十三節 孤狼の矜恃

「僕はその、せっかくこうして出会えたわけだし。できれば、ツクシさんと一緒に、カントレイア世界で冒険を――ああ、いや、ツクシさんね! ツクシさんは日本に奥さんだとか子供を残してきたんですか? はっきりとはわからないですけれど、ネストは危険に違いないんですよ。そこで無理をして日本へ戻る前に死んじゃったら、元も子もないでしょう?」

 悠里はツクシの不機嫌を別の方向から崩そうとした。毎日、満員電車に揺られて出勤し、ゴルフと商売女と営業成績の話しかしない上司の顔と、嫌な顧客の顔を交互に眺めて気を病んで、その上、結婚を考えていた女性から「輝きを失った」と罵倒された悠里という青年にとって日本での生活はさほど未練がない。悠里は元々気持ちの切り替えが早く、新しい環境への対応も柔軟にできる男でもある。カントレイア世界で一年生活してきた悠里は、異世界の生活は、ぜんぜん悪くないな、そう考えてもいる。もちろん、この悠里の前向きな考えには二十四歳の若い気持ちと若い身体――若くして永遠に呪われた身体の後押しもある。

 ツクシは不機嫌なままいった。

「悠里。俺には嫁さんも子供もいねェぜ。親兄弟もいねェよ」

「――え?」

「俺が中学にあがったとき親父は現場の事故で死んだ。俺のお袋は三年前にガンであっちへ逝った。俺は独りっ子だ、親戚とも疎遠で綺麗さっぱり全滅だ。日本へ帰ったところで、俺を待っているのは車のローン――借金くらいだ。取り立てて自慢ができるものを俺は何も持ってねェ。少ない給料は酒で消えていた。だから、貯金はねェし、家だって古い借家だぜ」

「あ、はあ――」

 拍子抜けした悠里へ、

「どうも俺は金と女に嫌われる性分らしいな」

 ツクシは口角を歪めて見せた。

 悠里は戸惑いながら、

「ええと、ツクシさんは、日本でやっていた仕事が大事だったとか?」

 顔を歪めたツクシが、

「俺の仕事が大事だと? 雇われ仕事なんてものは何をやっても小僧の使いだろ。運送屋は食っていくために嫌々やっていただけだ」

 戸惑いながら悠里は訊いた。

「ええと。ツクシさんには日本で友達がいっぱいいたとかですか?」

「馴れ合うのは大嫌いでな。そんなものは一人もいねェ。会社の同僚とは少しくらい会話はしてたかな。あとは近所のやきとり屋のオヤジくらいか。あそこのやきとり屋は何を食っても旨かった。俺にある日本への未練なんてそのていどだぜ」

 ツクシは不機嫌な顔で、不機嫌な声で、眼光鋭いままである。

 泣きそうな顔になった悠里が、

「そ、それなら、ツクシさん、こっちの世界で――」

「――悠里、ついでにいっておくぜ。小賢しい趣味なんてものは俺にひとつもねェ。時間が空いたときは借家で安酒を飲みながら、テレビを眺めているくらいだった」

「――じゃあ、ツクシさんは何で、日本へ帰りたいんですか!」

 顔を真っ赤にした悠里が怒鳴って、「あっ、すいません――」と、すぐうなだれた。

「いいんだ、悠里、続けろよ」

 ツクシは視線を落とした。

「ツクシさん。何度も何度も言いますが、ネストは本当に危険なんです。ここへ酒を飲みにくるネストの荷運びは、毎週のように顔ぶれが代わるんですよ。ネスト・ポーターは、ネストのなかであっさりと死んじゃうんです。死んだネスト・ポーターにはお墓も残らないんです。ネストのなかで死んだひとは死体を回収するのも難しいから――」

「それは面白そうじゃねェか」

 ツクシはうつむいたまま口角を歪めた。

「笑いごとじゃないですよ!」

 叫んだ悠里が、深呼吸を繰り返したあと、

「ツクシさん。うちの団に――アルバトロス曲馬団に来てください。すごく楽しいですよ。馬に揺られて、色々な景色や、色々なひとたちと出会って別れて、また出会って――」

「ああ、そうかよ、へえ――」

 ツクシは退屈そうに鼻を鳴らして不機嫌な顔を横に向けた。

「毎日が驚きの連続です。冒険に飽きることなんて絶対にありません。それに、うちの団は女の子が多いですし、もっと欲しければ、金でだって女は買えます。うちへ入団すれば、お酒だって、女の子だって、好きなら男だって、それだけではない他の生きる楽しみだって、全然、不自由がないです。元いた世界の陳腐な知識を流用した、チートでハーレムな展開だって、余裕でいけますよ。カントレイア世界の情報インフラだけは、日本のそれより未発達ですからね。だから、向こうの世界に――日本に比べると、こっちは信じられないほどの情報弱者揃いなんです。これって、口先三寸で簡単に騙せますよ!」

 悠里は熱く語ったが、

「ああ、そうかよ。そいつはまた、羨ましい話だな」

 ツクシは返事には熱がない。

「それにカントレイアは、そんな悪い世界でもないですよ。むしろですね、窮屈な日本よりも、ずっとですね――」

 無理に笑顔を作った悠里だが、

「――ねえ、ツクシさん、ちゃんと僕の質問に答えてくださいよ!」

 結局、また怒鳴った。

「確かにそうだ。考えてみると日本へ帰ったところで、俺を待っているものは何もねェ――」

 ツクシは眩しいものを見るような視線を悠里へ送った。

「それだったら、ツクシさん。僕の冒険者団へ――アルバトロス曲馬団へ入団してですね。新しい世界で、面白おかしい新たな人生をですね――」

 笑顔で視線を返した悠里へ、

「――だがな、悠里」

 ツクシが唸った。

 地の底から響く低い声だ。

 怒髪は明らかに天を衝いている。

 これに触れたら必ず切れる。

 今のツクシは渾身必殺だった。

 悠里はぽかんと絶句した。

 この男は一体、どこまで――。

「俺はこの世界――異世界カントレイアとやらに来るつもりで来たわけじゃねェ。ここに俺がいるのは俺の意思じゃねェ。悠里、これは良い悪いもない話だぜ」

 ツクシが唸った。

「自分の意思で決めていないものを押しつけられて我慢をするような生き方を、俺はこれまで一度もしてきてねェ。三十何年か右往左往で生きてきて俺が持っているのはこの意地だけだ。こいつを捨てたら、いよいよ俺は俺でなくなる。そうなったら俺は何も残らねェ素寒貧スカンピンだ。わかるか悠里。大の男が三十路を超えて素寒貧だぜ。他の奴はどうだか知らねェ。そんなモン、俺の知ったことじゃねェ。だがな、この俺は、この九条尽という男はな、そんな犬のクソ以下の無様な生き方、断固として、こっちから願い下げだ。だから、俺は日本へ帰る。帰った先で何も待っていなくても、俺は必ず日本へ帰る」

 唸り上げたあと、

「――何が何でもだぜ」

 そう付け加えた。

 三十余年、頑固一徹。

 酸いも苦いも呑み込んで積み重ね続けた男の矜持が立ちはだかる。

 しかし、悠里はまだ若い。

 悠里の心は子供が泣いて地団太を踏むような感情に押し流された。

 あんたは底抜けの馬鹿だ!

 顔を紅潮させた悠里の喉元へその台詞がせり上がってきた瞬間である。

 黙ってツクシの話を聞いていたアルバトロスが、

「おい、ゴロウ、話がある。今すぐこっちへ来い!」

「――ああよォ、なんでェ、アルさん、今、いいところなのによォ!」

 アルバトロスの倍の音量がある怒鳴り声が帰ってきた。その上でダミ声だ。騒音にしか聞こえない。

 カード博打に興じていたゴロウがのっしのっしと寄ってきた。

 ツクシがそのゴロウを横目で見やっている。

 改めて見ても、ゴロウはいかめしい偉丈夫だ。眉は太く、鼻は大きく、顎は逞しく、目はどんぐりまなこで、そのむさくるしい面構えの下半分を赤い髭がみっしりと覆い隠していた。遠目に見ても男臭かったゴロウの容姿は近寄るとさらに男臭い。体格も威風堂々だ。盛り上がった筋肉で着ているシャツがはち切れそうになっている。しかし、ゴロウの灰色の瞳は案外と優しい。見た目は悪漢そのものだが目元にある優しさが助けになって、ゴロウは悪鬼羅刹未満の印象だ。このゴロウが席から離れた隙にカード博打をしていた男たちが逃げ出した。

「おい、おめェらァ! 話はすぐ終わらせるから待っていろよォ!」

 ゴロウは怒鳴ったがイカサマ博打の男たちは転がるように逃げてゆく。

 ゴロウは彼らからよほど嫌われているらしい。

「ちっ、あいつら――いよう、アルさん、善い夜だなァ。ショウのこと聞いたぜ。まだ若いのに残念だったなァ――」

 殊勝にもゴロウは太い眉根を強く寄せていた。哀悼の意を示すゴロウの髭面を眺めていたツクシは、鬼瓦みてェな顔だな、強くそう思った。

「ああ、ゴロウ、悪くない夜だ。お互いに因果な商売をやっているわけだから、死ぬのは、まあ、仕方ないのさ。ショウの奴にだってそれなりの覚悟はあっただろう――ゴロウ、座ってくれ。俺から一杯、奢ろう」

 アルバトロスはゴロウに着席を促して、「ミュカレ、杯をもう一つくれ!」と、厨房のほうへ吠えた。

「はぁい――」

 間延びした返事と一緒にミュカレがステップを踏んでやってきた。

 ゴロウの前にはそっぽ向いて杯を置いたミュカレが、

「私から奢りよ、新顔さん。改めて、よろしくね――」

 ツクシの耳元では囁きながら、持ってきたグラスへ水を注いだ。

「ああ、わっ、悪いな、ミュカレさん――」

 呻いたツクシの、

「ツクシ、ミュカレって呼んで?」

 耳元で囁く声である。

「おっ、おう、ミュカレか、ミュカレな――」

 うつむいたツクシがそろっと視線を送るとミュカレの瞳が水っぽく揺らいでいる。無表情の悠里がツクシの不機嫌で強張った顔とミュカレの美貌を交互に見つめた。

「ん、ミュカレは新しい獲物を見つけたか――?」

 苦笑いのアルバトロスがゴロウの杯へワインを注いだ。

 悠里は無駄に長い給水を終えたミュカレが離れたのを確認してから、

「――あっ、善い夜ですね、ゴロウさん」

「いよう、悠里、善い夜だな――あァ? 悠里は顔色が悪いぜ。酒が過ぎたのか? まだ宵の口だがらしくねえな。病気なら俺が診てやるぜ。もちろん金は殺しても取るがなァ」

 ゴロウは怪訝な顔だ。

 確かに、先ほどまでツクシをいい争っていた悠里の顔は暗い。

「あ、いやいや、病気とか、そんなんじゃないですけれどね、あはは――」

 悠里が力なく笑った。元気のない悠里を横目で眺めながらゴロウが髭面を上に向けた。その一息で杯は空になる。ツクシはワインを鯨飲するゴロウを眺めながらグラスの水に口をつけた。

 アルバトロスがゴロウの杯へワインを注ぎながら、

「ところでゴロウよ。ネスト・ポーターの人手は足りているのか?」

「――おやっさん」

 呟いた悠里が視線を落とした。

 うつむいた横顔に無力さが漂っている。

「――あァ、アルさん。俺たちの人手は常に足りてねェよ。さらに悪いことにだなァ、潰れたトマトみてえになった死体が下層からゴロゴロ上がってくるからブルっちまう奴が出始めてな。王国軍の連中もピリピリしてるぜ」

 ゴロウが杯を空にして髭面を曲げた。

「そうか、犠牲者が多いか?」

 アルバトロスがゴロウの杯へワインを注ぎながら訊いた。

「――あァ。おっかなびっくり動くから余計に危ねえんだ。浅い階層でハグレ屍鬼みてえな、スットロいのに殺られる奴まで昨日は出た。職場が危険だと当然、募集をかけても、ひとの集まりが悪くならァな。まァ、仕方がねェや――あよォ、どうしたんだ悠里。本当に元気がねェみたいぞ。また、アヤカ嬢ちゃんと喧嘩でもしたのか?」

 またも一息で受けた杯を空にしたゴロウが悠里へまた髭面を向けた。

 顔を上げた悠里が、

「あっ、大丈夫ですよ、そんなんじゃあないです。ええと、ゴロウさん、こちらにいるのは、ツクシさんです」

「あァ――?」

 ゴロウがツクシへ目を向けた。

 ツクシもゴロウへ視線を返した。

 お互いの視線をガリガリぶつけ合ったあと、

「――ああよォ、随分とまァ、目つきの悪い野郎だなァ。見るからに極悪人だこれ。ツクシとかいったな。おめェ、どう見たって堅気カタギじゃねェよなァ。名もなき盗賊ギルドの構成員か? それとも内陸で略奪者レイダーでもやってたのかァ?」

 ゴロウが先に唸った。

「おい、赤髭の、この野郎。手前の強盗みたいなつらでそういわれると、さすがに俺だって凹むぜ?」

 ツクシが唸り返した。

「あァ、なんだァ、くっそ生意気な野郎だな。俺が口の利き方を身体に教えてやろうか?」

 歯を剥いたゴロウである。

 大方の予想通り、悪人面が相対するとお互いの男自慢が始まった。

 アルバトロスは面白そうに眺めていたが、悠里は血相を変えて、

「ちょっと、ゴロウさん、ツクシさん! ええと、ゴロウさん、ツクシさんは僕の同郷なんです。王都にツクシさんは来たばかりなんですよ。だから多少の失礼があっても大目に見てやってください。お願いします、ゴロウさん」

 牙を引っ込めたゴロウが、

「へぇ、こいつは悠里と同郷かァ。そうなると、『倭国ワコク』のド田舎出身ってわけだよなァ。また珍しいところから王都へ来たなァ。悠里もそうだけどよォ」

「倭国っていうと――?」

 ツクシが悠里を見やった。

 今は僕の話に合わせて下さい――。

 返ってきた悠里の視線が伝えている。

 ゴロウの髭面に視線を戻したツクシが、

「ああ、その倭国出身の九条尽だ。ツクシでいいぜ」

「ふぅん。まァ、いいや。俺ァ、ゴロウ・ギラマン。今はネスト・ポーターもやっている。本業は布教師アルケミストだぜ」

「――アルケミ?」

 またも耳慣れない言葉が出てきて顔を歪めたツクシへ、

「ああ、ええと、ゴロウさんね。ツクシさんは僕の田舎と同じ出身なんですよ。だから、導式の知識はまったくないんです」

 悠里が助け舟を出した。

「あァ、悠里も前はそうだったなァ。導式を知らねえとかよォ、おめェらの故郷ってのは、どんだけド田舎なんだァ?」

 ゴロウが呆れ顔でツクシを見やった。導式、導式、導式ってのは何だったかな。そう考えていたツクシは自分の首にあった虎魂のペンダントを見やった。悠里が「導式は魔法のようなものだ」といっていた気がする。

 もしかするとだ。

 このゴロウという赤い髭面の大男は魔法使いの類なのか。

 怪訝な表情のツクシが、ゴロウの髭面を見つめた。

 改めて眺めてもゴロウは悪役プロレスラーにしか見えない。

 このむっさくるしい髭面が「マッハリク、マハリタ!」なんて唱えたら、俺は笑い死にしちまうぜ。

 冗談は顔だけにしとけよ、この赤髭野郎――。

 ツクシの口角が邪悪に歪んだ。ゴロウは歯を剥いてツクシを睨みだした。ツクシは何も発言をしていない。ゴロウは動物的な直感で何かを察知したようだ。お互いの視線の先で火花を散らしだしたツクシとゴロウを見て悠里の顔が引きつった。

 アルバトロスはニヤニヤしながら、

「お互いの自己紹介が終わったところでだ。ゴロウ、ひとつ頼みがある。ツクシのことだ」

「あァ、アルさん、もう察しはついてるぜ。しかし、それでいいのかァ?」

 ゴロウがアルバトロスへ顔を向けた。

 その太い眉根が寄っている。

「そうだ、ネスト・ポーターをやりたいらしい。本人の希望だからな。俺には止められん」

 アルバトロスはゴロウの表情にある不服を意図的に見過ごした。

 ゴロウはそれだけで納得をした様子を見せて、

「そうかァ――このツクシってのはよっぽどの物好きだよなァ。悠里と同郷ってことは流民るみんでもないんだろ?」

「――流民?」

 ツクシが視線で悠里へ発言を促した。

「ああ、ツクシさん、流民ってのは戦争難民のことです。さっき風呂のなかでもいいましたよね。僕たちがいるこの王国――タラリオン王国は北のエンネアデス魔帝国と戦争中なんです。グリフォニア大陸の内陸はその北部横一線が戦場になっているんですよね。それ北部戦線っていいます。流民というのは戦場になった故郷を離れて、この王都へ流れ込んできてるひとたちです。彼らは王都を取り囲むようにテントを張って暮らしていますよ」

「ああ、あのひでェ匂いの天幕の街――」

 ツクシが頷いた。

「ええ、そうですそうです。あの不潔な区画ですよ」

 頷いて返した悠里が、

「あれを天幕街っていいます。それが正式な名称ってわけじゃないんですけれどね。まあ、言葉は悪いですが、流民は食いっぱぐれの集まりですから、衛生的にも治安的にも問題になっているんですよ。元からいる王都の市民と流民の間でトラブルが絶えないわけですね。だから、天幕街にいる王国の警備兵はかなり気が立ってます。いい忘れてました。ツクシさん、天幕街は危険地帯ですからね。気をつけてください」

「――なるほどな。あそこで目の色を変えていた兵士はそういうことだったのか」

 今回は悠里の長い話をツクシも真面目に聞いていた。

 ツクシへ顔を向けたゴロウが、

「――で、そこの目つきの悪い旦那よォ。ネスト・ポーターは明日に死んでもおかしくねえ商売だぜ。日当は悪くねえがなァ。命懸けの運試しだ。それでもやるつもりなのかァ?」

 不機嫌全開になったツクシが、

「俺はツクシだ、この赤髭野郎。口の利き方に気をつけろ。悪運の強さならここにきてから自信がついたぜ」

「あんだとォ? 俺が今すぐその悪運を終わらせてやるか? こンの、ゴボウ野郎がァ――」

 ツクシもゴロウも椅子から尻が浮いている。

「ちょっと、ツクシさん、ゴロウさんもです、いい加減にしてください、おやっさんも笑ってないで二人を止めてくださいよ!」

 悠里が声を上げた。

「お前ら面白いなァ。俺もネストの荷運びを一度やってみるか――?」

 アルバトロスがワインの杯を舐めながら呟いた。

 肩を落とした悠里が、

「はあ、おやっさんもいい加減にしてください。もう時計は一時を回っていますよ。ツクシさんも疲れているでしょう。早く話を進めてください」

「ああ、それはそうだな、疲れたし眠いしで、俺はぶっ倒れそうだぜ――で、俺はどうすればいいんだ。さっさと応えろ、赤髭野郎」

 ゴロウを眠そうに見やるツクシの横顔を、口をぴたっと閉じた悠里が真顔で凝視している。

「おめェなァ、その口の利き方をなァ――」

 ゴロウが椅子からぬうっと立ち上がって、ツクシへ攻撃を加える姿勢を見せた。

「ククッ。冗談だよ冗談。お前はゴロウとかいったよな。ゴロウ、ネストの荷運びの作業に必要な物を俺に教えてくれよ。履歴書とか判子も必要なのかよ、あぁん?」

 ツクシは口角をぐにゃりと歪めて自分の発言を訂正した。

「あんだよォ、リレキショとハンコってよォ。王国市民証明書のことか? わかんねえなァ――まず要るのは弁当だ。ネストの近辺には出店あるからそこで調達したっていい。あとは適当に野営ができる道具。野営に何が必要なのかはおめェの足りねえオツムでよく考えろ。武器と武装服一式がありゃあ越したことはねえ。もっとも、得物を持っていても使えなきゃ意味がねえからな。だから、なくても構わんぜ。実際、丸腰でネスト・ポーターをやる奴もたくさんいる」

 ゴロウは一気にそういうと、でかい尻を椅子に落ち着けて自分の杯へワインをダバダバ注いだ。

「ゴロウ、集合場所だとか作業の開始時間はどうだ。できれば作業内容も教えてくれ」

 ツクシが訊いた。

 ゴロウの代わりにアルバトロスが、

「ゴロウ、ツクシは王都に来たばかりで土地鑑がないんだ。明日の朝、お前がここに迎えにきてやれ」

「アルさんよォ、俺がそいつにそこまでする義理はねえだろうよォ?」

 ゴロウは唸り声と一緒に手の杯を呷ってそれを空にした。

「ゴロウ、俺の顔を立ててくれよ。俺はツクシに振られたんだ。それだけのタマだぞ。面倒を見てやればすぐモノになる筈だ」

 アルバトロスは口元に笑みを湛えていった。

「――振られた。アルさん、あのな、周囲の誤解を招くようないい回しはやめてもらえないか。俺にそのはねェ、ねェからよ――」

 ツクシはうなだれている。

「アルさんが振られたァ? まさか、ツクシ、おめェ、アルさんの冒険者団に誘われたのか?」

 ゴロウが顔を向けると、ツクシはうつむいていた顔をスッと引き上げて、

「ああ、そうだ。その通りだ。それで正しいぞ、ゴロウ」

「ツクシ、本当におめぇはアルさんの誘いを断ったのか?」

「事情があってな」

「それでネストで荷運びをやるのか?」

「ああ、やるつもりだ」

「おめェ、とんでもねえ馬鹿だな。マジで呆れたぜ。ツクシ、おめェよォ、本当にオツムがおかしいんじゃねえのかァ?」

「あ? 今何云いまなんつった、この赤髭野郎!」

 悪人面の二人がガンのくれあい飛ばしあいを再開した。

 アルバトロスは愉しそうにそれを眺めている。

 誰も止めるものがない。

 だから結局また悠里が、

「まっ、まあまあ、いいじゃないですか。とにかく、ゴロウさん、ツクシさんをお願いします、この通りです!」

 悠里は卓に手をついて頭を下げた。悠里は頭など無料タダでいくらでも下げられる、そう考えている男である。その点、ツクシよりずっと立派な大人だといえるだろう。

 困り顔になったゴロウが、

「ああよォ、アルさんと悠里にそこまでいわれたら、俺も断れねえがなァ――俺には何の得もないけどなァ。まァ、仕方ねえや。ツクシ、明日の朝七時だ。ちゃんと起きていろよ。あとなネストの荷運びの心得を今から――おい、あくびをしてんじゃねえ、このゴボウ野郎!」

 寝ぼけた顔をゴロウに向けたツクシが、

「――ん、すまん、すまん。まあ、ひとつよろしく頼むぜ、ゴロウ」

「――ったくよォ。話はこれで終わりかァ?」

 ゴロウが鼻を鳴らした。

「ああ、これで話は終わりだ。遅くまで悪かった。ゴロウ、ツクシを頼む。簡単に殺してくれるな」

 アルバトロスは彼が作る独特な表情――妙な気品のある笑顔をゴロウへ見せた。

「まァ、実際、ネストの人手はいつも足りてねえからなァ。こっちも助かるっていえば助かるぜ、アルさん――はァ、カードは邪魔されるわ、わけのわからねえオッサンは押しつけられるわで厄日だぜ。今日は宿に戻って寝る。失礼するぜ」

 ゴロウはボヤきながらゴルゴダ酒場宿から出ていった。ツクシは視線だけでその大きな背中を見送った。ゴロウが去ったゴルゴダ酒場宿は時計が時を刻む音が聞こえるほど静かになった。店内に客はもうほとんどいない。アルバトロスが自分の杯へとワインを注ぐと杯を半分だけ満たして瓶は空になった。

 表情を消したアルバトロスが、

「ゴロウめ、あの野郎、ワインが空になったところを見計らって帰りやがったな――ツクシ、ところでだ」

「――ん、ああ?」

 ツクシの眠そうな返事だ。

「ツクシの腰に刃物はあるが適当な防具がないな」

 アルバトロスの義眼がツクシを捉えている。

「ああ、すぐには用意できないですね。ツクシさん、僕の硬革鎧ハード・レザーを貸しましょうか。明日から僕は営業なんで、しばらく使わないですし。でも、ちょっとサイズが合わないかな――」

 悠里は人差し指で額を叩きながら思案顔だ。

「――うん」

 アルバトロスが頷いて、

「サイズも合いそうだ。死体安置所で剥ぎ取ってきた黒蜥蜴と外套はツクシが使え。お前が腰から吊るしてるそのカタナだって、あの死んだ男から渡されたんだろ。それなら他の荷物だってお前のものだ」

「ああ、それがいいですね。ついでに背嚢に入っていた道具一式も、ツクシさんに使ってもらいましょう。あれで十分、野営ができる」

 悠里も頷いた。

「ついでのついでだ。宿はこの上を使え。一部屋ちょうど空いているんだ。死人が空けてくれた部屋だ。縁起がいいだろう?」

 笑ったアルバトロスが杯のワインを飲み干した。

「――アルさん、『黒蜥蜴の革鎧』とかいったか。あれはこの世界で貴重なものじゃないのか。それに宿まで――俺はもう十分良くしてもらった。これ以上の親切は重すぎる。とても受け取れねェ」

 ツクシはうなだれた。

「気にすることはない。その代わりにだ。ネストに飽きたらいつでも俺の団に来い。ツクシ、俺はな、しつこいんだ」

 アルバトロスが胸を反らして笑った。

「ええ、ツクシさん、いつでも歓迎しますよ!」

 笑顔と一緒に悠里がいった。

 ツクシは卓を両手でぶっ叩いた。

 客席が静寂で埋まったゴルゴダ酒場宿に、「バァン!」と大きな打撃音が鳴り響く。

「――アルさん、悠里、申し訳がねェ。俺のわがままを聞いてもらった上にここまでしてもらって――この通りだ!」

 卓に額を擦りつけたツクシの背が震えていた。ツクシは頭を下げている。断固として融通が利かないこの男は、ひとへ頭を下げるのに死ぬ覚悟がいるのだった。

「――やっ、やめてくださいよ、らしくないですよ、ツクシさん。じゃ、そろそろ寝ましょう。僕が上の部屋に案内しますよ」

 悠里が目を丸くして椅子から腰を浮かせた。

「ああ、もう二時を回ったのか早いなァ――時計か。とっ、ところでツクシ。いっ、いい時計だなあそれ。ちょっと俺に見せてくれるか、ツクシ、その時計だ、その左の腕に巻いてるやつ――」

 義眼をチカチカさせたアルバトロスがツクシの腕時計を凝視している。

「構わないが――これ安物だぜ、アルさん」

 顔を上げたツクシが腕時計を外した。

「あっ、だめです、ツクシさん!」

 悠里の叫び声を合図にしたように、アルバトロスはツクシの手から腕時計をひったくった。

 アルバトロスは背を丸め、手にきた腕時計を凝視しながら、

「おっ、おおっ、す、凄いなこれ。ツクシ、この小さな時計はどこでゼンマイを巻くんだ?」

「ゼンマイ? アルさん、それ電池で動くやつだよ。クォーツ時計だ。俺も細かい構造までは知らないが――」

 ツクシはアルバトロスの右眼窩にあるエメラルド・グリーンの義眼を見つめていた。明らかに義眼の奥で光輝く文字が並んだ円環のようなものがいくつか、くるくると回りながら動いている。

「これが悠里のいっていたデンチってやつか! ほぉ、デンチってのは電気の塊なんだよな。デンチ、うん、電気の池だよな。しかし小さい。ドワーフの細工師でも、これを作るのは難しそうだぞ。中の歯車も相当小さいだろうしな――しかしデンチが気になる。導式じゃないんだよなァ――」

 アルバトロスはツクシの時計をいじくりまわしている。

「おやっさん、ツクシさんにその時計を返してください!」

 悠里が怒鳴った。

 顔が赤いので本当に怒っている様子である。

「ああ、いいんだ、悠里。世話になった礼だ。アルさん、それ欲しけりゃやるよ」

 ツクシは淡々とした口調でいった。

「いっ、いいのか、ツクシ、本当にいいのか? もらったら返さんぞ? 絶対に返さんからな! 絶対にだ!」

 アルバトロスは必死の形相である。

 生身のほうの左目が真剣すぎて怖かった。

「だめですよ、ツクシさん、おやっさんにやっても無駄になりますから!」

 悠里が真剣な顔をツクシに向けた。

 悠里も腕時計が欲しかったのかなあ――。

 困惑をしながらツクシがいった。

「ああ、悠里にも何かお礼をしないとな。本当に世話になった。いくら感謝しても足りないくらいだ。だが、あいにく腕時計は二つない。悠里には日銭が入ったら俺から一杯奢る。約束するぜ」

「あっ、そんな、気を使わないでください、ツクシさん――ああ、違うんです、そうじゃない! おやっさん、ツクシさんにその時計を返してください、今すぐ!」

 悠里がいくら吠えても、席の上で背を丸めたアルバトロスの視線は腕時計から外れない。

「おいおい、悠里。その時計はどこでも売っている安物だぜ。アルさんには世話になった。こんなもので済むなら御の字だ。それに王都は鐘で時報があるんだろ。俺は道に迷っているとき聞いたぞ。時計なんかなくたってなんとかなる」

 ツクシは困惑したままいった。

「いや、ツクシさん、違うんです。ええとですね、おやっさんはいつも――」

 悠里の言葉にかぶせて、

「ああっ、時計な、時計がないと困るか困るよなあ、うん困るだろう。よし、ツクシ、時計は代わりのものを用意してやる。悠里、ツクシを上の部屋へ案内してやれ。じゃ、もう寝ろ、お前ら今すぐに寝ろ!」

 アルバトロスが吠えた。

「アルさん、その腕時計は俺の礼だ、代わりなんてもらえん!」

「おやっさん、いい加減にしてください、子供じゃないんですから!」

「団長命令だ、悠里、ツクシ、お前らはさっさと上へ行けえ!」

「――超・う・る・さ・い!」

 夜半過ぎに大騒ぎをしていた大の大人三人へ向けて、二階から雷鳴のような叱責が落ちてきた。少女の声だ。押し黙ったツクシたちが階段の上へ視線を送ると、ネグリジェ姿の少女が長々とした黒髪をひるがえして消えてゆくのが見えた。

 少女の寝巻きを目にして自分の睡魔を自覚したツクシが、

「俺もマジで眠いぜ。悪いが悠里、寝床へ案内してくれるか?」

「――あ、はい、ツクシさん」

「――ああ、寝ろ、そうしろ」

 黒髪の少女が消えた先を凝視したまま、悠里とアルバトロスが消え入るような声でいった。

 悠里が案内したのは、ゴルゴダ酒場宿二階の大通りに面した場所にある貸し部屋だった。カントレイア世界の生活水準を考えると二階の各部屋に風呂トイレつきは無理がある。ツクシの貸し部屋は寝ることだけが目的の小さなものだ。そこには小さいベッドと小さな机、それに長持が設置されていた。机の上では丸いランプが青白い光を放っている。窓際に歩み寄ったツクシが鎧戸をを開くと闇の大河を渡る光の橋――ペクトクラシュ南大橋が見えた。眼下にある十字路を豪華な馬車が走っていった。

 ひとの営みの匂いが交じる深夜の風がツクシの頬を撫でてゆく――。

「――観光に来ているなら、よかったんだがな」

 目を細めて頷いたツクシは、鎧戸を閉めてベッドに潜り込み、すぐ夢なき眠りへ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る