三節 赤い天幕

 簡易牢の近くにいる兵士の一人がツクシを見つめていた。その兵士に今朝、蹴っ飛ばした泥老人が寄り添っている。泥老人は何か喚き散らしながらツクシを指差すと、兵士がツクシに向かって声を上げた。

「イゥモ、クゥフォモ、ヴェニ!」

 嫌な予感ほどよく当たるもんだ。

 本当にな――。

 ツクシの三白眼に殺気がはしる。楢の木の幹から吊るされた死肉を、くちばしの先でもてあそんでいた黒い鳥の群れが、突発した何かに驚いて、「ギャアッ、ギャアッ、ギャアッ!」と、騒がしく鳴きながら飛び立った。ツクシは踵を返し離れてゆく。兵士がまた大声を上げると、広場にいた人々の視線がツクシへ集中して、緑の小男楽団の演奏が止まった。

「こっちのほうは、手前てめえらに用がねェんだぜ、兵隊さんたちよ――」

 舌打ちをした直後、ツクシは猛然と走りだした。兵士の怒号が連なる。一直線にひと混みを掻き分けたツクシは元きた路地へ突っ込んだ。その途中、ツクシは禿頭の中年男を突き飛ばした。吹っ飛んだ禿男は近くにいた老婆と派手にぶつかって両方とも派手な悲鳴を上げた。広場にいるひとの混乱をツクシは意図的に煽り立てている。

 お前ら、逃げるのにちょっと利用させてもらうぜ。

 悪く思ってくれるなよ。

 こっちも必死でな――。

 ツクシが倒れたひとに目を向けた瞬間である。

「シュ、パン、シュ、パン――!」

 後ろでカンシャク玉を破裂させたような音が鳴って、近くにいた金髪の若い男の頭が爆ぜて崩れ落ちた。倒れた男の頭に空いた穴から脳漿がどろりと流れている。金髪男の虚ろになってゆく表情を、ツクシは横目で見やった。

 あの兵隊さんたち、このひと混みのなかで銃をぶっ放しやがった。

 どうにも、正気の沙汰じゃねェ――。

 ツクシは走りながら顔を強張らせた。

 若い女が倒れた男の傍らに膝をついて、「ルーベウス、ルーベウス!」と、悲鳴を上げた。すぐその嗚咽は絶叫へ変わる。若い女が発した絶叫が引き金となって混乱が広場全体へ拡散し、そこにいたひとは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 また発砲音が鳴った。

 怒号、悲鳴、発砲音。発砲音、悲鳴、発砲音。悲鳴、発砲音、悲鳴、悲鳴、悲鳴――。

 兵士の銃撃で上空を旋回する黒い鳥の餌が増えてゆく。縛り首の木の広場が、硝煙と血煙でけぶっていった。天幕街の路地へ疾風のように駆け戻ったツクシは、天幕の街の貧しきひとびとを突き飛ばし、道端で何かを煮炊きしていた中年女が使っていた鍋を足で蹴り上げ、道を塞いで戯れている子供たちを怒鳴り声で追い散らし、目の前を横切るリヤカーに足をかけて跳躍する。その走りっぷりは雷光を伴う嵐のごとしだ。大声で喚きながら兵士たちがツクシを追ってくる。しかし、銃声は聞こえない。走りながら前装式の銃を装填することは難しい。

 ツクシは走った。走り続ける必要がある。捕まれば間違いなく殺される。広場の大木に吊るされていた十二の死体。殺される前から生きる気力をなくしていた囚人たち。頭の半分を吹き飛ばされた若者の表情。ついさっき見た場面が、ツクシの脳裏に次々と浮かぶ。この国の司法制度は日本のそれより合理的な態度と行動を貫いているようだ。

 罪を犯した者は殺せ。

 邪魔をする者は殺せ。

 疑わしき者も殺せ、だな――。

 ツクシは声を出さずに笑いながら、入り組んだ路地を右に左に折れて走った。土地鑑のないツクシは選択する道を直感に頼っている。それでも、ツクシを追う兵士の声は遠くなった。軽装のツクシと比べると身軽さの点で兵士は分が悪い。この迷路のような路地裏を走り続けていれば追手を振り切れる。ツクシが整理されていた北東に広がる区画ではなく、今まで歩いてきた天幕の街の方面へ逃げ込んだのは、この計算からだ。しかし、ツクシの頭のなかに天幕の街の地図があったわけではない。

 ツクシは走る足を止めて、いつも不機嫌な顔をさらに歪めた。

 目の前に赤い天幕があった。先に続く道が途切れている。ツクシが選んだ道は行き止まりだ。

 すぐに引き返して別の道を――。

 肩で息をしながら振り返ったツクシの視線の先に若い兵士がいる。彼は腰を落として斧槍を構えていた。

「もう追いつかれたか――そんなナリでも、若い奴は結構、走れるよな」

 ツクシは斧槍の穂先を自分へ向け、距離を詰めてくる兵士を睨みながら歯ぎしりをした。

「エダ、エストゥール、エダ、エストゥール!」

 斧槍の兵士が叫んだ。声音から察すると仲間を呼んでいるような感じだ。ツクシに天幕の街の土地鑑はない。だが、兵士たちにはあった。追っ手の兵士は分散してツクシを追っていたのだろう。兵士の集団はツクシを計画的に追い詰めたのである。

 そこは、やっぱり軍隊だよなあ――。

 ツクシは妙な感心をしている。

 いやいや、感心している場合じゃあねェ、俺の命が危ういぜ――。

 思い直したツクシは口角を歪めた。

 この際だ、兵士をぶちのめすか?

 ツクシはそう考えている。しかし、ツクシが持っているのは生活用品が入った布袋だけである。長柄の刃物を持った相手に布袋を振り回して戦うのは、明らかに分が悪い。ツクシは、兵士が持っている斧槍で、串刺しにされるだろう。

 それでもツクシは腰を落として戦う姿勢を見せた。

顔を強張らせた若い兵士が斧槍の柄を握り直した、その瞬間である。

 赤い天幕の中から、

「ホゥモ、ウトゥルム、プロフィガチム?」

 しわがれた声がツクシを呼んだ。ツクシは背中越しに視線を送った。赤い天幕の出入り口に垂れ下がった幕には、「6」の字を左右反転させたような黒い紋章がついていた。その幕の脇が少しだけ開いている。幕と幕の隙間から見える暗闇にひとつ、黄緑色の眼が光っていた。蛇のように瞳孔が縦へ裂けた瞳だ。

 俺を助けてくれるなら悪魔でも構わん。

 入った先で俺はそいつに殺されるかも知れんがな。

 だがな、心臓が止まるまでは悪足掻きしてやるぜ――。

 前から斧槍の穂先が迫ってくるのを見て、覚悟を決めたツクシは赤い垂れ幕を跳ね上げて転がり込んだ。兵士が何か怒鳴った。怒鳴り声だけだ。兵士は赤い天幕の中まで追ってこない。

 

 赤い天幕の照明は天井から吊られたランプ一つだけだった。絨毯は様々な色の糸を使って縫い上げられ、緻密な文様を表している豪華なものだ。その絨毯の上に、五人のひとが居住まいを正した感じで座り、転がり込んできたツクシを眺めて――おそらくは、ツクシに視線を送っている。絨毯の上で座っている彼ら彼女らはローブのフードで顔の上半分を隠しているので、視線の行き先がはっきりわからない。この五人に加えて、もう一人いる。四つん這いの体勢になったツクシの眼前に佇む老人である。これが先ほど窮地にいたツクシへ声をかけた老人らしい。極端に背が小さい。身長は百三十センチあるかないか。この小柄な老人もフードのついたローブですっぽり身体を覆っている。ツクシは這ったまま老人の顔を凝視していた。

 縦に裂けた瞳孔がある黄緑の瞳、

 避けた口から上下に突き出している四本の鋭い牙、

 不自然に先が尖った鷲鼻、

 紫色に近い肌の色――。

 この爺さん、本当に悪魔なのかも知れんぞ?

 怪訝な顔のツクシに、小さな悪魔老人は笑顔を見せた。その悪魔的な笑顔を見て、やっぱりこれ人間じゃねェだろ、ツクシは確信する。

「ヘクミォール、ノーネ、パァティネンスエド、ローグ・ユニオニム。ウート、ウート、クォポス、セス、サスゥム、セス、サスゥム――」

 悪魔老人が呟くようにいうと、絨毯に座っていた五人のうちの一人――唯一の女性が「くっくっ――」と、肩を震わせて笑った。この悪魔老人の様子と女の反応から推察すると彼ら彼女らは何かの勘違いをして、ツクシをここへ招き入れたようであった。もっとも、ツクシには悪魔老人の言葉が理解できないので、何を勘違いをしていたのかまではわからない。

 ま、このまま、命を救われた俺が黙っているわけにもいかないよな――。

 言葉が通じないのを承知でツクシは口を開いた。

「あんたたちに迷惑をかけるつもりはねェ。追ってくる奴らから逃げたいだけなんだ。天幕の表では奴らが張っている。出入口は他にあるのか?」

 悪魔老人は考え込むような素振りを見せたあと、顎をしゃくって、ツクシが飛び込んできたのとは別の出入り口を示した。なんのことはない。天幕は裏も正面と同じ構造になっていて出入りができる。

「インターネ、ノーネ、ローグ・ユニオニム。クォード、ラガァジ。ホゥモ、デ、ワコク? ボゥナム、アルケッド――ゴ。デヴィルス、オキュラス、フジテェーヴェ。ゴ、ゴ――」

 悪魔老人は天幕の出入り口を指差した。この悪魔老人は袋小路にあったツクシに脱出口を与える判断を下したようだ。気まぐれか、それとも、何か他に考えがあってのことなのか。悪魔老人の表情からツクシは何も読み取れなかった。

「――ともあれ、ありがたい。恩に着るぜ爺さん」

 そう言い残して、ツクシは赤い天幕の裏口から表へ出た。周囲を見回しても兵士の姿はなかったが、赤い天幕の向こう側から、いい争っているような大声が聞こえる。どうも、ツクシを追っていた兵士は、その赤い天幕へ踏み込むことをまだ躊躇している様子だ。

「俺にも運が残ってるみてェだな――」

 ツクシは口角を歪めた。一応のところ、笑い顔に見えるような表情を作ったツクシは天幕の街をまた走った。走り出してすぐ、ツクシの息が上がった。息を乱しても走り続ける。兵士の声は、ツクシから遠ざかり、やがて、聞こえなくなった。あの赤い天幕が、ツクシの防波堤になったようだ。どうして兵士は赤い天幕に踏み込むことを躊躇ったのか。赤い天幕にいた連中は何者だったのか。考えるのも億劫になるほどの疲労がツクシの肺へ、心臓へ、足腰へ、負荷をかけてゆく。

 これでも、休みの日には、頻繁に走り込んでいたんだがな。

 まあ、これは年齢とし所為せいだろうな。

 まったく、たまらねェぜ――。

 ツクシは自身の老い始めた体を嘲笑う。嘲笑いながら、ツクシは天幕の街を北へ向かって走り続けた。今は薄暗かった天幕街を陽の光が照らしている。ツクシが視線を上げると雲の間から太陽が半分だけ顔を覗かせていた。ツクシは腕時計へ視線を送った。時刻は午後二時三十分。この世界に迷い込んで七時間以上、ツクシは彷徨い移動を続けていた。

 だがな、追手から逃げ切ったところでだ。

 それから、俺は何をどうすればいいんだ?

 ツクシの走る速度が遅くなった。




※異世界語の翻訳※


原文「イゥモ、クゥフォモ、ヴェニ!」

訳文「そこの貴様、こっちへ来い!」


原文「エダ、エストゥール、エダ、エストゥール!」

訳文「逃亡者を発見、逃亡者を発見!」


原文「ホゥモ、ウトゥルム、プロフィガチム?」

訳文「そこの男、警備兵に追われておるのか?」


原文「ヘクミォール、ノーネ、ホモ、パァティネンスエド、ナインネイム、ローグ・ユニオニム。ウート、ウート、クォポス、セス、サスゥム、セス、サスゥム――」

訳文「なんと、この男は本当に『名もなき盗賊ギルド』の構成員ではないのか。これは、これは、年を取って、儂も呆けた、呆けた――」


原文「インターネ、ノーネ、ローグ・ユニオニム。クォード、ラガァジ。ホゥモ、デ、ワコク? ボゥナム、アルケッド――ゴ。デヴィルス、オキュラス、フジテェーヴェ。ゴ、ゴ――」

訳文「もう一度訊くがの。本当にお前は盗賊ギルドの構成員でないのか。その言葉は、倭国の出身じゃと? まあ、どうでもよいか――ゆけ、邪悪な瞳を持つものよ。逃げるがいい――」

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