278:空と海の狭間で(2)

「ゲ、ゲルダさん、ちょっと、此処って…」


 強引にゲルダに連れ出され、ほとんど荷物のように馬で運ばれた美香は、行先に思い当たった途端、思わず声を上げた。


 そこは、ヴェルツブルグ北部にある、旧王城跡。昨年の攻撃で廃墟と化し、今は更地になっている。


 ゲルダは美香の声に構わず、無遠慮に旧王城跡へと足を踏み入れた。ゲルダは馬を引きながら空いた手でランタンを掲げ、月の光を浴びて白く浮かび上がる闇の中を聴覚と嗅覚で補完しながら、しかし大した警戒も抱かずに、奥へと進んで行く。すでに夜も更けて多くの人々が寝静まっていたが、夜空には大きな満月が浮かび上がり、満天の星々と共に辺りを皓皓こうこうと照らしていた。


 更地は草葉に覆われ、ゲルダと馬は膝下まで緑に埋もれながら突き進んでいたが、やがて美香は、緑の中に点々と浮かび上がり、緑を塗り潰す勢いで数を増やしていく新たないろどりを目にして、感嘆の声を上げる。


「わぁ…綺麗…」


 それは、コスモスの群生だった。若い緑の海面から沢山の鮮やかな桃色の花が顔を出し、波間に漂うように風に吹かれ、揺らいでいる。ゲルダは緑と桃色の斑模様の海の中を掻き分けるように直進し、コスモスの花が次々と踏み倒されるのを見て、美香は慌てて呼び止めた。


「ゲルダさん、花を踏み潰しちゃっている!」

「いや、避けるの無理だって」


 ゲルダの答えを受け周囲を見渡すと、辺り一面、緑と桃色の海に覆われている。この中で花を避けるのは、新雪の上を足跡を残さずに歩けと言っている様なものだ。美香は諦めて、踏み倒されるコスモスに心の中で謝りながら、暗闇と月の光とコスモスが織りなす色彩のハーモニーを楽しんだ。




「…着いたぜ、ミカ。さ、此処で一杯やろうか」


 やがてゲルダは馬を止め、美香に馬を降りるように促すが、美香は丘の上に佇む慰霊碑を目にして困惑の表情を浮かべた。


「…ゲルダさん、お墓の前で酒盛りとかして、いいの?」

「あん?戦友達と酒を飲み交わすなんて、いつもやっている事じゃないか。ミカの所は、違うのか?」

「そう言われると、そっか…」


 馬から酒瓶やつまみを下ろしているゲルダの言葉を聞いて、美香は得心する。思えば自分達も墓前にお酒を供えていたし、沖縄には墓前で酒盛りをする風習があると聞いている。自分に馴染みがないだけで、故人を偲ぶ心があれば、失礼な事はない。美香はそう結論付けると、器に酒を注ぎ、幾ばくかのつまみを皿に盛った。


「ゲルダさん、ちょっと慰霊碑にお供えして来るね」

「ああ?…ああ、わかった。足元に気を付けてな」


 美香の言葉に首を傾げたゲルダだったが、同じ結論に至ったのだろう、やがて頷いて荷下ろしを再開し、美香は皿と器を手にして足元に注意を払いながら、慰霊碑の階段を登って行った。




 暫くして慰霊碑へのお参りを済ませた美香が戻って来ると、二人はコスモスの海に直に腰を下ろす。二人の前には荷を納めていた木箱が置かれ、その上に干し肉やチーズ、木の実などの数々のつまみが雑多に積み上げられていた。


 ゲルダは蒸留酒を器になみなみと注ぐと、美香に押し付ける。その勢いに美香が目を白黒させながら器を受け取ると、ゲルダは自分の器にもなみなみと注ぎ、その器を空中に掲げた。


「とりあえず、飲もうや。お疲れ」

「あ、はい。お疲れ様です」


 ゲルダの勢いに流されるまま美香は器を傾け、蒸留酒を口に含む。美香にはお酒を嗜む習慣がなかったが、酒そのものに抵抗はない。ただ、最近は魔族宣告の件が心に突き刺さり、とてもじゃないが酒に手を出す気にならなかった。


 蒸留酒は口の中で独特の酒精を撒き散らし、通り過ぎた喉と胃の中を灼いていく。美香は器に口をつけたまま上目遣いで様子を窺うも、ゲルダは我関せず、黙々と器を傾けている。美香も掛ける言葉が見つからず、自然、杯を重ねる事になった。


 やがて喉と胃を灼いていた熱が胸中へと広がり、心のわだかまりが膨張して収まりがつかなくなる。美香は延々と続く沈黙に耐え切れなくなり、ポツリと呟いた。


「…ゲルダさん、私、どうしたらいいんだろう…」




「…」


 美香の呟きを聞いたゲルダは、口を付けていた器を木箱に置き、黙ったまま美香の顔を見つめている。ゲルダの視線の先で、美香は木箱を見つめ、呟きを続ける。


「…私、これまで、自分なりにこの世界の事を想って、やれることをやってきたつもりでした。自分の素質で何ができるのか、この世界に居場所を与えてくれた人達に何をしてあげられるか、自分は何のためにこの世界に召喚されたのか。そういう事を考えて、みんなの役に立てるよう、みんなが喜んでくれるだろうと、頑張って来たつもりでした」

「…でも、私のせいで、リヒャルト殿下は無念の死を遂げられてしまった。あの方は王太子であるにも関わらず、身寄りのない私にあれほどまで心を砕いて下さった。国を想い中原の未来を憂い、勇敢にも自ら兵を率い、戦場に立つ事を厭わない方だった。そして戦いに敗れ虜囚の身になっても、祖国から遠く離れた大草原で成果を求め、尽力されていた」

「…だけど、その殿下の帰るべき場所を、私が奪ってしまった。…ううん、居場所どころか、それまで殿下を慕い、従っていたはずの人々さえも奪い、やっとの事で戻って来た殿下の想いは踏みにじられ、北伐で肩を並べていたはずのお父さんの手によって、命まで奪われてしまった。…お父さんだって斬りたくなかったはずなのに…私のせいで、お父さんは殿下を斬らなければならなかった…」

「…」


 沈黙を続けるゲルダの前で、美香の独語が続く。酒精を取り込んで膨張した想いが体を突き破り、肌の上に後悔となって滲み出る。


「…しかも、私はリヒャルト殿下をそんな目に遭わせたのにも関わらず、目を背け、罪から逃げるようにオズワルドさん達と…あ、あんな事をして…誤魔化してしまった。戦場で誰も彼もが辛い思いをしているはずなのに、よりにもよって私は…罰と称して快楽に逃げたんだ…。カラディナやセント=ヌーヴェルの人が私の事を悪魔だ、変態だって言うのも、当然だよ…」


 ゲルダの目の前で、美香が目を見開き、膝を抱えたまま震え出す。


「…わ、私は、『全人族の母』なんだ…中原に住む全ての人族の『母』なんだ…カラディナに住む人も、セント=ヌーヴェルの人も、…リヒャルト殿下だって、同じ私の『子供達』なんだ…『母親』なら、みんな平等に扱わなきゃ、駄目なんだ…」

「…」


 目を見開き、木箱を凝視するその瞳から大粒の涙が溢れ、頬を伝う。




 全人族の母。


 自分が産んだ覚えはないけれど、かつてこの地球に暮らしていた「私」から生まれた子供達。


 ――― ならば、母親として子供達と真摯に向き合い、受け入れなければならない。




「…ミカ」


 止めどもなく溢れる涙をそのままに木箱を見つめていた美香の名を呼ぶ声が聞こえ、ゲルダが逞しい腕を伸ばしてくる。その、頭上に覆い被さるように伸びてきた掌を見た美香は、その影に縋るように頭を出し、目を閉じる。


 そして…、




「…ギャンっ!?」


 激しい痛みと共に暗黒の視野に火花が散り、美香は思わず頭を抱え、蹲った。




「…いったーいっ!な、何をするのよっ、ゲルダさん!?」


 地面にしゃがみ込んで悶絶していた美香が頭を上げ、二種類の涙を流しながらゲルダに詰め寄る。ゲルダは涙目で睨み付ける美香を放置して酒杯を取り、遅れたペースを取り戻す勢いで呷りながら、呆れた声を上げた。


「…ったく、何をウジウジしているのかと思えば、そんな事考えていたのかい?馬っ鹿だなぁ」

「ば、馬鹿って…」




「――― 誰もアンタに期待なんか、しちゃいねぇよ」




「…え?」


 思いもよらぬ言葉に美香は驚き、目を瞬かせる。ゲルダは木箱の上に置かれた、木の実を盛った器に手を突っ込みながら、口を開く。


「ミカ、手ぇ出しな」

「え?…こう?」


 ゲルダに言われるがままに、美香は右掌を上にして木箱の上へと差し出す。するとゲルダは木の実を鷲掴んだ手を美香の右手の上に翳し、そのまま指を開いた。無数の木の実が土砂降りのように美香の掌に降り注ぎ、指の間をすり抜けて木箱に転がる。


「あ、ちょ、ちょっと待ってよ、ゲルダさん!」


 慌てて美香は左手を差し出し、受け止めようとするも、時すでに遅し。ほとんどの木の実が木箱の上に散らばり、美香の掌には数えるほどしか残されていなかった。掌の惨状を呆然と眺める美香の耳に、ゲルダの声が響き渡る。




「ほら見ろ。いくらアンタが頑張ったって、このアタシから満足に物を受け取ることさえ、できやしない。アンタができる事なんて、その程度なんだ」




「ゲルダさん…」


 両手をかざしたまま顔を上げた美香の前で、ゲルダが再び手を伸ばし、掌に残る木の実を摘まみながら、杯を傾ける。


「…ミカ、今こうしている間にも、セント=ヌーヴェルで強盗に襲われ、殺されそうになっている人が居るかも知れない。…それは、アンタのせいか?」

「…ううん、私のせいじゃない」


 かぶりを振る美香の前でゲルダは口を開き、木の実を放り込みながら質問する。


「…今こうやってつまみを頬張っている間にも、カラディナで不治の病に侵され、死を迎えようとしている人が居るだろう。…それは、アンタの仕業か?」

「ううん、私のせいじゃない」

「ほれ見た事か」


 続けざまに否定する美香を見て、ゲルダは豪快に鼻で息を吐き、自分の器に酒を注ぎながら、文句を垂れる。


「いくら『全人族の母』と言われたって、できる事なんてタカが知れている。アンタは、自分が思っている以上に、何もできやしないんだ。そんなアンタが、カラディナだぁセント=ヌーヴェルだぁなんて事で気に病むだなんて、自惚れもいいトコ。『んなコト知るか』と逆ギレして、クソして寝りゃぁ、いいんだ」

「ゲルダさん…」

「いいか、ミカ。もう一度言うぞ」


 呆然とする美香の前に、ゲルダが顔を突き出し、酒精混じりの息を吐きつける。




「――― アンタは、一人じゃ何もできない」




「…」


 ゲルダの言葉が美香の心を鷲掴み、鬱積した感情が押し出されて双眸から液体となって溢れ出る。


「アンタは、誰かの助けを借りなければ、何もできない。誰かの背中に隠れていなければ、何一つできないんだ。…そんな何もできないアンタ一人に責任を取らせようとする連中が、馬鹿なんだよ。そんな無茶を言う馬鹿どもには、アタシの背中に隠れながらで良いから、遠慮なく馬鹿と言ってやれ」




 …気づけば、色々なものが積み上がっていた。


 ロザリアの御使い。全人族の母。聖王国の頂点に立つ者に対する、国民からの期待。再建途中のオストラで多くの罪人達から追及された責任と、リヒャルトから糾弾された亡国を招いた張本人という罪。そして、今や西方諸国から諸悪の権化として、この世界で培った4年間の人生と存在自体を、全て否定されようとしている。


 その全てが彼女の上に圧し掛かり、重圧となって彼女の精神を圧迫した。四方を塞がれた彼女の心は逃げ場を失い、分厚い岩盤の下で悲鳴を上げながら、少しずつ少しずつ薄く引き伸ばされ、轢き潰されていた。




 その岩盤を、ゲルダがその剛腕で薙ぎ払った。


 如何にもゲルダらしい、後先を考えない強引な引き剥がしの前に岩盤は捲れ上がり、そこかしこに歪な大穴が開く。そしてそこから間欠泉のように美香の鬱積した感情が噴き上がり、美香の大きく見開かれた目から、涙が滝の様に流れ出した。美香は涙で滲む視界にゲルダの姿を捉え、唇を震わせながら微笑む。


「…ゲル、ダさん…ぐす…以前、何処かで、『私にしかできない事がある』って、言ってませんでしたか?」

「ああ?そんな事、言ったっけか?気のせいだろ?」

「言ってましたよっ!もう!」


 とぼけながら酒を呷るゲルダに、美香は泣き笑いを浮かべながら拳を上げ、ゲルダへと振り下ろす。その拳をゲルダは難なく掴み取ると、そのまま美香の体を自らの許に引き寄せた。美香は、オズワルドともレティシアとも異なる胸の感触に安らぎを覚えながら、目を閉じる。


「…ゲルダさん、ありがとう…」

「礼なんていらないよ。一発らせてくれれば」

「駄目」

「この満天の星空の下で」

「人の話を聞け、変態!」


 酒精と共に吐き出されるセクハラ発言に、美香は笑いながらゲルダに拳を叩きつける。そして急速に押し寄せる睡魔に身を委ねながら、小さく呟いた。


「…でも…寝ている間になら…」

「アンタの方がよっぽど変態じゃないかい」


 そのまま静かに寝息を立て始めた美香に手を出す事なく、ゲルダは満天の星空とコスモスの海の狭間で、一人黙々と酒を飲み続けていた。

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