230:悦びに流されるままに

「…カルラさん、大丈夫ですか?」

「…え?」


 埃の舞う部屋の中で掃除をしていたカルラは、背後から声を掛けられ、我に返る。焦点の合った視線の先には、床に向けて翳した右手と、その手の下で渦を巻きながら宙を舞う綿埃が見えた。


 カルラが後ろを振り返ると、この家の主である、くたびれた服を着た痩せぎすの男が、気遣わしげな光を目に湛え彼女を見ている。彼女は背筋を伸ばし、男に尋ね返した。


「私、そんなにおかしかったですか?ニコラウス様」

「ええ。いつものカルラさんであれば、こういった時、もっと棘のある返事をされますから。今日は風当たりが弱くって」

「そうですか…」


 ニコラウスから無遠慮な感想を受け取ったカルラは、しかし反論もせず、ニコラウスから視線を外して曖昧に頷く。それを見たニコラウスは、言葉を続ける。


「…ミカ様の事で、何か悩みがあるのですか?」

「え?」


 再び顔を上げたカルラの前で、ニコラウスが穏やかに微笑んでいる。


「カルラさんが悩むとしたら、それしかありませんから…。よろしければ、お話だけでも伺いましょうか?」

「…」


 ニコラウスの言葉に、カルラは思い詰めた顔で俯く。やがて、彼女は横を向き、塵取りの上で「トルネード」を切って綿埃を振り落とすと、その場に立って下を向いたまま、言葉を絞り出した。


「…私、ミカ様に酷い事をしました…」




「…」


 神妙な表情を浮かべたまま黙っているニコラウスの前で、カルラの独語が続く。


「…私は、あの時、分からなかったのです。この国の何処にも居られなくなったミカ様が、突然現れたシュウヤ様との逃避行を選ばれた時、私もついて行くべきだったのか、そうではなかったのか。…私は家事以外には何の取り柄もない、しがない召使いです。苦難の連続となる二人の逃避行では、きっと足手まといになる。そう思って、私はハーデンブルグに残る事を選んだのです」


 俯いたままのカルラの目鼻立ちの整った顔が歪み、自分の前掛けを掴む両手が震え出す。


「…ですが、今思えば、それは誤りであったという気がしてなりません。私が本当にミカ様を想っているのであれば、何よりもあの方と行動を共にし、苦難を分かち合わなければならなかったのではないかと…。ミカ様も、実は、私にそれを期待していたのではないかと…。そして私は、その期待を裏切ってしまったのではないかと…。レティシア様は私と同じ足手まといでしかないはずなのに、躊躇いもなくミカ様との逃避行を選ばれた。なのに私には、それができなかった…」


 カルラは顔を上げ、淀み、くすぶり、濁っていく心情を打ち明ける。


「ニコラウス様、教えて下さい。…私の選択は、間違っていたのでしょうか?」




「…」


 カルラの汚泥にも似た叫びを浴びたニコラウスは、暫くの間、口を噤んでいた。カルラから救いの目を向けられ、その視線から目を逸らすまいと内心で叱咤しながら、暫くの間、口を噤んでいた。


 やがて彼は躊躇いがちに口を開き、慎重に言葉を選んでいく。


「…カルラさんがどちらを選択するのが正しかったのか、それは私にもわかりません。ですが、一つ確実に言える事は、カルラさんが思い悩んだ末に残留を選んだ事、そしてカルラさんが今もその選択に葛藤している事、それ自体にミカ様はきっと感謝され、カルラさんの選択を支持するに違いありません」

「…ミカ様が?」

「ええ」


 カルラの縋るような視線を受け、ニコラウスが穏やかに微笑む。


「カルラさんがそこまで思い詰めている事、それ自体が、ミカ様に対するカルラさんの心の表れです。ミカ様は聡明な方ですから、きっとその心を知って喜び、感謝してくれます」

「…」

「カルラさん、安心して下さい。きっとミカ様は、あなたの事を受け入れてくれます」

「…はい…」


 ニコラウスの言葉と微笑みを目にしたカルラは、曖昧に頷きを返す。




 ――― いいえ、ニコラウス様。ミカ様は、私の想いを決して受け入れてはくれない。だから私は、今もミカ様に酷い事を続けている。


 カルラの中では、歪んだ感情が燻りながら渦巻いていた。




 ***


 ロザリアの第2月25日。日が暮れる頃にヴェルツブルグから届いた1通の手紙が、ハーデンブルグを震撼させた。




「ハヌマーンの前に、ヴェルツブルグが陥落した、ですと!?」

「ああ」


 ディークマイアー家の応接室において、第2大隊長のイザークがテーブルを叩きつける勢いで身を乗り出す。向かいに腰を下ろしたフリッツが頷き、苦渋の表情を浮かべながら、口を開いた。


「ヴェルツブルグに逗留する、ヴィルヘルム殿からの報告だ。先月の21日に突如5万ものハヌマーンと17頭のロックドラゴンが来襲、内乱で手薄になったヴェルツブルグは蹂躙され、王城は陥落。目下、陛下と王太子殿下は行方不明だそうだ」

「「「…」」」


 フリッツから放たれた衝撃の言葉に、イザーク、ウォルター、サムエルの各大隊長と、今や傭兵団長と化したヘルムートが呆然とする。やがてヘルムートがテーブルに肘をつき、頭を抱え込んで悲嘆に暮れる。


「…何て事だ…エーデルシュタインは、もう終わりだ…」

「…いや」


 絶望するヘルムートの耳に否定の言葉が聞こえ、ヘルムートのみならず、大隊長達が縋るような目をフリッツへと向ける。すでに話を聞いているアデーレ、マティアス、ニコラウスが険しい表情を浮かべる中、フリッツが説明を続けた。


「そのヴェルツブルグに、ミカが居たのだ。彼女が『ロザリアの槍』を駆使してハヌマーンを撃退、今はコルネリウス殿とともに追撃を行っている。ヴェルブルグの北部は焦土と化したが、南部は守られたそうだ」

「ミカ殿が!?一体、どうやって!?」

「ミカ殿は無事ですか!?フリッツ殿!」


 フリッツの説明にヘルムートも他の大隊長達も身を乗り出し、フリッツへと詰め寄る。男達の鬼気迫る表情にもフリッツは動じず、厳しい表情を浮かべたまま答える。


「信じられない事だが、あのシュウヤ殿が乗っていた鉄の馬車が、僅か数日でヴェルツブルグまでミカを運んだとしか考えられない。ミカ自身も、『ロザリアの槍』を連発した事で疲弊はしているが、無事だ。レティシアやオズワルド達も一緒に行動している」

「嗚呼、ミカ殿…あなたは、一体…」

「…奇跡だ」


 説明を聞いたヘルムートが椅子に腰を下ろして胸元で印を切り、イザークが呆然と呟く。ハーデンブルグからヴェルツブルグまでは、通常1ヶ月かかる。1ヶ月前のあの日、略奪劇を目の当たりにしたヘルムート達は、フリッツから真相を聞いた後も釈然としなかったが、あの茶番がこの様な形で奇跡を起こすとは、想像もしなかった。美香達の消息を知って気の緩んだヘルムート達を、フリッツの言葉が締め付ける。


「だが、我が国が滅亡の縁に立たされている事には、些かの変わりもない。ヴィルヘルム殿の要請に応え、当家はすぐに動く。ニコラウス!」

「はっ!」


 フリッツの言葉を受け、たちまち気を引き締めた男達の前で、ニコラウスが頭を下げる。


「ミカの親衛部隊を中核として、ヴェルツブルグへの救護軍を編成しろ。私が直卒する。アデーレ、お前も出立の準備を進めろ」

「はっ!」

「畏まりました、あなた」


 ニコラウスとアデーレが頭を下げる中、フリッツがマティアスと大隊長の面々を見渡す。


「マティアス、イザーク、ウォルター、サムエル!」

「「「はっ!」」」

「お前達に、ハーデンブルグの留守を任せる。ミカの活躍で、ハヌマーンの戦力が激減している。これ以上の攻撃はないとは思うが、抜かるなよ?」

「「「はっ!」」」


 四人の頭が下がるのを見届けたフリッツは、ヘルムートの顔を見て尋ねる。


「ヘルムート殿、貴殿は如何する?」


 フリッツに問われたヘルムートが、間髪入れずに答えた。


「是非我々も、ヴェルツブルグに同行させて下さい!」

「大丈夫か?テオドール殿に相談しなくても」


 ヘルムートの言葉を聞いたフリッツが、懸念を表明する。ヘルムートは、一時的に主従関係が切れているのを良い事に、一刀両断した。


「あの甕は、重過ぎて運べません。放っておいて下さい」




 ***


「カルラ、ミカさんの消息が判明したわ」

「本当ですか!?アデーレ様!」


 夜遅く、アデーレに呼び出されたカルラは、扉を開くや否や飛び込んで来た言葉に、作法を忘れて部屋へと駆け込む。アデーレは、カルラの粗相を気にせず、カルラを安心させるかのように微笑むと、掻い摘んで説明した。


「ミカさんは、ヴェルツブルグに居るわ。ヴェルツブルグはハヌマーンの攻撃を受けて王城が陥落、壊滅するところだったけれど、あのがまたもハヌマーンを撃退したの。あの娘は今、行方不明となった王家に代わり、ほとんど一人でヴェルツブルグを支えているわ」

「ミカ様…」


 美香の活躍に、カルラは王城の陥落さえも耳に入らず、胸が高鳴り、上気していく。カルラの顔に憧憬が広がっていくのを見たアデーレは、不謹慎と思いながらも顔を綻ばせて答えた。


「当家もヴェルツブルグへの救護軍を出す事になったわ。明後日には出立するから。カルラ、今日はもう休みなさい。明日一日で荷物を纏めないと、いけないからね」

「…はい!はい!ありがとうございます、アデーレ様!」


 アデーレの言葉に、カルラは浮ついた表情で、頭を下げる。カルラはそのままアデーレの部屋を飛び出そうとするが、そのカルラをアデーレが呼び止めた。


「あ、カルラ」

「はい?何でしょう、アデーレ様」


 振り返ったカルラの視線の先で、アデーレが椅子から立ち上がる。


「…カルラ。ミカさんの事でそこまで思い詰めてくれて、ありがとう。あの娘の母として、御礼を言わせていただきます。これからも、あの娘の事を、支えてあげて下さい」


 そう答えたアデーレは、カルラに向かって深々と頭を下げた。




「…アデーレ様…」


 カルラは、自分に対して初めて頭を下げるアデーレの姿を、まじまじと眺める。やがて、アデーレが頭を上げると、入れ替わるようにカルラが深々と頭を下げ、アデーレの部屋を出て行った。




 ***


 アデーレの部屋を出たカルラは、館の隅にある自室へと通ずる通路を、足早に歩いて行く。カルラは頬を染め、高鳴る鼓動を手で抑えながら、小さく呟いた。


「…アデーレ様、申し訳ありません。私は、アデーレ様のお礼をいただくに値しない、けがれた女です」


 カルラは自室へと戻ると扉に鍵をかけ、寝室へと足を踏み入れる。彼女は、飾り気のない質素な部屋の中で服を脱ぐとベッドの脇に置かれた木箱を開き、中から一着の衣服を取り出して両手で広げ、目の前に掲げた。


「…」


 カルラは日頃固く噤んでいる口を軽く開き、深呼吸を繰り返しながら、美しい刺繍があしらわれた真っ白なレースのネグリジェを見つめている。ネグリジェは小柄で、女性としては背の高い方に入るカルラにとっては、やや小さすぎた。


 だがカルラは、構わずネグリジェを頭から被り、袖に腕を通した。彼女は、次第に激しさを増す呼吸を必死に整えながら、身に纏ったネグリジェを見下ろす。短すぎる白いレースの襞の向こうから、すらりとした自分の脚が、顔を覗かせている。




 ――― 逢える。もうすぐ、ミカ様に逢える。




 カルラは抑えられなくなった鼓動に流されるがままベッドへと潜り込み、体に纏わりつくネグリジェを両手で撫で回し、指を這わせる。


「…ミカ様…ミカ様…んっ…ん…」


 薄暗い部屋の中で蝋燭の炎が揺らめき、反対側の壁に妖しい蠢きを映し出していた。




 ***


 ロザリアの第2月27日。フリッツ率いる救護軍が、ハーデンブルグを進発する。兵力は第1大隊、美香の親衛部隊が2個大隊、ヘルムート率いるミュンヒハウゼン傭兵団が5個大隊、輜重3個大隊の、計11個大隊、6,600名にも達した。

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