六節 無明のなかへ
ツクシの身体は重かった。
兵士から逃げ回り、ようやく逃げ切ったと思えば、後頭部を殴られて気絶して、硬い路面で一夜を明かしたのだから、当然、疲労がまるまる残っている。
ツクシは腕時計を見やった。目覚めた時間が午前七時頃、現在の時刻は午前十一時三十分。ツクシは四時間以上、歩き続けている。周辺にある建物の隙間から、ツクシにとって目標になっている白亜の巨城が垣間見えた。
「今日は天気が持たないか――」
ツクシは空を見上げた。
雲が厚く空は暗い。
いや、持たないのは俺の身体かも知れんよな――。
ツクシは口角を歪めた。ツクシは腹が空いていた。赤頭巾の子供から拝借中の革水筒に飲み物がまだ残っているが、ツクシはこれを限界まで取っておくつもりだった。革水筒に入った飲み物の正体は不明だ。だが飲んでみたところ、あるていどの栄養価がありそうな印象を受けた。それに井戸水が飲用に使えない以上、革水筒にある水分は貴重だ。無駄な消費はできない。人間は水と塩さえ摂取していれば一週間ていど生きのびるそうだが、まったく飲まず食わずだと三日で動けなくなる。その上、ツクシは移動を続ける必要があった。あの兵士がツクシを追いかけてくる可能性もある。体力を消耗し続けているツクシに残された時間は、おそらく、本人の予想よりも短い。
そのうち、ツクシが歩く街並みは、また変化を見せた。
石畳の道の左右には小さい建築が多くなっている。そのたいていは石造り二階建ての、三角屋根を頭に乗せた建物だ。道行くひとすべてが忙しなかった倉庫街に比べると、この区画で見かけるひとは動きに余裕がある。
この界隈は住宅街かな、ツクシは考えた。
住宅街の人々が着ている衣服の形状は、天幕の街にいたひとと似たようなものだ。しかし、比較をすると、ずっと清潔なものを着用していた。住宅街は裏道まで石畳で舗装されて、街路樹やガス灯(らしきもの)も設置されている。道路へ屎尿をぶちまけている気配もない。しかし、路地裏に入ると、やはり生ゴミが積み上げられていていた。それを痩せた犬や猫、それにドブネズミが漁っている。大通りの移動を、ツクシは意図的に避けた。この住宅街にいる住人はツクシにとってさほど危険でなさそうだ。すれ違うひとはツクシへ奇異な視線を送ってきても、それ以上のことをする気配はない。しかし先日のツクシは、この国の兵士から派手に逃げ回っている。最悪、お尋ね者になっている可能性もあるだろう。そのうち、ツクシは何本もの道が交錯している丸い広場に出た。その広場の中央には屋根と釣瓶つきの井戸があって、そこで中年女の一団がまさしく井戸端会議をしている。駄目で元々だ。ツクシも井戸端会議に顔を突っ込んで発言した。やはり言葉は通じない。女たちの言葉もツクシには理解ができない。
日本でも、おばちゃん集団は早口でぎゃあぎゃあ喋るものだから、何をいっているのか理解できないことが多かった。
だから、今さら驚かねェよ――。
胸中で毒を吐いて、ツクシは井戸端会議を離脱した。腕時計に目をやると、この時点で時刻は昼を回っている。ツクシは足を動かすのも辛い。目的地である白亜の巨城はまだ北の遠くに見える。
「しかし、腹が減った――」
ツクシは眩暈を覚えた。ハンガー・ノック――低血糖症がツクシの意識を蝕み始めている。ツクシは革水筒を手にとって残り少なくなった中身の半分を飲んだ。。そのまま、ツクシは天を仰いだ。空一面を覆っていた雲は、今朝よりずっと重く、明度を失いつつあった。
雨が降らないといいんだが。
でも無理だな。
これは間違いなく雨が降る。
弱り目に、祟り目だぜ。
それでも、ツクシは北にある白亜の巨城を目指して歩き続けた。歩き続けるより他に道がないのだ。住宅街の道を北へ、北へ、ツクシは進んだ。進行はさらに遅い。これはツクシの空腹と疲労が原因だが、その他にも理由がある。街並みがまた変化した。ツクシの進む道の両脇に店舗らしきものが並んでいる。どの店も来客を想定しているのか、出入口の間口が広い。ツクシが外からなかを覗くと確かに商品らしきものが並んでいる。店の軒先に看板がぶら下がっていた。その看板に描かれているデザインで、ツクシにもそこで取り扱われている商品の種類がわかった。衣服だとか、金物だとか、革製品、家具、日用雑貨、ガツン、ガツン、ガツン――。
ツクシは金属を叩く音に気をとられて立ち止まった。その店の看板は、ツクシが読めない文字と一緒に、金床とトンカチを模したデザインがある。店のなかを覗いてみると、店の奥で主人らしきひとが、赤く焼けた鉄をハンマーで叩いていた。立派な赤い髭を持った鍛冶屋の主人は、たくましい裸体の上にオーバー・オールを着ている。入れ槌を赤く焼けた鉄に叩きつけるたび、全身に盛り上がった筋肉がゴリゴリ動いた。鍛冶屋の主人は極端に背丈が低く、それはまるで筋肉で作られた樽のような体形だ。
それを見て、鍛冶屋になるべくして生まれたような男だな、とツクシは思った。
ハテ、どこかで見たような体型だが、ともツクシは思った。
鍛冶屋の横に刀剣を販売する店舗らしきものがある。店内に並んでいたのは、西洋剣、斧槍、金属の鎧、戦槌、短剣、などなどなどだった。これは土産物屋かなあ、とツクシは思ったのだが、すぐその考えを改めた。昨日、ツクシを追い回した兵士はサーベルや斧槍で武装していた。この古めかしい武器の数々はすべてが実用品なのだ。刀剣販売店のすぐ横に銃器販売店があった。店内には多くの前装式の銃が陳列されている。
観光に来るのなら見ごたえがある街だろうがな。
だが、ここで道に迷うとなると命懸けだぜ――。
ツクシは口角を弱々しく歪めてまた歩きだした。その道では馬上のひととよくすれ違う。たいてい、馬の上のひとは武器を腰からサーベルだの、棍棒だのの武器を下げている。馬上の彼らは武器を携帯しているが、その服装に統一感がないところを見ると兵士ではなさそうだ。武器は護身用のものだろうな、とツクシは考えた。我が身は自分で守るのがこの国のルールらしい。実際、ツクシは実体験でそのルールを学んでいる。
ツクシが余所見をしながら歩いていると、脇道から出現した誰かとぶつかりそうになった。
「ああっと――あ?」
ツクシが怪訝な顔だ。
「フゥフム? ネィ、ネクゥル」
脇道から出現した女性が小首を傾げて見せた。その女性は、栗毛色の髪に褐色肌でなかなかスタイルが良い。大きな胸を見せつけるような胸元が空いた黄色いロング・ドレスを着ている。しかし、ツクシが注視していたのは、その女性の胸ではなく耳だった。猫の耳だ。その猫耳がピンピン小刻みに動いている。女性の目は瞳孔が縦に裂けていて、これもまるで猫のようだ。よく見ると女性の口元もちょっと猫っぽい。
ツクシが訝し気に猫の美人を見つめていると、
「コモンテリィフ、ジンティス、ノービネス、ホゥモ」
流し目で視線を残しながら、猫の女性はツクシに背を向けて、猫のような歩みで歩いていった。その場に残ったツクシは女性の背を見つめている。臀部では猫のしっぽがぬるぬる揺れていた。
こんな物騒な国でも、コスプレとやらを
憮然と佇むツクシの鼻先が動いた。食べ物の匂いだ。匂いに釣られたツクシの足が自然とそちらへ向く。ツクシは周りにある建物よりも、ひと回り大きい建築物の前で立ち止まった。レストランのような店舗だ。食べ物の匂いはこの店のなかから漂ってくる。ウエスタン調の扉の外から、ツクシは店のなかを覗いた。店内では何人かの男たちが飲み食いをしている。ツクシは店内のカウンターの向こうにいた禿頭の男と目が合った。カウンター奥のにいたハゲ親父は、恰幅のいい体に白いシャツと革のベストを着て腕まくりをしている。見た目の貫禄から考えると店主のようだ。
「エクソダスタ、ヴィシィタス、バン! ゴ、ゴ!」
ハゲ頭の店主が怒鳴った。カウンター席に座っていた二人の男が振り向いてニヤニヤ笑った。だが、すぐに男たちの顔からニヤニヤ笑いが消えた。ハゲ頭の店主の表情も凍った。ツクシの三白眼で殺気が燃えている。極度の空腹と疲労で苛立つツクシはキレていた。
「おう、お望み通り押し込み強盗をやらかしてやるか?」
ツクシが唸り声と一緒に入店した。
ハゲ頭の店主が慌てた様子で、
「ノ、ノーネ! ノーネ! クィット、スインタラァートス、ホゥモ、イェットリストーラ、インタラーネ、エクソダスタ、オケイ、オケィ?」
ツクシにはわからない言葉だが、ハゲ頭の明らかに何かを懇願をしているような素振りだった。ツクシは気を削がれるついでに思い出した。ひとの目のある場所で暴れて、兵士が駆けつけてきたら、疲労困憊しているツクシは逃げ切れない。ツクシは食い物に後ろ髪を引かれる思いで踵を巡らせて、通りを北へ歩いていった。
パツン、パツン、パツン――。
ワーク・キャップの鍔に水が落ちている。
ツクシが視線を上げると暗くなった空から大粒の雨が落ちていた。
やはり、弱り目に祟り目だったかよ――。
ツクシは苦笑いを浮かべる気力もない。降りだした雨を呪うような言葉を吐きながら、通りに出ていたひとが建物の中へ消えてゆく。ツクシの耳に遠くから鐘の音が聞こえた。ツクシが腕時計を見ると午後六時。この世界に迷い込んだときから数えて第二幕の夜の帳が落ちてくる。雨に打たれるツクシは、街路灯で作られた自分の影を眺めつつ北へ向かった
商店街通りの道は東西に横たわる大通りに突き当たった。道幅は荷馬車四台分、いやそれ以上は通れそうな石畳の道だ。大通り沿いには街路灯が並んでいる。ここまでツクシが進んできた道に比べれば、その足元は明かったのだが、しかし、雨はいよいよ強く地面を叩いて視界は悪い。大通りの北側にある大きな敷地は、何を目的にしてそこにあるものなのか、よくわからなかった。そこは光のない空間が広がっている。ツクシは足を止めて目を凝らした。その敷地を囲う高い鉄柵はツタが絡みついて何やら古めかしく気軽に近寄り難い雰囲気だ。
「よくわからねェな――」
ツクシは大通りの左右へ視線を送ると東に強い光が密集している。遠目から見ると、何かの興行をしているスタジアムのような感じだ。西はこれまでツクシが見てきた光景と大差がない光の密度だった。ツクシはこの状況を打開する変化が欲しい。
ツクシの足は東へ向いた。
※異界語の翻訳※
原文「フゥフム? ネィ、ネクゥル」
訳文「あらあら? どうなさったの」
原文「コモンテリィフ、ジンティス、ノービネス、ホゥモ」
訳文「ごきげんよう、異邦の高貴なお方」
原文「エクソダスタ、ヴィシィタス、バン! ゴ、ゴ!」
訳文「流民は入店お断りだ! しっ、しっ!」
原文「ノ、ノーネ! ノーネ! クィット、スインタラァートス、ホゥモ、イェットリストーラ、インタラーネ、エクソダスタ、オケイ、オケィ??」
訳文「ちょ、やめて! やめてくれ! ここで騒ぎは勘弁ですぜ、そこの旦那、この店は流民の出入り禁止なんですよ、察してくださいよ?」
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