四節 異界の倉庫街

 それでも、ツクシは背後を気にしつつ移動を続けた。呼吸は乱れ、膝はガクガク笑っている。流れる汗が目に入って痛い。もう一度、上下する肩越しに振り返っても、追手はいない。立ち止まったツクシは膝に手をついて呼吸を整えた。腰を折ったツクシの目に映ったのは天幕の街の汚れた黒い土ではなかった。道は石畳で舗装されている。ツクシは布袋から取り出したタオルで汗をぬぐいながら周囲を見回した。あのツギハギだらけの天幕は見当たらない。その代わり道沿いに大きな建物が並んでいる。ひとが住むにしては作りが大雑把で面積と高さが過ぎる四角い建物だ。

 雨沁みができた煉瓦壁を眺めながら、

「たぶん、倉庫だよな――」

 ツクシは呟いた。天幕の街を抜けたツクシは石畳の小道にいる。道は直線が多く物流のために区画が整理されている印象だ。背の高い建物に囲まれた道は陽が届かないので薄暗く、ひとの気配はほとんどない。遠くへ視線を送ってもほぼ一直線に同じような光景が続いている。これは倉庫街である。ツクシは倉庫街を北へ向かうことに決めた。決めたといっても、行くアテはどこにもないのだが、それでも、歩く足を止めるのは不安だった。

 うつむき加減に歩くツクシは会社の周辺でいつも見かけたホームレス男を思い出している。ボロ服を着込んで――天幕の街の住人よりもはるかにマシなボロ服を着て、大きな荷物を背負ったその中年男のホームレスは、会社のトラックに乗ったツクシが見かけるとき、いつも道を急いで歩いていた。歩みを止めるとそこで死んでしまうのだ。そんな必死さで、晴れの日も、風の日も、雨の日も、嵐の日でも、そのホームレス男は歩き続ける。

 頭がイカレているのか。

 どうも、行き先がないようだが――。

 トラックの車窓の向こう側で歩くホームレス男を見るたび、ツクシはそう思ったものだ。しかし、今ならツクシにも、あのホームレス男の気持ちが理解できる。行き先がなくても、足を止めると不安になる。不安で押し潰されそうになる。行き先を見つけるために歩き続ける必要がある――。

 ツクシはのろのろ北へ歩んだ。行く道は十字路に差し掛かった。西に傾き始めた陽の光が倉庫の間から差し込んでいる。ツクシが目を細めた顔を向けると、向こう側に幅のある道が走っていた。その大通りを馬に乗ったひとだとか荷馬車だとか荷物を背にくくりつけたロバだとか、リヤカーを引くひとが行き交っている。大通りには大きな三角屋根の建物――やはり倉庫らしき建物が並んでいた。その倉庫へ木箱を担いだ男たちが出入りを繰り返している。建物の正面には荷車がずらりと停まっていた。荷車を引くのは馬だった。

 トラックでなくて荷馬車とロバときたかよ。

 一体、どうなっていやがるんだ――。

 ツクシは自分が迷い込んだこの場所を、外国だと思っていたが、今では、その認識も揺らいでいる。どう見ても、この国の文明は中世前後のものだ。

「俺はタイム・トラベルでもしたのか――」

 ツクシはとうとう不安に負けて足を止めた。大通りでは上半身裸の男たちが威勢よく荷馬車へ木箱を積み込んでいる。ツクシは運送会社の集配ドライバーを仕事にしている――自分の仕事にしていた男だ。だから、荷馬車に木箱を積み込んでいる男たちに親近感を感じた。フォークリフトが使えないような状況や荷物に当たるとき、トラック荷台への積み込みと荷下ろしを、ツクシも手作業でやった。

 馬車に荷を積み込んでいる男たちに駄目元で声をかけてみるか。

 あの威勢のいいアンちゃん連中に合わせた調子だと、

「いよう兄弟、俺も同業なんだ、景気はどうだい?」

 そんなくだけた挨拶が妥当なのか――。

 ツクシはそんなことを考えながら大通りへ出てまた歩みを止めた。荷馬車の一団が車輪の音をガタガタと立て、ツクシの鼻先を掠めていった。かなりの勢いだ。道を歩いている人間など馬にムチを入れる御者は目をくれない。大通りは注意して歩かないと、行き交う馬車や馬に跳ね飛ばされてしまいそうな活気があった。ツクシはその活気よりも道の両脇に等間隔で道に並んでいたあるものを凝視していた。まだ陽がある時間帯なので灯は点いていない。それはガス灯らしきものだった。形状は間違いなく街路灯だ。

 ガス灯は確か、十八世紀後半から普及し始めたものだった筈だが――。

 高校時代に受講した世界史の授業を必死に思い出しながらだ。

 ツクシが周辺を見回すと北の遠くに城が見えた。天を衝かんばかりの尖塔が立ち並ぶ白亜の巨城だ。城というよりも大要塞といったほうが相応しいそれは、小高い丘の上から倉庫街を――おそらくは、ツクシがいるこの都市全体を見下ろしている。丘の斜面ではオレンジ色や赤い色の屋根の家々が白い王者にかしずいていた。白亜の巨城を仰ぎ見るツクシの目に鳥の隊列が映った。編隊は綺麗なVの字の隊列を維持しながら、白亜の巨城の上空を旋回したあと、遠く向こうに連なった山脈が霞んで見える北の空へ飛び去ってゆく。

 ツクシは自分の目を疑っている。城のスケールと、あの鳥の大きさを比較すると、鳥の身体が大きすぎた。それに鳥は鞭のような尻尾があったように見えた。

 ああ、いや、俺はここへ遠足をしに来ているわけじゃねェか――。

 我に返ったツクシが視線を大通りに戻すと、北方面から近づいてくる幌馬車が目に入った。幌馬車の御者は天幕の街でツクシを追い回した兵士と同じ格好だ。

「また、あの兵隊さんかよ、クソッたれめ――」

 ツクシは踵を返して裏道へ引き返し、空の木箱の山の裏に隠れて追手を警戒した。ツクシはそこでまた考えた。先刻までツクシがいた倉庫街の大通りは城に向かって伸びていた。メイン・ストリートは、あの白亜の巨城から放射状に伸びている可能性が高い。主要道路が一直線に繋っているような巨大な建物だ。都市の中心的な役割を果たしている機関が、あの白亜の巨城にあると考えていいだろう。

 あの城の周辺に日本の大使館があるかも知れない。

 そうでなくても日本語が通じる人間に会える可能性が――。

「――ん。あの城へ向かって移動する」

 頷いたツクシは裏道を北へ歩いて行った。途中、何回か振り返った。追手の姿はない。ツクシは安堵した途端、眩暈めまいを覚えた。今朝から食事をとっていない。このまま腹に何も入れないと空腹で倒れてしまいそうだ。幸いにも、布袋のなかに握り飯が二パック入っている。握り飯を食うか、とツクシは考えた。そう考えて、ツクシはまた迷った。

 布袋の中の握り飯を食い切ったら、そのあとの食事を自分はどうやって調達すればいいのか――。

 ツクシの沈む気分と同調するように太陽が地平線の下へ落ちていった。倉庫街に夜の帳が下りてくる。ツクシが進む裏道は広場に突き当たった。東北方面、西北方面、西方面、そして進んできた南への道が交錯しているその場所は、どうやら意図的に広く設計されているようだ。ツクシは周辺を警戒した。ひと影はない。小さな広場の中心に丸い土管がせり出していた。土管の上の蓋に青銅色の手押しポンプが設置されている。広場の北側には小屋があった。ツクシは小屋の扉を開けた。漂う臭気で顔が歪む。臭いも見た目も間違いない。これは便所である。小屋の床に丸い穴が開いていた。どうも汲み取り式のようだ。

「ま、ついでだ、用を足しておくか――」

 ツクシは便所を使った。ここまで散々、汗を出したツクシの身体から排出される不要な水分は無駄に色が濃いものが少量だ。用を足し終わったツクシは手押しポンプの取っ手を動かした。手押しポンプの蛇口から水が噴出して石畳の地面を塗らした。呼び水用だろうか。手押しポンプには木桶が鎖で繋がれている。ツクシは木桶に水を溜めた。

 この水、飲めるものかな――。

 ツクシは考えたのだが、しかし、結局、水に口をつけるのはやめにした。外国の井戸水を飲むとあっさり腹を下すらしい。ツクシはそう聞いたことがあったし、まだ手持ちの水筒の中身も残っている。危険を冒す必要はない。ツクシは顔と手を洗った。火照った頭と思考を落ち着かせたツクシは、握り飯なんぞ大事に残しておいてもいずれは腐るよな。ここで全部食ってしまおう、そう決心した。あの天幕の街はともかくとしてだ。倉庫街で威勢よく働いていた男たちや、大通りに並んでいたガス灯、それに、ここのトイレや水場といった公共設備を見る限り、生活に必要な施設は行政の手できちんと管理されているように見える。これはツクシが迷い込んだこの世界の政府機関が、そこまでイカレたものではない、という証明にもなるだろう。

 先に進めば希望はある。

 ここで腹ごしらえをして一休みした後、進める限り進む。

 自分は歩き続ける。

 これがツクシの選択だ。広場に面した倉庫の壁際に空の樽が何個か置いてある。ツクシは樽の上に腰かけて水筒の麦茶を飲んだ。喉を潤して一息ついたツクシは改めて周辺を眺めた。通りの奥に点々と正面が点いている。近くにあった倉庫の出入口にもカンテラがぶらさがっていた。ツクシがそれを眺めているうちにカンテラが灯った。ツクシは怪訝な顔だ。カンテラに点ったのは蛍光灯のような青白い光である。

 確かガス灯ってやつはもっと黄色っぽい光だった筈だぞ。

 それに、この照明は自動で点灯したようだ。

 どこかに、スイッチでもあるのか。

 もしかしたら、ガス灯ではなくて、これは電灯なのか――。

 ツクシは眉根を寄せながら握り飯を口へ詰め込んだ。明け方にコンビニエンス・ストアで購入したその握り飯は、ぽそぽそとしていて旨いものではなかったが、それでもツクシはあっという間に一つを完食した。

 そこで、

「バーバ、ヴォス、ヴァスィテシス、ダン? バーバ、イーレ、マディア・ファナクティクス、アーリア。バーバ、バーバ。リフィール、ウサーミ、フェー」

 ツクシは後ろから声をかけられた。背面にある倉庫の出入口から出てきた若い男がニヤニヤ笑っている。垢じみた丸い顔に赤い髪をモヒカンにした若者だ。顔の右半分にびっしりと植物柄の刺青イレズミがあった。

 これは男というより子供かな、いや、餓鬼ガキのチンピラか――。

 ツクシはそう思った。ツクシは子供を二種類に分けて考える。大人に対して敬意を持っているのが子供。そうでないものは全員、漏れなくクソ餓鬼ガキ扱いだ。

「――うぜェぞ。とっとと消え失せろ、クソ餓鬼」

 ツクシは二つめの握り飯を食おうと視線を落とした。視線を落としたところで、ツクシの目から火花が散った。意識を失ったツクシは前のめりに崩れ落ちた。右手に棍棒ブラックジャックを持って顔面を紅潮させた若い男が、気絶したツクシを睨んでいる。

 若者がツクシの後頭部へ怒りの一撃をお見舞いしたのだ。


※異界語の翻訳※


原文「バーバ、ヴォス、ヴァスィテシス、ダン? バーバ、イーレ、マディア・ファナクティクス、アーリア。バーバ、バーバ。リフィール、ウサーミ、フェー?」

訳文「おっさん、ここで何をやってんの? おっさん、知らないのか、ここはマディア・ファナクティクスの縄張りなんだぜ。おっさん、おっさん、使用料を払ってもらおうか」

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