流れに。実際、バルドルさん――弟さんが亡くなって、手が足りなくなったのもあるんすけどね――」
ゴロウがウィスキーを自分の杯へドバドバ注ぎながら、
「あァ、あのドワーフ親父は、ヤマの涙の意味を勘違いしたってわけかァ?」
「そうっす。でも、それで本当に助かったっす。ボルドンさんに出会ってなかったら、屍鬼動乱を切り抜けても、そのあとで僕は死んでたっすよ。カントレイアは本当に厳しい世界っすからね」
ヤマダは自分に語りかけるような口調だ。
「それで、ヤマさんはボルドンの酒屋で仕事をしてたんだな。まさしく奇縁ってやつだ。運命ってやつは、生きていれば、どう転ぶかわからかねェもんだよな――で、ヤマさん。酒屋の商売は上手くいってるのか?」
ツクシがヤマダに色のついた顔を向けた。ツクシですら酔うまで酒の杯は重なっている。卓の上は食い散らかられた料理やら酒の空瓶で隙間が見当たらない。
「ボルドンさんとバルドルさんは、屍鬼動乱が起こった時点で、王都へ来て一月も経ってなかったんすよ。カントレイア世界ではウィスキーを作る――蒸留酒を樽で寝かせる発想が、まだ一般的ではないんですよね。ドワーフ公国内ではウィスキーが受けなかったらしいっす。ドワーフ族は保守的で新しいものを嫌うんで。それで、ボルドンさんは王都へ転居したんすよ。最初は売り込みにいっても相手にされませんでした。だから、ボルドンさんと僕は二人でひとが集まりそうな場所へ屋台を引いて、ウィスキーの宣伝がてら売って歩きました。それで最近はようやく取引先が増えて商売も軌道に乗ってきたっす。ゴルゴダ酒場宿みたいな有名店に商品を置かせてもらえるなんて、まだ夢みたいっすよ――」
ヤマダのいうことを聞いているうちに、ツクシは呻き声を上げた。今になって思い出したのだ。以前、ツクシはボルドンとヤマダの屋台を二度も見かけている。ツクシはカントレイア世界に迷い込んだ初日に日本語が通じる相手とすれ違っていたのだ。
ここまで黙ってヤマダの話を聞いていたヤーコフが、
「ヤ、ヤマさん。あんたは立派だな。そんな苦労をしても挫けず商売を成功させて、たいしたもんだ」
顔を真っ赤にしたヤマダは口篭ってしまった。ヤマダは他人から褒められるのが苦手なようである。もしくは他人から褒められることに慣れていないのか――。
卓の上の会話が小休止したところで、ゴルゴダ酒場宿を訪れた緑の小男旅楽団が、中央の丸テーブルの上で歌劇を始めた。総勢六人の緑の小男に加えてシャルもリュートで演奏に加わっている。酔客から歓声とおひねりが宙を飛び交い喧騒は熱を帯びた。今は会話をしても聞こえない。
ツクシたちも歌劇へ目を向けた。
「この歌劇は魔賢帝の
悠里が喜々として懇切丁寧にツクシへ教えた。
わりかし真剣に観ている歌劇のオチを、横でべらべら喋ってるんじゃあねェ。
ぶっ殺されてェのかよ、この野郎――。
ツクシは悠里を本気で睨んでいる。もっとも、悠里は首を切り落とされても、決して死ねない体質らしい。殺すつもりで睨んでも殺しても徒労だろう。
「ところで、歌劇をやっているあの連中は何者なんだ。人間に見えないが?」
殺気立ったまま、ツクシは訊いた。
「ああ、彼らは妖精ですよ」
悠里は短く答えた。ツクシは面倒になって、それ以上訊くのを止めた。その緑の小男旅楽団――緑の妖精旅楽団の歌劇の最中、ツクシと悠里も自分の経歴をヤマダへ大声で語った。悠里は自身が持つ呪われた体質をヤマダに教えた。ツクシは、日本へ帰還する道を探るためにネストへ通っていることをヤマダへ告げた。悠里が
「こっちも、お前らに付き合ってもらうつもりは毛頭ねェからよ――」
ツクシはボヤいた。
ヤマダはツクシたちの会話を聞きながら、何か考えごとをしている様子だった。
夜更けに宿へ帰ってきたアルバトロスだとか、階上から降りてきたアルバトロス曲馬団の面子――ロランドだとかマリー嬢だとかクラウンが宴会に参加していた、ような覚えがツクシにある。アルバトロスがウィスキーを気に入って湯水のようにそれを飲んでいたことだけははっきり覚えている。どのみち、ウィスキーが卓に追加されてから、ツクシには曖昧な記憶しかない。
夜半を一時間ほど過ぎると、ツクシが主催した酒宴はお開きになった。酒宴の最中の記憶は曖昧であったが、客が引けたゴルゴダ酒場宿のホールで、角度も鋭くうつむく今のツクシは酔いがすっかり覚めていたし、意識も冷酷なまで明確だ。本日のお会計は金貨十一枚に銀貨が六枚である。ツクシの財布にあるのは、金貨六枚、銀貨が九枚、少銀貨五枚だ。どう見ても足りない。
「ツクシは、いいお客さんだから、細かいのは負けておくわね」
伝票の束を持ったミュカレが艶かしい笑顔を見せている。
「ミュカレ、悪いがちょっと女将さんを呼んできてくれるか――」
ツクシの歪んだ顔が青ざめていた。厨房から出てきたエイダは「ぶひっ!」と鼻を鳴らしながら、快くツクシのツケ要請に応じてくれた。ツクシはとりあえず、手持ちの金貨六枚をエイダに支払っておく。めでたくはない。この夜、ツクシは異世界でも借金ができた。その額は金貨五枚に銀貨が六枚である。
ネストの荷運びの手当ては平均的に、ひと潜り金貨二枚と銀貨が五枚。
酒のツケはあのハードな労働二回分、それ以上か、結構な金額だよな――。
階段を重い足取りで上がったツクシが貸し部屋へ入ると、たった一つしかない小さなベッドの上でユキが熟睡していた。ユキは断りもなくツクシのシャツを着ている。寝巻代わりだ。だぶだぶである。ユキはズボンを履いておらず下半身は下着だけで無防備な姿だった。その小さい下着から、雪のように白い生脚と、銀色の長い尻尾が、にゅるんと飛び出ている。しばらくユキの様子を眺めていたツクシは、ユキを抱き上げて床へ転がした。
「――ふんぎゃ!」
一声鳴いてユキは起き上がろうとしたのだが、睡魔に負けてくちゃんと潰れた。
満足気に口角を歪めたツクシは空いたベッドへ酔った身体を横たえた。
今夜は悪夢を見そうにないな――。
何となく、ツクシはそう思った。
※異世界語の翻訳※
原文「イエンメ、イナンスティル、コルプゥスダェモンス。ホゥモ、オーバウェリクルゥム!」
原文「オーバウェリクルゥム、ボーバ!」
訳文「そっちには屍鬼がいるわ。そこのひと、向こう側に逃げなさい!」
訳文「向こう側に逃げて、おじさん!」
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