五節 天使の来た道

「――ボーバ、ボーバ。オケィ、コルプス。ヤ、ヤ、ボーバ!」

 曇り空を背景に黒い顔の天使がツクシを覗き込んでいた。

 ああ、もう夜が明けたのか。

 しかし、ひでェ二日酔いだな。

 こんな頭痛は今まで経験をしたことがねェ。

 身体も鉛みたいに重くて動けやしねェ。

 まあ、これも年齢の所為だよな。

 三十路を超えて酒にも女にも弱くなったってわけだ。

 まったく、なんてザマだ。

 これは天使――というよりも赤頭巾ちゃんか――。

 ツクシは眼球だけ動かして自分を覗き込む黒い顔を眺めた。地の肌が黒いわけはないな。赤いフードで頭を覆った顔は垢と泥で真っ黒になっている。ツクシが天幕の街で散々見てきた肌の色だ。真っ黒な顔のなかで瞳だけは宝石のように輝いていた。琥珀色の宝石だ。

 あのな、風呂にちゃんと入れよなあ。

 マジで汚ねェぜ――。

 身体を起こそうとした瞬間、

「くおっ!」

 ツクシは顔を歪めた。

 まるで頭をブン殴られたような酷い頭痛だ。

 そうだ、ブン殴られたような――。

 そこでツクシは昨日の夕べに起こった出来事を思い出した。

 あの顔に刺青いれずみを入れたクソガキが俺の後頭部をブン殴ったのか。

 それで気絶した俺は、道の上で一晩寝ていたってわけだ。

 あのクソガキ、絶対に許さねェ。

 次に会ったときは必ずその場で叩き殺してやる。

 ツクシの眉間に険が発生すると同時に三白眼から殺気が迸る。

「ヒャア!」

 黒い顔の天使がツクシの発した殺気をモロに浴びて尻餅をついた。

「ああ、いや、お前のことじゃあねェぜ――」

 ツクシは掠れた声でいった。

「ボーバ。アノォウン、エスト、コハク?」

 黒い顔の天使は尻餅をついたまま自分の首元を指差した。

 どこかで聞いた単語だな。

 そう考えながら、ツクシは黒い顔の天使を眺めた。赤茶色のフード付マントを羽織って、上衣はベージュ色の丈の長いチェニックを着ている。半ズボンを履いているのか膝が露出していて(この部分も泥と垢で真っ黒だ)、足元は赤茶色の長ブーツだ。背丈は小さい。百三十センチ前後。声は変声期前の少年のように聞こえた。年齢は十歳歳前後か。

 ツクシが天使と錯覚したのは赤頭巾をかぶった子供だった。

「ユキ。デ、バーバ、シィ、エクスキューシオ」

「ヤヤ、ノーネ、テンプス、エストモンティ」

 赤頭巾の子供とはまた違う若い声だ。

 ツクシが声のほうへ目を向けると、近くにリヤカーを引いた少年が二人佇んでいる。赤い縮れ毛を黄色いバンダナで巻いたそばかすのある少年と、短い黒髪に眼鏡をかけた痩せた少年だった。二人の少年は双方、ツクシの近くでしゃがみこんでいる赤頭巾の子供より背丈が大きい。十四歳から十五歳くらいに見える。二人の少年は声色や表情からすると苛立っているようだ。

 ああ、寝ている俺が通行の邪魔になっていたか――。

 気づいたツクシがようやく立ち上がって、「邪魔をしたな、悪かった」そう告げようとしたのだが声が出てこない。喉が痛いほど渇いている。

 ツクシはふらふらと水場へ寄った。

 少年の三人はツクシを黙って見つめている。

 水道ポンプの蛇口から噴き出した水へ、ツクシが前屈みになって口を寄せた途端だ。

「ボーバ、ノーネ、クィート。イエット、ヴェティス、アクェイア!」

 赤頭巾の子供は、ツクシの作業服の裾を後ろから引っ張った。のろい動きで振り返ったツクシは赤頭巾の子供を見つめた。自分を見上げる琥珀色の瞳が真剣そのものだ。ツクシはそこで、ああそうだったな、と思い出した。ここの井戸水は飲用に適さない。だから、赤頭巾の子供は水を飲もうとしたツクシを止めたのだろう。

「おう、助かったぜ――」

 ツクシは掠れた声と一緒に口角を歪めて見せた。

 こんなのがツクシの顔面が作れる最大値の笑顔である。

「アパージェ、ユキ!」

「ウェリクルゥム、ユキ!」

 リヤカーを引いていた少年の二人が血相を変えて叫んだ。赤頭巾の子供は、一歩、二歩と後ずさりをして、ツクシの邪悪な笑顔から距離を取った。胸元に両手をやってツクシを凝視する赤頭巾の子供は震えている。ガクガクプルプルだ。ツクシはうつむいて顔を歪めた。これはツクシが頻繁に作る渋面だが笑顔よりずっとマシだ。ここでようやく、黒い顔の天使とリヤカーを引く二人の少年の警戒心がゆるんだようだ。

「ボーバ、チードル、ダーヴェ」

 赤頭巾の子供が腰紐に結わえつけてあった革袋を手にとってツクシに突きつけた。ツクシは眉根を寄せて革袋を受け取った。受け取る際それはたぷんと揺れる。革水筒だ。ツクシは怪訝な顔のまま革水筒の栓を抜いて鼻先を近づけた。酸味のある甘い匂いと極わずかな酒精の香り。ツクシは革水筒の飲み口に口をつけた。それは果実で作られたビールのような味だった。ツクシは限界まで渇いている。ひと口めは見知らぬ液体に警戒をしていたものの、舌がその飲み物を安全と判断するや否や、喉を鳴らして痛飲した。鬼の形相で仁王立ち革水筒の液体を飲み下すツクシを、リヤカーを引いた少年二人と、赤頭巾の子供が目を丸くして眺めている。

 革の水筒の中身をほとんど飲み干した途端、ツクシがふらついた。すきっ腹に加えて、痛めた肉体でアルコールを摂取した結果である。血の巡りが良くなったツクシの頭を痛みが再び襲う。ツクシは両膝へ手をついた。

 そうこうしているうちに、少年二人が引くリヤカーは広場を抜けて西側の道へ進んでいる。

「ユキ、ウトゥーレス、セェーラ!」

 リヤカーを後ろから押していた眼鏡の少年が、まだツクシの近くにいた赤頭巾の子供へ叫んだ。

 赤頭巾の子供が思い出したようにリヤカーを追ってゆく。

 あっ、と顔を上げたツクシが、

「助かったぜ、ありがとうな! ああ、日本語は通じないか――」

「グラッツェ!」

謝々シェイシェイ!」

「ダンケ!」

「メルシィ!」

「サンキュー、サンキュー、ボーイズ!」

 思いつく限りの外国語を吠えた。

 気持ちが伝わったのか、適当に叫んだ単語の意味が伝わったのかは定かでない。

「ボーバ、ラゲェジ、ディコミュニケィテッド。エスト、コハク、コシューモ、エスト、コハク!」

 赤頭巾の子供が振り返って叫んだ。透き通った耳に心地の良い声だ。西へ去っていく少年三人を、ツクシはその場で見送った。彼らが引くリヤカーの積荷はかなりの重量がありそうだ。その積荷の内容は木箱に盛られたジャガイモだとか、野菜だとか、飲み物が入っているらしい樽だとか、何かの穀物が入っているらしい麻袋だとか、そういったものに見える。

 しかし「エスト」と「コハク」という単語を多く聞く気がするぜ。

 何か意味があるのか――。

 少しの間、ツクシは考えてみたが、やはり言葉の意味はわからない。

 ツクシは広場全体を見回した。

 まだ俺の荷物が残っているかも知れん

 そう考えて、ツクシが足を一歩踏み出すと、殴られた後頭部がズキリと痛む。ツクシは後頭部へ手をやった。殴られた箇所に大きなこぶができている。ツクシが頭に乗せていたワーク・キャップは殴られたときに落ちてしまったらしい。それはすぐに見つかった。昨日ツクシが殴り倒されたその場所にワーク・キャップが落ちていた。ツクシは埃を払った後であとにそれを頭に乗せた。ツクシの財布もそこに落ちていた。引っ張り出されたらしい財布の中身が石畳の路面に散乱している。一万円札が一枚と、千円札が数枚、自動車の運転免許証、酒量販店のスタンプ・カード。クレジット・カード、保険証、云々――。

 ツクシは顔を歪めた。日本の紙幣や身分証明書やクレジット・カードが、ここでは何ら価値のないものと判断されている。他の荷物は見当たらなかった。刺青の若者に持ち去られてしまったようである。

 ツクシは財布の中身を拾い集めた。ここでは日本の紙幣も身分証明書も価値がないのである。しかし、ツクシは財布を捨ててしまうと日本との繋がりが――自分がこれまで生きてきた過去との繋がりが切れてしまうような気がした。これまで生きてきたツクシの三十と数年間の時間は他人に誇れるようなものではなかった。それでもツクシは自分が積み重ねてきた過去を気軽に捨てるつもりはない。

 ツクシはこう考える

 これが意地だ。

 男の意気地というものだ。

 自分の過去を背負う意気地がない奴は男でない。

 背負っているものを気軽に捨てるような奴は断じて男じゃないんだぜ――。

 ツクシの頭は鈍器でしたたかにブン殴られても割れないよう頑丈にできていた。そして、別の意味合いでもツクシは頭が固い男だった。拾い上げた財布をズボンのポケットに突っ込んで立ち上がると、ツクシは頭痛と眩暈にまた襲われた。まだ歩き回るのは難しそうだ。

「無理をしてぶっ倒れたら元も子もねェよな――」

 呟いたツクシは性懲りもなくまた空き樽に腰を下ろした。

 顔に刺青入れたあのクソガキだ。

 ここで張っていれば、また現れるかも知れないねェ。

 そんな考えが頭に浮かんで、ツクシの口角が歪み、三白眼に殺気を帯びた。

 見つけたら問答無用でブチ殺してやる。

 覚悟しておけよ。

 ツクシのそんな顔だ。物珍しそうな視線をツクシに送りつつ荷ロバを引きながら広場を横切ろうとしていた初老の男がさっと視線を逸らした。そのまま初老の男と荷ロバは視線を前方へ固定して、ツクシの前をギクシャクと通り過ぎた。空き樽の上のツクシは倉庫の壁に背をもたれて身体を休ませながら広場を行き交う人々を眺めている。大通りと違って通行人は少ない。荷ロバや、ヒトの引くリヤカー、それに荷を積んだ馬などがちらほら通る、そんな具合だ。ワーク・キャップに作業服のツクシはここでも目立つ。しかし、物珍しさでツクシを注視する通行人はいるものの、敵意や悪意のある視線をツクシへ送ってくる人間はいないように見えた。やはり、天幕の街と違って倉庫街の治安はそこまで悪いわけでないらしいな、とツクシは考えた。

 それでも、夜は危険らしいがな――。

 ツクシが口角をぐにゃりと歪めると、その全身から殺気が迸る。付近を通行していた白い馬が突然暴れだして、そこに乗っていた小太りの中年紳士がスッテンコロリン転げ落ちた。その中年紳士が乗っていた馬を引く従者らしき若い男が、「ああっ」と、声を上げて中年紳士に駆け寄った。落馬した際に腰を打ったらしい。ひいひい泣きそうな顔になっている小太りの中年紳士と、その彼を泣きそうな顔で介抱している若い男の従者、それに、ツクシを怯えた眼つきで見つめる白い馬を眺めながら、ツクシは考えた。

 ここは兵士――恐らくは、この街の治安を担う役割にある警備兵が、ひと混みに向かって気軽に銃をぶっ放すような狂った国だが、それで全員が気が狂っているというわけでもないようだ。少なくとも、俺はここに迷い込んでから、二人の人間に善意を受けた。

 あの小さな悪魔老人(いや、あれは人間だったのだろうか? とツクシは考え始めて頭が痛くなってきた。だからすぐ考えるのをやめた)、それと、俺に飲み物をくれた、あの汚れた顔の子供――。

 ツクシは手に持っていた革水筒に視線を落とした。その中身がまだ残っている。

 ああ、この革の水筒を、俺はあの子に返し忘れた。

 日本に帰る前に、これを何としても、あの子に返してやりたい。

 あの子は見たところ、日本では考えられないような貧乏暮らしをしているようだったからな。この革の水筒を返すついでに何か旨いものでも食わせてやりてェ。

 それにはまず、日本へ帰る道を探すのが先決だ。

 あの子にメシを奢ってやろうにもだ。

 どうやら日本の金は、ここで使えないようだしな――。

 革水筒には紐が付いていた。ツクシは自分の腰のベルトへ革の水筒を結びつけた。そして、地面を蹴って飛び跳ねてみる。身体はどうにか動きそうだ。

「よし、行くか――。」

 ツクシは広場から伸びている四つの道のうちの一つを歩き始めた。進む先に選んだのは北東へ続く小道だった。あの黒い顔をした天使がやってきた道である。このときツクシが選択した道には特別な理由はない。

「ま、ゲン担ぎだよな――」

 ツクシは口角を歪めて呟いた。


【後書き】

原文「――ボーバ、ボーバ。オケィ、コルプス。ヤ、ヤ、ボーバ!」

訳文「――おじさん、おじさん。体はだいじょうぶ。ね、ね、おじさん!」


原文「ボーバ。アノォウン、エスト、コハク?」

訳文「おじさんは虎魂のネックレスを持ってないの?」


原文「――ユキ。デ、バーバ、シィ、エクスキューシオ」

原文「ヤヤ、ノーネ、テンプス、エストモンティ」

訳文「――ユキ。そのおっさん、早くどかせよ」

訳文「うん。時間が押している、急がないといけない」


原文「アパージェ、ユキ!」

原文「ウェリクルゥム、ユキ!」

訳文「危ない、ユキ!」

訳文「逃げろ、ユキ!」


原文「ボーバ、ノーネ、クィート。イエット、ヴェティス、アクェイア!」

訳文「おじさん、絶対に飲んじゃだめ。これは汚い水だよ!」


原文「ボーバ、チードル、ダーヴェ」

訳文「おじさんにこのシードルあげる」


原文「ユキ、ウトゥーレス、セェーラ!」

訳文「ユキ、早く倉庫へ行くぞ!」


原文「ボーバ、ラゲェジ、ディコミュニケィテッド。エスト、コハク、コシューモ、エスト、コハク!」

訳文「おじさんの言葉、わかんないし。虎魂のネックレスだよ。虎魂のネックレスを使って!」

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