276:毒

「馬鹿っ!」


 金切り声とともに振り下ろされた掌が頬を捉え、鋭い痛みと共にカルラの視界が揺れ動く。彼女が疼痛から発熱へと移り変わる頬を手で押さえ、動いてしまった視界を元に戻すと、レティシアが腕を振り切ったまま、目に涙を浮かべ、彼女を睨みつけていた。レティシアの珊瑚色の唇が戦慄き、叱責の言葉がカルラへと放たれる。


「何で!?何で、ありのままに話してしまったのよ!?彼女にそのまま伝えたら、ショックを受けるだなんて、分かり切った事じゃない!何でよ、カルラ!?」

「申し訳ございません、レティシア様。あまりの事に私も動転してしまい…」


 神妙な面持ちで謝罪するカルラをレティシアは睨み続けていたが、やがて双眸から溢れ出た涙が頬を伝わり出すと、両の拳と共に頭をカルラに預け、泣き出してしまう。


「…お願い…もう、これ以上、彼女を苦しめないで…。何で、あのばっかり、責められなければならないの?ハヌマーンが攻めてきた時もそう。ロザリア様の神託の時もそう!何もかもが、この世界に生まれ責任を持つべきはずの私達の前を素通りして、彼女ばかり責め立てる。…せっかく落ち着いて来たのに…やっと、赦しを請わなくなったのに…また、元に戻ってしまった。…もう勘弁してよ…あの娘を、解放してあげてよ…」

「落ち着いて下さい、レティシア様」


 カルラは自分の胸に顔を埋め泣き続けるレティシアの頭に手を回し、ブロンドの髪を優しく擦る。


「ミカ様は、独りではありません。私達が居ます。フリッツ様やアデーレ様が居ます。コルネリウス様やヴィルヘルム様、テオドール様も居ます。そしてこの国の全ての人々がミカ様のために立ち、ミカ様のために戦ってくれます。大丈夫です。今回もきっと、ミカ様は救われます」

「…ぅ…うぅ…」


 カルラはレティシアの頭を優しく撫でながら、微笑む。


「…今はまず、ミカ様の心を癒す事が先決です。レティシア様、これからはミカ様をお一人になさらないで下さい。どうしてもミカ様の許を離れなければならない時には、私がレティシア様の代わりを務めます。ですから、僅かな時間であっても、遠慮なく私をお呼び下さい」

「お願いよ、カルラ…本当に、お願いね…」

「はい、お任せ下さい」


 レティシアはカルラの胸に顔を埋めたまま、降り注ぐ言葉に頷きを繰り返す。




 レティシアの頭を抱えながら、カルラが笑みを浮かべている。その唇は期待と愉悦に浸され、妖しく輝いていた。




 ***


 ガリエルの第5月20日。


 ヴェルツブルグ南部にある新庁舎の一室で、四人の男女が顔を突き合わせていた。皆一様に厳しい表情を浮かべる中、肥満体の男が口を開く。


「フリッツ殿、それで、国内の状況はどうなっておられる?」


 テオドールの問いに、フリッツが眉間に皴を寄せて答える。


「ヴィルヘルム殿と教会の面々が国中を奔走してくれているおかげで、動揺は見られない。北部は何があろうとも盤石だし、ヴェルツブルグ近郊も同様だ。何より西方教会の宣言が民衆の怒りを買ったせいで、士気に限れば最高と言って差し支えない。皮肉な事にな」


 フリッツが口を閉ざすと、オストラから帰還したコルネリウスが後を引き継いだ。


「軍部についても、突貫で整備を進めている。とりあえず投入できる兵力は、ヴェルツブルグに居る23,000と、オストラに駐屯するホルスト軍7,000の、計30,000。この他に、各領主に『発注』した新兵が逐次ヴェルツブルグに到着しており、ユリウスとライオネルの二人に鍛えさせている。最悪、新兵も投入すれば、35,000は動かせそうだ」

「東滅軍の様子は?」

「現状はわからんが、先月の時点ではまだ国境沿いに兵の集結は見られなかった。ホルストからの緊急報も、今のところ届いていない」


 コルネリウスの説明を聞いて、フリッツとテオドールの二人が安堵の息をつく。ここまでの経過を見る限り、今のところ状況は予想の最善を維持できている。これなら、望み得る最高の水準で迎え撃つ事ができよう。


 後は、―――




 コルネリウスの視線が動き、思い詰めた表情を浮かべる女性に向かって尋ねる。


「アデーレ殿、ミカの容体は?」


 コルネリウスに問われたアデーレは、化粧で誤魔化せないほど青白い顔で答える。最初の報告を受けた時、アデーレはにわかには立ち直れないほどのショックを受けたが、その後美香を襲った悲劇を聞いた途端、気力だけで立ち上がり、今に至っている。その反動で、憔悴の色が濃い。


「…依然、芳しくありません。今も自責の念に苛まされており、繰り返し罰を求めています。レティシア達が始終張り付いていますが、片時も目を離せません」

「…」


 アデーレの報告を聞き、男達は無念の表情を浮かべる。この件に関して、フリッツ達は全くの無力だった。「聖母」に対する耳目の問題もあり、誰かに知恵を借りる事もできない。アデーレとレティシア達の努力に頼る他、なかった。




 ***


「オズワルド、どうしたらいいのっ!?もう、私、わかんないよっ!」

「落ち着いてくれ、レティシア」


 離れの一室で床に座り込み、子供の様に喚くレティシアを、オズワルドが背中に手を回して宥めている。美香を通じて三人で繰り返し肌を重ねた結果、二人は主従の垣根を超え、私的な場所ではオズワルドがレティシアを敬称なしで呼ぶようになっていた。


 レティシアは目に涙を浮かべ、オズワルドの上着を両手で掴んで揺さぶりながら、訴える。


「何度言っても駄目!何を言っても駄目!あなたのせいじゃないって、誰もあなたを責めていないって何度繰り返しても、あのは自分のせいだと言って聞かず、罰を求めて来る。愛しているのに!私はあの娘をこんなに愛しているのに!…何…で…罰しか与えられないの…?もう、やだよぉ…もう、与えたくないよぉ…ぇう…ぅ…」

「レティシア…」


 オズワルドは己の腕の中で身を縮め、ブロンドの髪を震わせて嗚咽を上げる小柄な女性に憐憫を覚え、彼女を力強く抱き締める。レティシアも涙を流しながらオズワルドに身を任せ、二人は暫くの間互いの鼓動を感じ取り、体温を交換し合う。


 やがてオズワルドがレティシアの後頭部に手を伸ばし、ブロンドの髪を指で梳きながら労わった。


「レティシア、君も抱え込み過ぎだ。もっと自分を労わってくれ」

「でも、でも、ミカが…」

「君がそんな思い詰めた顔をしていると、ミカがまた自分のせいだと思ってしまう。彼女を癒すためには、まず私達が健康な心でいなければならないんだ。健康な私達が、彼女のもつれた心の糸を切らずに、辛抱強く解きほぐしていく。そうやって地道な毎日を繰り返して、彼女を癒す他にないと思う。…だから、彼女のためにも、君は気を晴らすべきなんだ」

「…オズワルド…」


 首筋を行き交う固い手の感触を覚えながら、レティシアは目を閉じ、オズワルドの背中に手を回す。


「…ねぇ、もう少しだけ、このままで居てくれる?」

「ああ、勿論」


 オズワルドは腰を下ろし、レティシアを引き寄せながら床の上で胡坐を掻く。レティシアはオズワルドの手に誘われるまま固い膝の上に座り、背中に回した腕に力を籠める。


 そのまま二人は固い床の上で座り込み、暫くの間動きを止めていた。




 ***


 万全とはいかないものの幾分気が和らいだレティシアだったが、戻って部屋の扉に手を架けようとしたところで顔が強張る。壮麗な扉の向こうから、くぐもった二人の声が聞こえてきた。


「ごめんなさい!ごめんなさい!」

「ミカ様!ミカ様!」

「っ!?カルラ!?どうしたの!?レティシアよ!早く此処を開けてっ!」

「カルラ!?扉を開けてくれ!」


 部屋に飛び込もうとしたレティシアとオズワルドだったが、扉には鍵がかかっており、開ける事ができない。はやる心を抑え、人目を気にして焦れたようにノックを繰り返していると、やがて鍵を開ける音が聞こえ、扉が開いてカルラが姿を現した。


「申し訳ありません、レティシア様。他の侍女達に見せるわけには参りませんから」

「いいから!カルラ、早くどいてっ!」


 申し訳なさそうに笑みを浮かべるカルラには脇目も振らず、払いのけるように部屋の中に飛び込んだレティシアは、彼女の姿を認めた途端、口から出掛かった悲鳴を手で押さえる。


「ミカ!」

「ご、ごめんなさ…えぐ…ひぅ…」


 彼女は床に両手をついて四つん這いになり、喘ぐように懺悔を繰り返していた。彼女のスカートは捲れ上がり、純白の下着が露わになっている。そして、下着から顔を覗かせる瑞々しい肌は、痛々しいほど赤く腫れ上がっていた。


 レティシアは彼女の許に駆け寄ると、謝罪の言葉を繰り返す彼女の頭を抱き込み、胸元へと引き寄せる。そして弱り切った体をきつく抱き締め、自分でも理由わけがわからぬまま、彼女を褒め称えた。


「偉いわ、ミカ…よく我慢したね…よく頑張ったね…」

「…ごめんなさい…赦して…」

「ミカ…」


 オズワルドも床に膝をつき、気遣わし気な表情を浮かべる中、レティシアは艶やかな黒髪を梳きながら微笑み、涙を流しながら賞賛の言葉を繰り返す。


 そしてカルラは床に膝をついた主君を見下ろしながら、彼女を繰り返し叩いて熱を持った手を顔に押し当て、掌に貼り付いた微かな匂いでさえも逃すまいと、深呼吸を繰り返していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る