二節 祭られたもの

 北か、南か、東か、西か――。

 俺が今進んでいるのはどの方角だ?

 ツクシは歩きながら空を見上げた。空は灰色の雲で隠されていたが、光の加減でどこに太陽があるかはわかる。ツクシの背後に太陽があった。ツクシは天幕の街を北東の方角へ向かって進んでいる。

 この危険な天幕の街から、なんとかして抜け出す必要がある――。

 ツクシはそう考えている。ツクシは布袋片手の作業服姿だ。天幕の街に同じような格好の人間は一人もいない。天幕の街で暮らしているひとびとはボロきれを身にまとい、肌は垢じみて、その身体は痩せ細り、不満と飢えで目をギラつかせている。その彼らの誰とも繋がりがないことを、ツクシは服飾で広告をしながら歩いている形になる。悪い意味で目立つ。実際、天幕の街の住民はツクシを食い物を見るような顔つきで眺めていた。

 行くアテもなく歩くにしても足の向く先を定める必要があるよな――。

 ツクシは北東へ向かって進むことに決めた。この方角に意味はない。進行方向をひとつに搾り危険地帯から抜けることが目的になる。ツクシは路地を滑るように進んでいった。そこは曲がりくねって、やはり頻繁に分枝している。進めど進めど、ツクシの目に映る風景は変わらない。行き先はないが急いで歩くツクシの頬を生ぬるい風が撫でている。気温は日本とさほど変わらない。

 五月の下旬――初夏の気温である。

「ここは一体どこだ?」

 ツクシは歩を進めながら呟いた。

 昨日の晩、酒が過ぎた所為だ。

 寝ゲロを喉に詰まらせて俺は死んだのか?

 ツクシは皮肉の形に唇を歪めた。

 俺は寝ゲロで窒息死、無事に地獄へ行きついた。

 死者であることを自覚していない男が主人公の映画を観たことがある。

 その男と今の俺は同じなのか――。

 そこまで考えてツクシは首を捻った。

 地獄にしては天幕の街は生活感がありすぎる。

 ここにいる奴らは、どうも、この俺が気に食わないようだが、鬼や悪魔のようには見えない。

 少なくとも、ここにいる奴らは人間だ。

 この場所が――天幕街が現実の世界だとしたら、どうだろうか。

 何らかのアクシデントが起こって、俺がここに迷いこんでしまった、ということはは考えられないことではない。

 神隠しだとか、SF映画的な瞬間移動だ。

 過去には何千人という人間の集団が、忽然と姿を消したケースもあるらしい。

 俺が自衛隊にいた頃、オカルトに凝っていた同僚がいて、そんなトンチキな話をよく聞かされた。

 隊の寮は男所帯で、そこにいる全員が暇と若さを持て余していたから、そいつのくだらない話も、みんな面白そうに聞いていた憶えがある。

 しかし、いくら何でも馬鹿らしい話だよなあ――。

 ツクシは口角をぐにゃりと歪めた。路地の先でたむろしながらツクシを眺めていた若者の集団が「うっ」と表情を変えた。その笑みは一瞬、人間以外の何ものかに見えた。若者の集団は左右に分かれツクシへ道を譲った。道を譲ってくれた若者たちへ視線も送らずに、ツクシは考えを整理し始めた。

 とにかく、俺は従業員出入り口から天幕街へ迷い込んだ。

 どうして、どうやって、ここに迷い込んだのかはわからない。

 考えてもわかるわけがない。

 考えても無駄だ。

 俺は天幕の街に迷い込んだとき振り返った。

 そこにあった筈の営業所のガラス扉は消えていた。

 現時点では天幕の街からナユタ運輸東海営業所へ戻る道はない。

 どうも、俺は外国に迷い込んだらしい。

 外国、か――。

 ツクシは顔を歪めた。天幕の街にいる人間はツクシに理解できない外国語で喋っている。日本語は通じない。ツクシは布袋から携帯電話を取り出した。案の定、電波は通じていない。舌打ちをしたツクシは布袋へ携帯電話を戻した。

 ともあれだぜ。

 俺は天幕街から日本へすぐに戻る必要があるしその意思もある。

 俺の軽自動車は先月納車されたばかりだ。

 まだローンが三年と半年分も残っている。

 俺には借金があるわけだ。

 このまま無断欠勤で会社をクビになったら、どうやって借金を返せばいい――。

「――クソッたれが!」

 ツクシが吼えた。気の短い男なのである。すると、脇にあった天幕の家の玄関口――垂れ幕を割って、そこから男が顔を見せた。大柄で黒い顔に黒い髭面の中年男だった。その下から顔を出した少年もツクシをじっと見つめている。ツクシは自分の怒鳴り声で驚かせてしまったらしい彼らへ軽く頭を下げたあと歩き出した。黒い顔の中年男と黒い顔の美少年もぎこちなく頭を下げて返した。

 ツクシは歩きながら考え続けた。

 ここが外国だとすると、日本の大使館があってもおかしくはない。

 日本の大使館が存在しなくても、この貧民街から離れれば俺の言葉――日本語が通じる人間に会える可能性もある。

 自信はまったくないが、この際、カタコトの英語でもいい。

 天幕街にいる連中は、どう見ても最低の――それ以下の貧乏な暮らしをしている。

 ここをうろついている子供ガキどもは学校へ通っている気配が微塵もねェ。

 ここの奴らより身なりのいい連中なら、それなりの学もあるだろうし、日本語も通じるかも知れん。

 言葉が通じる人間がいる場所まで俺は移動する必要がある――。

 ツクシが考えることをやめて歩き続けていると、先から群集のざわめきに混じる音楽と歌声が聞こえてきた。進む先に変化がある。音楽と歌声を追ってツクシは進む。メロディがはっきり聞こえるようになったところで、両脇を天幕で遮られていたツクシの視界が開けた。そこは円形の広場だった。

 小学校の運動場、その半分ていどの広さか――。

 足を止めたツクシは広場へ視線を巡らせた。どうやら、この円形の広場を中心に天幕の街は広がっているようだ。ツクシが歩いてきた道の方面――ここから南西の方面は、これまでツクシが目にしてきた粗末な天幕が並んでいた。東北の方面は石造りの家が並んでいる。建物のたいていは二階建てだ。広場から東北へ続く道沿いは、少なくとも天幕街よりも文明的な街並みになっているようだった。

 北か東の方向、その方向へ移動すれば、あの危険な天幕の街からは遠ざかるが――。

 ツクシは口角を皮肉な形に歪めた。石作りの建物が並んでいる区域に移動したところで、身の安全が保障されるわけでもない。

 まあ、これを考えるのは後回し――。

 思い直したツクシは広場へ視線を戻した。天幕街の路地と違って、ツクシがいる円形の広場には意識的にひとが集まっているようだ。広場には群集だけではなく屋台の露店もあった。その近くで白黒の道化帽子をかぶった女の大道芸人が短剣を使ったジャグリングをしている。宙に放った短剣をヒョイと受け止めるたび、その周辺にできたひとだかりから歓声が上がっていた。肉や魚が焼ける匂いに、酒の香り――ウィスキーか何かの香りが交じっている。

「まあ、クソやしょんべんの臭いより遥かにマシだよな――」

 深呼吸したツクシは音楽が鳴っているほうへ目を向けた。広場の北側である。そこにいたのは全員が子供ほどの背丈ほどしかない一団だった。楽団なのだろう。六人ほどの小男が歌ったり踊ったりしている。楽団の構成は、ヴァイオリンとチェロのような弦楽器、リコーダーのような管楽器、それにタンバリンを持ったクァルテットに加えて二名の歌い手、兼、踊り子だ。演目は何らかの歌劇らしい。演奏も歌も上手いのだが、しかし、演奏をしている連中の外見が、ツクシの目に珍妙だった。緑のトンガリ帽子に緑のチェニック、黒いタイツを履いて、足元は脱げ損なった靴下のようなぶかぶかの茶色いブーツ姿だ。

 ツクシは首を捻った。どこがどうといえない。その緑の小男たちは人間と違う種族のような気がする。怪訝な顔のツクシは緑の小男と周辺にいるひとびとを見比べた。演劇を鑑賞しながら騒いでいるひとは、手にもった革袋から何かを盛んに飲んでいる。緑の小男楽団の近くにの屋台に樽が並んでいた。そこで樽のような体形の黒髭を生やした屋台の店主が客を呼び込んでいる。その黒髭の店主の近くで黒ぶちの眼鏡をかけた男が訪れる客に樽から飲み物を量り売りしていた。広場にいるひとは天幕の街の住人が大半のように見えるが、それぞれ、この場の雰囲気を楽しんでいる様子で、ツクシに注目する人間はほとんどいない。

 屋台の親父の体形も、どこか違和感がある感じだけどな――。

 ツクシは布袋から水筒を取り出して注ぎ口から直接、なかの麦茶を飲んだ。顔を上向けたツクシの視界に、広場中央にある大きなならの木が飛び込んでくる。その木の下に広場のひとは密集していた。興味を覚えてツクシも木の下へ歩いていった。木の幹から何かぶら下がっている。人間のような何かだ。人間だった何かだった。

 木の幹から人間の死体が縄で吊るされている。

「いやいや、趣味の悪い作り物だろ――?」

 足を止めたツクシの鼻先が動く。肉が腐る臭い。ツクシの考えを死臭が否定した。

 首吊りの木の近くには木柵で作られた簡易牢があって、それを兵士が監視していた。兵士は鍔のついた鉄カブトに上半身だけ金属製の鎧を着込み、黒いズボンを履いて、足元は茶色いブーツの姿だ。半分の兵士は斧槍を持ち、残りの半分は銃を持っている。前装式で点火機構はフリントロック(火打ち石)式の長銃だ。ツクシの目から見れば骨董品のようなシロモノになる。

 簡易牢のなかに何人かの男がいる。牢を取り巻いて騒いでいる人間――天幕の街の住人よりも、牢に閉じ込められた男たちの外見はさらに汚い。立っている気力もないようだ。まともに食事も与えられていないのだろう。

 ツクシはもう一度、吊るされた死体の列を見つめた。首に縄を結わえられた死体は数えると十二個ある。広場の大木から吊るされた死体に集って、それをついばんでいた黒い鳥が、ツクシを見て「ギャギャ!」と嘲笑った。ツクシはここで何が行われているか、何が行われようとしているのか理解した。そして、ツクシは自分を注目している視線があるのに気づく。

 どうも、ここにとどまっているのは、ヤバイみたいだぜ――。

 ツクシの呻き声は掠れて音にならない。

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