279:愛の果て
「ミカ!?あなた、大丈夫!?」
「レティシア、抱っこぉ…」
オズワルドと二人でまんじりともせずに待ち続けていたレティシアは、扉を開ける音が聞こえた途端にソファから飛び起き、入口へと駆け寄る。ゲルダに支えられてフラフラと部屋に入って来た美香は、レティシアの姿を認めると緩んだ笑みを浮かべ、両手を前に差し出し枝垂れかかった。自然、抱き留める形となったレティシアは、美香の体に纏わりつく空気に、思わず顔を
「うわっ、お酒臭い!あなた、ちょっと飲み過ぎよ!?」
「ねぇ、レティシアぁ…」
レティシアの苦言にも構わず、美香はレティシアの肩に頭を乗せ、目を瞑って酔いを味わっている様な表情で呟いた。
「…私さぁ、一人じゃ何もできないんだぁ…」
「…え?」
言葉の意図が分からず、不安気な表情を浮かべるレティシアの肩口で、美香は気持ちよさそうに頭を振りながら、呟きを続ける。
「ゲルダさんが言ってた…私は一人じゃ、何一つ満足にできないんだって…だから、みんなに好きなだけ甘えて良いんだってぇ…ねぇ、レティシア、撫で撫でして…」
「え?ええ…」
レティシアは言われるがままに美香の頭を撫でながら、困惑の表情をゲルダへと向ける。レティシアの視線を受けたゲルダは、赤みが射した顔に呆れた表情を浮かべ、口を開く。
「この馬鹿、一人でいらんモン抱え込みすぎんだよ。だから、余計なモノは全て放り投げろと、言っただけだ」
「馬鹿じゃないもーん!」
ゲルダの言葉を聞き、美香がゲルダに背中を向けたまま否定する。やがて美香はレティシアから離れると、オズワルドの前へと歩み寄り、両手を上げて万歳した。
「オズワルドさぁん、脱ーがーせーてぇ」
「ミ、ミカ?」
「早くー」
当惑するオズワルドの目の前で美香が両手を掲げ、子供のようにジャンプを繰り返し、促している。レティシアは、オズワルドが諦めて胸元のボタンに手を伸ばし、服を脱がし始める様子を眺めた後、ゲルダへと向き直った。
「ゲルダ、あの
「掲げる看板が多すぎんだよ。ロザリアの御使い、全人族の母、聖母。そのどれか一つでも十分にデカいっつーのに、全部一人で抱えて、しかもその看板に惹かれて寄って来る人々の期待に馬鹿正直に応えようと、一人で思い悩んでいる。身の程知らずだってーの。だから、知らん人間の期待なんて捨てちまえと言ったんだ」
「そう…」
「以前から一人で解決しようとする癖があったからな、反動で甘えん坊になるかも知れんが、ちょうどいいだろ」
「…まさか、あなたに負けるとは思わなかったわ。頭に来るわね」
ゲルダの言葉にレティシアは頷くと、唇を尖らせる。ゲルダはレティシアのむくれ顔に肉食めいた笑みを返すと、レティシアの背後へと視線を転じた。レティシアも釣られて後ろを向くと、服を脱ぎ、下着姿となった美香がちょうどオズワルドの首に腕を回し、抱きつこうとしているところだった。
「ねぇ、オズワルドさぁん…」
オズワルドの耳元で、美香が酒精と色香に塗れた甘い声で囁く。
「…満天の星空の下ですると、凄く気持ち良いんだってぇ」
「ゲルダ!お前、一体ミカに何を吹き込んだんだ!?」
「酔っ払いの戯言をいちいち真に受けるんじゃないよ、まったく」
***
「…あぁ、やってしまった…」
窓辺から日の光が射し込み、小鳥の囀り声が心地良い風に乗せて耳元をくすぐる中、美香は一糸まとわぬ姿でこめかみに手を当て、後悔する。一晩明けて目を覚ますと、美香は柔らかい布団の上ではなく、男の堅い筋肉の上に馬乗りになっていた。美香が体を起こすと、押し潰され、悪夢にうなされるオズワルドの苦悶の表情が、視界に飛び込んでくる。
「あ、お早う、ミカ。気分はどう?」
「サイッテー。何で私、こんな格好で安眠できるのよ?」
うら若き乙女として、どうなのよ?
一足早く目を覚まし、ティーポットにお湯を注いでいたレティシアの挨拶に答えながら、美香は自問する。ライツハウゼンの時もそうだったが、どうも自分はお酒に呑まれるタイプらしい。幸い、酔い潰れるなんて年に一度あるかないかくらいだけど、一介の市民ならともかく、『聖母』となった今となっては、酔っ払いの一言がどんな災いを招くかわからない。美香は気を引き締め、景気づけに両の頬を手で叩くと顔を上げ、オズワルドに跨ったまま、窓の外で燦然と輝く太陽の眩しさに目を細めた。
昨日まで鬱積していた心が、軽くなっていた。重責に押し潰されていた思考の歯車が、重しが取り除かれた事で軽快に回り出し、前向きな考え方ができるようになった事が感じられる。
捨ててしまったものに対する、後ろ髪を引かれる思いも、確かに残っている。だけど、全てを抱えて動けなくなるより、自分の出来る範囲だけでも着実に前に進めた方がずっと良い。それに、自分は一人じゃない。レティシアやオズワルドさん、お父さんやお母さんが助けてくれる。
…ありがとう、ゲルダさん。
「ミカ、紅茶が入ったわよ。そろそろ起きて」
「あ、うん、ありがとう」
眩しい太陽の光にゲルダの姿を重ね、美香は心の中で感謝を述べる。そしてレティシアの声に答えながら、窓の外に広がる美しい庭園を眺め、疑問を口にした。
「…ところで、何でこの窓、全開になっているわけ?」
「あなたが頑なに開けておけって、言い張ったからじゃない。昨日、私、声我慢するの、大変だったんだからね?」
「ちょっと!?何で酔っ払いの戯言、真に受けちゃうのよっ!?」
すでに手遅れだった。
***
その日の夕方。
裏庭へと顔を出したカルラは、そこに彼女を呼び出した人物の姿を認め、声を掛けた。
「…ゲルダ様、何か御用でしょうか?」
「ああ」
ゲルダは背を向け庭に生える木々を眺めていたが、カルラが呼び掛けると振り返る。カルラは、ゲルダの顔に何の感情も浮かべていない事に気づき、思わず息を呑んだ。
「…あ、あの、ゲルダ様?」
ゲルダはカルラの問いに答えず、無表情のままカルラに向かって一歩を踏み出す。そのゲルダの足元から見えない腕が伸び、カルラの足を掴んで離さない。カルラの両足はゲルダの見えない手によって地面に縫い付けられ、彼女はその場から一歩も動けなくなる。彼女はまるで蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、自身が何故動けなくなったかわからぬまま、静かに近づくゲルダに問いた。
「…ゲ、ゲルダ様。私、何か粗相をいたしましたか?」
「カルラ」
ゲルダはカルラの動揺を意に介さず、目の前に立ちはだかると初めて感情を表した。ゲルダの瞳から放たれた冷たい視線がカルラの瞳を通って体内へと入り込むと、視線に乗って送り込まれた言葉が心臓を鷲掴む。
「…お前、何を隠している?」
「…な、何を隠すって、何も…」
心臓を握りしめられ息苦しさを覚えながら、カルラは必死にゲルダの拘束から逃れようと抗う。だが、ゲルダの視線の槍はカルラの目を縫い付け、カルラは肉食獣の恐怖から顔を背けることもできず、冷たい汗が流れ出した。ゲルダはカルラの顔を覗き込み、その下に隠れる真相を暴き立てようと、目を剥く。
「お前は、ミカのアレを待ち望んでいた。お前だけは、ミカのアレに歓びを見出していた」
「…かっ…は…」
ゲルダの手がカルラの細い首を掴み、カルラの呼吸が止まる。軛から脱しようと藻掻くカルラに、肉食獣の問い掛けが続く。
「カルラ、お前は何を望んだんだ?お前はアレから、何を得たんだ?」
「…な、何も得るものなどっ!」
餌に相応しいか見定める肉食獣の視線を前にして、カルラは恐怖に身を震わせながら必死に身を捩り、これまで抑えてきた想いを叩きつけた。
「私はあの時、ミカ様を裏切ってしまった!1年前のあの時、私は懲罰軍の追及から逃れようとするミカ様と袂を分かち、ハーデンブルグに残ってしまった!私にはもう、ミカ様と幸せを分かち合う資格などないのです!」
意図的に力を緩めたのであろう、ゲルダの軛から脱したカルラは、沈黙を続ける肉食獣を睨み付け、涙ながらに訴える。
「――― であれば、私はせめてあの方と苦しみを分かち合い、痛みを共有したい!あの方と共に己を傷つけ、あの方と同じ贖罪を身に刻みたいのです!ゲルダ様、私にはもう、その資格さえも無くなってしまったというのですかっ!?」
「…はぁ…はぁ…」
目の前に立ちはだかり、今にも牙を剥こうとする肉食獣を前にして、何の力も持たないカルラが目に涙を浮かべながら必死に抵抗している。やがてゲルダが周囲に放っていた殺気を抑え、彼女は視線を外して頭を掻いた。
「…チッ。尻尾を出さないか…」
ゲルダはボヤキを入れると頭を掻いていた手を下ろし、青い顔で睨みつけるカルラに不愛想な目を向ける。
「…何を考えているか分からないが、敵対するつもりがないのだけは分かった。アイツはアンタの事を慕っているし、アイツを泣かしたくないからな。今日は勘弁してやるよ。…だが、もしアンタがアイツに危害を加えているとわかったら、アイツが何と言おうと殺すから。肝に銘じておきな」
「…だ、誰がミカ様を裏切るだなんて、するものですか…」
カルラは肉食獣の咢から逃れ、深呼吸を繰り返して欠乏した酸素を取り込みながら、館へと戻るゲルダの背中に向かって答える。
「…だって、私はあの方を、こんなにも愛しているのですから…」
そう呟いたカルラは唇に指を当て、自らの想いに耽るかのように、恍惚とした表情を浮かべていた。
***
ソファに腰を下ろし落ち着かなげに貧乏揺すりを繰り返していた美香は、カルラが部屋に入って来ると、立ち上がって駆け寄った。
「カルラさん、貧血だって?もう動いても大丈夫なんですか?」
「ええ、少しお休みをいただきましたから。ご心配をおかけいたしました」
不安そうな表情を浮かべる美香の前でカルラはにこやかに微笑み、それを見た美香が安堵の息をつく。すると、カルラは一転してしかめ面を浮かべ、美香を窘めた。
「それよりミカ様、アデーレ様にご挨拶を済ませましたか?アデーレ様の方が、ずっと顔色が悪かったのですから」
「う…さっき、ごめんなさいって謝って来た。喜んでくれて、その後久しぶりに食事を一緒に摂ったよ」
「それは、良うございました」
バツの悪そうな顔で報告する美香の後ろで、レティシアがソファに腰を下ろし紅茶を口にしながら、茶々を入れる。
「ミカ、明日からはお詫びの行脚ね。皆、心配してたんだから」
「もう!わかってるってば!」
振り返って後背に一喝した後、美香は再びカルラの顔を見て頭を下げる。
「カルラさん、ご心配をおかけしました。特にカルラさんには、色々嫌な事をお願いしちゃって…でも、もうあんな落ち込み方をする事はないから、安心して下さい。もう大丈夫です!」
「ええ、ミカ様。でも、辛い事があったら、何でも相談して下さいね?私はいつでも、ミカ様の味方です」
「はい、これからもよろしくお願いしますね、カルラさん!」
以前と変わらぬ美香の明るい笑顔を見て、カルラが嬉しそうに頷きを返す。
そしてカルラは胸に大事に抱えていた純白のネグリジェを美香に差し出し、期待に満ちた笑みを浮かべた。
「――― さぁ、ミカ様、お着替えをなさって下さい。御召し物を洗濯いたしますからね」
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