第13章 忘恩の徒

229:葛藤

 ロザリアの第1月25日。エーデルシュタイン北辺の要衝ハーデンブルグは、穏やかな一日を迎えていた。




 美香に対する王太子クリストフの求婚に端を発した緊張は、中央から派遣された懲罰軍を前にして最大の危機を迎えたが、突如乱入してきた柊也が美香を攫った事で、不発に終わった。懲罰軍の司令官が真相を知るべくフリッツに詰め寄ってきたが、フリッツ自身が闖入者に襲われ負傷しており、攫われた女性が美香本人であるとの証言が懲罰軍の中からも出た事で、追及は有耶無耶になった。


 元々懲罰軍は、軍の威容を持ってハーデンブルグに圧力をかけて美香を差し出させる事が目的であり、ハーデンブルグを攻略するつもりがない。仮に攻略しても目的の人物がすでに居らずガリエルを利するだけである以上、それ以上の裁量を委ねられていなかった司令官はハーデンブルグに何ら制裁を科す事なく、軍を纏めヴェルツブルグへと引き返して行った。


 跡に残されたハーデンブルグは、内地への警戒を続けながらも、正していた襟を緩める。フリッツは肩の傷を癒しながら情報収集を続け、硬軟両様の構えを維持していた。




 ***


 部屋の一面に張り巡らされた窓ガラスから射し込む春の光が、繊細な模様を描くカーテンの合間を縫って、絨毯の上に暖かい斑模様を描いている。窓の外に広がる鮮やかな新緑がカーテンの白い生地の隙間を埋め尽くし、木製の造りの良い調度品で統一された落ち着いた部屋の一面を、華やかに彩っていた。


 部屋の扉を開けたカルラは、カーテンの上に描き出された白と緑の絵画に一瞬目を奪われ動きを止めるが、やがて静かに動き出し、部屋の中へと入って来る。彼女は、午前中天日干しした衣類を納めた籠を部屋の中央に置かれたソファに下ろすと、自分も腰を下ろし、一つひとつ取り出して畳み始めた。


「…」


 誰も居ない広い部屋の中で、カルラは一人、黙々と作業を続ける。この部屋の主人がハーデンブルグを去ってから、1週間が経過していた。




 以前、美香が居た時は、この部屋に多くの人々が訪れ、賑わっていた。昨年、ハヌマーンの三度に渡る来襲を美香が己を犠牲にして撃退して以降、この部屋は寝たきりとなった美香を介助するための人で溢れ返った。レティシアとゲルダはほとんどこの部屋に住み込み同然で居座り、カルラとマグダレーナも、寝る時以外は常にこの部屋に張り付いている。その他にも毎日交代で何人もの女性騎士が訪れ、オズワルドとアデーレ、デボラも頻繁に訪れる。結果、この部屋には毎日6~7人の人々が居て、美香の介助をしながら、明るい話題に花を咲かせていた。


 今や、その喧騒は、影も形もない。美香の居なくなったこの部屋には誰も訪れず、朝と夕の2回、当直の女性騎士が顔を出すだけとなった。その誰も居なくなった部屋で、カルラだけが一人残り、いつ戻るかも分からない主人のために部屋を整え、待ち続けていた。


「…」


 膝の上で衣服を畳んでいた手を止め、カルラは顔を上げて部屋の中を見渡した。部屋の中は、外から射し込む春の光に満たされ暖かさに溢れていたが、窓越しに聞こえて来る小鳥の囀りの他には何も聞こえず、静寂に満たされている。カルラは、以前と一変した部屋を見渡しながら、自問自答を繰り返した。




 …私は、ミカ様を裏切ってしまったのでは、ないだろうか?




 1週間前、突如訪れた変化の前で、カルラは美香と離れ離れになった。


 それまでカルラは、クリストフの許に嫁ぐと決めた美香と共にヴェルツブルグへと赴き、美香の傍に居続けるつもりだった。しかしあの日突然柊也が押し寄せ、いきなり選択を迫られたカルラは、自分が足手まといになる事を恐れ、美香と別れて待つ事を選択した。


 だが、その決断は日を追う事に揺らいでいき、カルラは自分の選択を後悔するようになっていく。確かに自分は家事の他に能のない、しがない侍女だ。だが、ミカ様はあの時、本当は自分にも一緒に来て欲しいと願っていたのではないだろうか?その願いに自分は気づかず、ミカ様の期待を裏切って失望させてしまったのでは、ないだろうか?カルラは思い悩み、自責の念を重ねる。




 思い返せば、カルラにとって美香という存在は、これまで仕えてきた主人とは全く異質だった。16歳で登城して以降、彼女は12年に渡って王家に仕えてきたが、彼女の王家に対する忠誠心はごく一般的な臣民、侍女の域を出る事はなかった。彼女は主に当時の王太子リヒャルトと係わりを持っていたが、リヒャルトのカルラに対する接し方は一人の侍女に対するそれと変わらず、カルラもリヒャルトに対し、王族と言う階級意識以外に、特別な想いを抱く事はなかった。


 だが、3年前から仕えるようになった美香に対し、カルラは単なる主人の枠を超える想いを抱くようになった。


 美香はこれまで仕えてきた王族とは異なり、カルラに対して全面的に心を許し、親しみを籠めて接してきた。突然この世界に召喚され、右も左も分からなかった美香に対し、カルラは懇切丁寧にこの世界の事を教え、宮廷作法を知らない美香に助言し、彼女のささやかな望みを叶えるために奔走した。そのカルラの献身ぶりに美香は感謝し、レティシアよりも先に心を開き、カルラの事を侍女ではなく年の離れた姉の様に慕った。


 ハーデンブルグに拠点を移し北伐を経た事で、ある程度地歩を固めた美香は、ディークマイアー家において平穏な毎日を送るようになったが、その中で彼女は朝食と夕食はフリッツやアデーレ達と一緒に摂るものの、昼食はカルラやマグダレーナと摂るようになった。昼食の時間になると美香は自分の部屋にカルラやマグダレーナの分も合わせて食事を取り寄せ、レティシアとともに着座してカルラ達の給仕を待つ。そして、カルラ達が給仕を終え着座してから、初めて食事に取り掛かった。


 美香はレティシアとのお茶会にも似たお喋りに花を咲かせ、この時ばかりはカルラ達も身分の差を考える事なく、他愛のない雑談を楽しむ事ができた。ハヌマーンの攻撃が激化し、美香の介護が繰り返されるにつれ、部屋を訪れる人々が増えてもその傾向は変わらず、美香の部屋で行われる昼食はゲルダや女性騎士達、時にはアデーレやデボラを加えて賑やかさを増していったが、カルラ達はそれでも同じように美香と食卓を並べ、食事と会話を楽しんだ。


 美香がハヌマーンの攻撃を一手に引き受け、生死の境を彷徨うと、カルラは敬愛する主人がこの世から居なくなる事を恐れ、泣き喚いた。そして、美香が意識を回復し、勝利と引き替えに何一つ自分でできない体になると、彼女はカルラに身を委ね、その柔肌をカルラの前に曝け出した。カルラはボロボロになりながらも生きて自分の許に帰って来た主人に心を揺り動かされ、愛玩人形ドールと化した彼女の世話を甲斐甲斐しく行い、心を砕いた。


 こうした事がこの3年の間に幾度も繰り返された結果、いつしかカルラと美香との間には、一介の主従の枠では収まり切らない、密接な関係が出来上がっていた。




 だが、その関係を、カルラが自らの手で断ち切ってしまった。




 1週間前のあの日、カルラは足手まといになる事を理由に、美香の手を振り切って離れ離れとなった。以来、美香の行方は杳として知れず、カルラは温もりの消えた冷たい部屋の中で、独り寂しく主人の帰りを待ち続けている。




 ――― 逢いたい。ミカ様に逢いたい。




 自分と同じく何の力も持たない、足手まといであるはずのレティシア様は、躊躇いもなくミカ様との逃避行に身を投じ、同じく行方不明となってしまった。目の前に横たわる苦難にも恐れず、ミカ様に連れ添う道を選ばれた。その想いはきっとミカ様に受け入れられ、二人の間はより一層親密さを増しているはずだ。


 翻って、私はミカ様に対して何をしたのだろう。私は、身分と力不足を理由に、ミカ様の手を振り払ってしまった。レティシア様は、私と同じ女性であるのにも係わらず、身分も将来も捨ててまでして、ミカ様との道を選んだというのに。私はもう、レティシア様には勝てない。




 ――― 私は、ミカ様の単なる召使い!私はミカ様に対し、その様な気持ちは、これっぽっちも持ち合わせておりません!




 思えば自分は、何度も想いを否定してきた。同性を理由に、身分違いを理由に、年齢差を理由に、レティシア様の想いを理由に、何度も想いを否定してきた。侍女としてあるまじき想い、同性に対して許されない想いだと、否定してきた。


 けれど、否定しても否定しても、この想いは消えず、より一層強くなる。




 ――― いいえ、いいえ!そんな事はありません!私は、ミカ様の事を愛しています!




「――― っ!」


 我に返ったカルラは、思わず手に持った衣服を胸に抱き締め、顔を上げる。カルラは激しく脈打つ鼓動を両腕で抑え、乱れがちな呼吸を必死に整えながら周囲を見渡していくが、部屋の中に人はおらず、彼女の動揺は誰にも気づかれていない。カルラは安堵の息をついて気持ちを切り替え、抱き締めた事で皴が寄ってしまった衣服を整えようと、両手で広げ目の前に掲げた。


「…あ…」


 カルラの目の前には、美しい刺繍があしらわれた、真っ白なレースのネグリジェが広がっていた。




 真っ白な刺繍に目を奪われたカルラの脳裏に、あの時の光景が浮かび上がる。


 あの日、4万にも届くハヌマーンの攻撃を単身で殲滅し、3日間昏睡し続けた彼女の主人が、ただ一度彼女としとねを共にした時に、身に着けていた衣服。彼女が心地良い微睡みに誘われるまま、主人の慎ましやかな起伏に触れた時の衣服。そして、―――




 ――― 私もカルラさんの事、大好きですよ ―――




 突如、カルラはソファから跳ね起き、部屋の入口へと駆け出した。彼女は入口の扉に噛り付くと、慌ただしく音を立てながら鍵をかけ、取っ手を後ろ手に掴んで背中で扉を押さえつける。そして、その体勢で、自分を叱り付けた。


「駄目よ、カルラ!あなた、自分が何をしているか、わかっているの!?止めなさい!」


 カルラは扉に背中を預けたまま動きを止め、絨毯を凝視する。何も動かなくなった部屋の中を、窓越しに小鳥達の囀りが通り抜けていく。




 やがて扉から体を離したカルラは、呆然とした表情を浮かべながらゆっくりとソファへと歩み寄り、ポツリと呟いた。


「…ごめんなさい」


 カルラは、ソファに投げ出されていたネグリジェを手に取り、主人のベッドへと近づく。ベッドはカルラの手によって綺麗に整えられており、鋭敏な彼女の嗅覚をもってしても、主人の痕跡は残されていない。


 カルラはベッドの脇に佇むと、布団を捲りながら主人に詫び続ける。


「…ごめんなさい、ミカ様…ごめんなさい…」


 布団に潜り込んだカルラは、ネグリジェに顔を埋めて大きく吸い込み、主人の痕跡を探し回る。


「…ごめ…っ…ん…!」


 他に誰も居ない部屋の中で、カルラは主人の寝具に包まれながら、止まらなくなってしまった想いに耽っていった。

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