277:空と海の狭間で(1)

「なあ、レティシア様。アイツ、まだウジウジしているのかい?」


 美香をオズワルドに託してトイレに行った帰り、レティシアは気を落ち着かせるために食堂に寄り道したところで、そう尋ねられた。


 レティシアが声のした方に顔を向けると、ゲルダが食卓に陣取り、遅めの昼食を頬張っていた。レティシアはゲルダの向かいに座り、力なく頷く。


「ええ、変わらないわ。どんな些細な事でも自分のせいだと言って、罰を求めてくる。あの様子が続く限り、とてもじゃないけど、公務に復帰させられないわ。…あ、カルラ。悪いけど、紅茶を淹れてくれる?」

「畏まりました、レティシア様」

「…ったく…しょうがねぇなぁ…」


 ゲルダは、紅茶を頼むレティシアを眺めつつ両腕を組み、顎を動かしながら渋面を作る。レティシアは紅茶を待つ間、目の前に座る大柄な虎獣人に、縋るような目を向けた。




 ゲルダは、この世界で美香にセクハラをする唯一の人物で、その行動は美香が即位した後も改まっていない。流石に公式の場や他人の目を気にすべき場所でする事はないが、レティシアやオズワルド等、親しい人の前では隙を見て遠慮なく美香に手を伸ばし、その都度掌を叩き落されていた。


 だが、彼女は彼女なりに一線を引いているようで、セクハラこそ治まる事はないが、逆に言えばセクハラ以上の事は一切しようとしなかった。美香がレティシア、オズワルドの二人と一線を越えた後は、彼女は以前ほど美香の傍に寄り付かなくなり、美香、レティシア、オズワルドの三人を、女性騎士達とともに外側から守るようになった。自然、女性騎士達の取り纏め役となり、その更に外郭とも言える「近衛騎士団」を取り纏めるヘルムートとの連絡役を担うようになった。


 彼女なりの取り計らいであろう、この問題についてはレティシア達に任せ、敢えて踏み込んで来ないゲルダに感謝しつつも、行き詰まっていたレティシアは言外に助言を求める。だがレティシアのささやかな期待に反し、ゲルダはやがて渋面を浮かべたままスプーンを取り、食事を再開する。その姿を見たレティシアは落胆し、俯いてテーブルの模様を眺めていると、視界の脇から琥珀色の液体を湛えたカップが滑り込んできた。


「…カルラ…」

「レティシア様、紅茶を飲んで、気を落ち着かせて下さい」


 立ち昇る湯気を追うようにレティシアが顔を上げると、カルラをレティシアの目を見て、笑みを浮かべていた。気に病むレティシアを安心させるためだろうか、その笑顔は晴れやかで、まるで望みが叶ったような喜びに溢れている。


「レティシア様の気が沈んだままですと、またミカ様がご自身のせいだと、自らをさいなんでしまいます。ミカ様の前では、もっと明るく振る舞って下さい」

「…そ、そうね、カルラ。ごめんなさいね…」


 カルラの指摘にレティシアは頭を下げ、慌ててカップに口をつける。口の中に爽やかな紅茶の香りが広がり、幾分落ち着きを取り戻したレティシアだったが、依然、気は晴れない。使命感に駆られるように紅茶を口に含むレティシアに、カルラが労りの声を掛けた。


「そんなに焦っては逆効果です、レティシア様。気分転換に、少しオズワルド様と二人で散策でもなされたら如何ですか?後ほどミカ様に紅茶をお持ちしますので、その時に交代いたしましょう」

「…そうさせてもらうわ。カルラ、ミカの事をお願いね?」

「はい、お任せ下さい」


 カルラの言葉を聞いたレティシアは感謝の笑みを浮かべ、やがて席を立って部屋へと戻って行く。その後ろ姿を眺めていたゲルダは、姿が見えなくなるとカルラへと目を向け、問い質した。


「…おい、カルラ。アイツら、本当に大丈夫なのか?」


 ゲルダに問い質されたカルラは、残されたティーカップを片付けながら答える。


「正直、予断を許しません。魔族宣告が出る前に比べ、ミカ様の症状は悪化しています。ですが私は、ミカ様ならきっとこの苦しみを乗り越えられると信じています。ミカ様は『全人族の母』という立場に相応しく、全ての出来事を自分の罪と受け止め、自らを責め続けています。私は、そんなミカ様の懺悔を受け止め、あの方と痛みを分かち合い、いつまでもお傍に居て、あの方を支えていくつもりです」

「…」


 ゲルダの視線の先で、カルラが笑みを浮かべている。その、崇拝する主君とともに歩む苦難の道のりを待ち侘びるかのような笑顔を見て、ゲルダは怪訝な表情を浮かべていた。




 ***


「なあ、アデーレ様。アレ、本気でヤバくないか?」


 思い悩むあまり決裁のサインを書くペンの動きが滞り、執務席で彫像と化していたアデーレを呼ぶ声が聞こえ、彼女は我に返って顔を上げる。アデーレの視線の先には、前触れもなく訪れたゲルダが、部屋の中へと足を踏み入れていた。


 アデーレは、ゲルダの親指が指し示す方向で「アレ」の意味を悟り、化粧で誤魔化せなくなった顔色を更に曇らせる。彼女はペンを机に置くと、両手の指を額からこめかみにかけて当て、その上に頭を載せるように俯いて、答えた。


「…ええ、最悪よ。レティシア達が四六時中張り付いているけど、現状を維持するのもままならない。以前より頻繁に、過敏になってきているわ」

「ああ、さっきもレティシア様達が気晴らしに部屋を離れた隙に発作が起こって、カルラが対処したってよ」

「…あぁ…また…」


 ゲルダの報告を聞き、アデーレは机に肘をつき、顔を手で覆う。ゲルダはアデーレの頭頂部を仏頂面で眺めながら、尋ねた。


「アデーレ様、この先どう対処すべきか、策はあるのかい?」

「…」


 ゲルダの質問に、アデーレは顔を手で覆ったまま、首を振る。そのままアデーレは目を閉じ、視界と思考を暗闇に漂わせていたが、そのアデーレの耳に、大きな溜息の音が聞こえてきた。


「…しょうがねぇなぁ。アデーレ様、ちょっと、アイツの事、借りるわ」

「…え?」


 アデーレが顔を上げると、ゲルダが背を向け、部屋を出て行こうとしていた。アデーレは慌てて席を立ち、机に両手をついて身を乗り出す。


「ゲ、ゲルダ!?ミカさんをどうするつもり!?」

「どうもしないよ。ただ、飲みに連れて行くだけだ」


 アデーレの言葉に、ゲルダは背を向けたまま逞しい右手を振り、そのまま扉の向こうへと消えて行った。




 ***


「ミカ、ちょっとサシで飲みに行くぞ」

「…え、ゲルダさん?」


 部屋に入って来たゲルダに開口一番そう言われ、美香は思わず目を瞬かせる。片時も離れまいと、身を寄せ合うように隣に座っていたレティシアが慌てて腰を浮かせ、ゲルダを押し留めようとした。


「ちょ、ちょっと待ってよ、ゲルダ。今ミカを外に出したら…」

「何しみったれた事を言っているんだよ、レティシア様。こんなジメジメした所にずっと閉じ籠っていたら、気が滅入っちまうだろうが。なあ、ミカ?」

「え?えと…」


 いつになく強引なゲルダの物言いに、美香は適当な返答が思いつかず、言い淀む。すると、ゲルダは美香の腰に腕を回し、剛腕に物を言わせて小脇に抱え上げた。まるで力士が米俵を抱えるような姿を見て、レティシアが狼狽する。


「ちょっと、ゲルダ!お願い、止めて!」

「待つんだ、レティシア」

「オズワルド!?」


 レティシアはゲルダから美香を取り返そうとするが、オズワルドがレティシアの肩を掴み、引き留める。オズワルドは驚いた顔を向けるレティシアをそのままに、ゲルダの背中に問い掛けた。


「…ゲルダ、何か考えがあるのか?」

「あるわけないだろ。だから、酒を飲みに行くだけだっつーの」

「…わかった。ミカを頼む」

「フン…」


 しおらしく頭を下げるオズワルドを横目に見て、ゲルダは鼻息を荒げると、美香を小脇に抱えたまま部屋を出て行ってしまう。行く手を阻むように閉ざされた扉を眺めるオズワルドに、レティシアが擦り寄り、不安げな表情で尋ねた。


「…行かせて、良かったの?」

「正直、分からない。だが、このまま毎日を過ごしていても、事態は悪化する一方だ。なら、アイツの気まぐれの方が、何かのきっかけになるかも知れない」

「オズワルド…」


 険しい表情を浮かべ、オズワルドが扉を見つめている。やがてレティシアがその胸元に顔を埋め、オズワルドはブロンドの髪を撫でながら、二人の前に立ちはだかる扉を見つめ続けていた。

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