第1章 召喚

1:召喚

 16時45分。4時限目終了の鐘が鳴って15分が経過した頃、古城美香(コジョウ ミカ)は美欧大学の裏門を出た。


 9月下旬としてはやや肌寒さを感じる風を受けながら、足早に坂道を下る。予報通り、夕方から気温が10月下旬並みに下がってきたようだ。


 美欧大学は、開校して7年目の新興私立大学だ。誘致した市の並々ならぬ熱意により、市街地からやや外れた小高い丘にあるキャンパスは、造成地とは思えないほど自然豊かな緑に溢れている。


 正門前にはバスロータリーも整備され、ほとんどの学生は正門前から出る路線バスまたはスクーター等で、自宅への帰路についている。一方で、裏門から出る学生もごく一部だが存在する。裏門から徒歩10分の所にあるバス停から、隣町への便が出ているからである。


 裏門から伸びる、無駄に整備された歩道を、美香は足早に歩く。次の便は16時57分。ギリギリだ。


 歩道を抜け、一般道に入って直ぐのカーブを曲がったところで、踏切の警報音が聞こえてきた。見ると遮断機はすでに降りてしまっている。口の中で舌打ちをしながら、美香は踏切に駆け寄り、目の前で同じように踏切を待つ男に声をかけた。男は知り合いだった。


「先輩」


 振り向いた男は、良く言って大人しい、悪く言えば覇気の乏しい顔立ちをしていた。顔立ちは悪くないんだからもう少し愛想よければいいのに、というのが同好会での評価である。


「古城か。今帰りか」


 笠間木柊也(カサマキ シュウヤ)。美欧大学文学部史学科の3年生。法学部政治学科の美香にとっては、映画鑑賞同好会の2年先輩にあたる。第一印象に違わず、口数は多くない。


「こんにちわ。先輩、次回の上映、何になったか聞いてます?」


 美香は、柊也の質問を無視して尋ね返す。自明だからだ。無視された柊也も気にした様子はない。


「いや、まだだ。前回の作品がキツかったからな。次は気楽なのがいいな」

「ですよねぇー。あれはトラウマになりかねません」


 一体誰なんだ、あんな怖いのチョイスしたの、と美香は内心で悪態をつきながら、遮断機が上がるのを待つ。そういえばこの時間の通過は、特急と各停の連続だった。ヤバい。バス間に合わないかも。焦れるように右足のつま先で地面を突いていると、柊也が声をかけてきた。


「どうした?ずいぶん焦ってるみたいだけど」


 珍しい。この人が話題を振ってくるなんて。まあ、周りに自分達以外誰もいないし、間が気になったのだろう。


「ええ、次のバスが57分なんですよ。ちょっとヤバくって」

「そうか。何処で降りるんだ?」

「『山下口』です」

「ああ、なるほど。57分を逃すと30分は待たないとダメだからな」

「そうなんですよ。先輩は『ストア前』でしたっけ?あっちなら10分しないで次来ますもんね」


 まったく。確かに『ストア前』と比べれば、家賃が5,000円は安くなるから、理解はできるのだけど。焦りが募り、引っ越しの際利便性より家賃を取った父親にまで不満をぶつけていると。


「古城、こっちに寄った方がいい。靴が汚れるぞ」


 そう言って、柊也が美香の右腕を掴んだ。




 ***


「先輩」


 後ろからかけられた声に振り向くと、そこには古城美香がいた。


 活発で小柄な1年生。確か自分との身長差が20cmだったから、152cmか。


 白いシャツに薄いグレーのカーデガンを羽織り、ジーンズを履いてナップザックを背負ったその姿は、飾らない黒のショートヘアと相まって、女性らしさより子供っぽさが出てしまっている。しかし、その眉目は整っており、中性的な美しさを醸し出していた。


 踏切待ちの間、他愛無い会話をする。柊也は自分が口下手である事は自覚しており、会話する相手も多くはないが、その中でも美香は比較的会話しやすい相手だと感じていた。無闇に話題を振ってくることがなく、自然体だからだ。


 身長差によって相手を見下ろす形になった事もあり、会話の間、視界の隅で上下運動を繰り返す美香の右足が気になっていた柊也だが、ふと、美香の足元から黒い染みが滲み出てきた事に気づく。


 何だ?タールか何かが漏れ出てきたのか?


 そう思った柊也は、左手で美香の右腕を掴み、引き寄せようとした。


「古城、こっちに寄った方がいい。靴が汚れるぞ」


 その瞬間、美香が「下に落ちた」。




 ***


 その瞬間、美香は自身に何が起きたか、理解できなかった。


 急に足元の感触が消え、柊也に掴まれた右腕が上に引っ張られた事になっても、何が起きたか理解できなかった。


 右腕に引きずられるように視線を上に向けると、驚きの表情を浮かべる柊也と目があい、その後ろには青空が見える。しかし、その青空の周りには暗黒が広がり、しかも暗黒は青空を刻一刻と侵食し続け、気づけば青空はまるで月のように、遠いものになっていた。


 時間にして1秒から2秒だろうか。美香にとっては走馬灯の様に長い時間に感じられたが、その時になって初めて柊也が上を向き右腕を泳がせ、必死に何かに捕まろうともがく姿を目にする。


 そして、美香の右腕が再度引っ張られた。




 ***


 何だ!?一体何が起きたんだ?何だかわからないが、とりあえず良くやったぞ、俺!


 状況が一切好転していないのにも関わらず、混乱して自画自賛する柊也。


 理解はできる。あり得ないところで後輩が転落したのに、反射的に後輩を繋ぎ留め、しかも落下を食い止めたのだから。


 上を見ると、右手が何かに捕まっている感触はあるが、それが見えない。ただ暗黒の中に、指が切り取られたように浮かび上がる右手が見えるだけだ。そして、その遥か彼方に、淡く光る『青い』月が見えた。


「古城、大丈夫か?怪我はないか?」


 下を向いて美香に声をかけるが、茫然と口を開いたまま見上げる美香の姿を目にし、美香が未だ状況を理解できていない事を悟る。


 幾分落ち着きを取り戻しつつも、同時に四面楚歌の状態を肌で感じ始めた柊也は、それでも打開策を得ようと上を見上げようとした途端。


 今度は上から、強烈な風が襲ってきた。




 二人は鯉のぼりのように、激しい風に揺さぶられる。余りの風の強さで、上を向いて目を開けていられない。それでもこれ以上の事態の悪化を防ぐために、何かを掴んでいる右手に力を入れる。入れたつもりだが、何か自分の体のような感じがしない。何とか上を見上げて右腕を見ると、先ほどは指だけが黒く切り取られていたのに、黒い霧が右手を覆い始め、すでに手首から先が見えず、しかも刻一刻と腕を侵食している。柊也は怖気が走ったが、痛みはない事と、右手が固定されたのか手が離れる恐れが無くなったため、苦渋の二者択一を図り、右手をそのままにしておく。


「古城!何とか上に登れっ!」

「先輩…っ」


 柊也が美香に、焦りの混ざった怒鳴り声をあげる。右手が闇に飲み込まれる前に何とか打開策を図りたい。しかし、美香から応えはない。20歳にも満たない女の子に、木の葉のように体が舞う中で、腕の力だけで人の体をよじ登れというのは流石に無茶な要求だが、言っている方も言われている方も、理不尽さに気付く余裕はない。美香は未だ混乱のさなかだが、それでも柊也の手を離すまいと、両手でしがみつく。


 その美香の様子を見ようと下を向いた柊也は、下から急速にせり上がる真っ白い光に気付く。自分達が光に吸い寄せられているのか、それとも逆なのか。判断のつく間もなく、二人は真っ白い光に飲み込まれる。


 そして、ぶら下がったまま意識を失った。

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