見捨てるということ

 近年、気のせいかもしれないがやけに自殺報道が多い。飛び込み自殺による電車のストップや遅延の情報をなぜかよく目にする。

 そういうネット記事によくつくコメントがある。



●辛いのは分かるが、誰にも迷惑のかからないところで死んでくれ。



 自殺者のせいで、電車が急に止まって、仕事に遅れたりホームで長いこと待たされたり振り替え輸送で面倒にも別の他電車の駅まで歩かされたり。

「勘弁してくれよ」と思うことだろう。なんで自分の通勤路線で死ぬんだよ、自殺ならもっと別の場所でしてくれよ、とか思うのかもしれない。

 厳しいことを言うと、そのように思う人は、魂の旅がさほど進んでいない、愛の感覚の鈍い人だ。もちろん究極視点では命に価値の差はない。ただ物事に判断基準(良い悪い・価値があるとかないとか)が存在するこの世界ではあるように見えるため、その流儀で言えばそうだというに過ぎないが。



●自殺するなら別でやれ、というのはその命を見捨てるのと同じである。



 要は、どうでもいいと思っているのである。

 そのような人は、自殺者が本当にあなたの迷惑にならないようひっそり別の場所で死んだなら、その死はほとんどの人に覚えられず、社会の歪みのゆえにその死が生じたのだとしても、誰も問題意識を持つことができない。

 でも、言い方はおかしいがその人は「鈍いあなたにも分かるように死んでくれた」のだ。何かしら、この社会に歪みがありそれは是正されるべきものなのだ、というメッセージを伝えてくれたのである。

 どうしても死にたくないなら何かしらの手段のあるこの世界で、それでもわざわざ死を選んだのだ。それについて、残された者は考えてもいいと思う。

 それすら考えることを放棄した現代人は、ただ迷惑だからよそで死んでくれ、なんていう言葉が言えるほどにドライな心になってしまっている。もはや、助け合いも思いやりもない世界だ。

 マッチ売りの少女が生きていた時にはマッチも買ってあげず食べ物もあげず家にもとめてやらず、朝になって死体を見つけて「かわいそうに」という言葉が吐ける町の人々と同じだ。



 昭和・平成・令和と時代が流れ、全体の人間関係の傾向にも変化が出てきた。

 親子関係は友達化の傾向にあり、地域社会での関係も狭まり希薄化している。

 隣に住む人のこともよく知らず、調味料を借りたり作りすぎた料理を「どうぞ」とおすそ分けにもっていくようなドラマも少ない。そこに加えて賃金も上がらず非正規化がすすみ、ただでさえ忙しいし自分のことで精一杯。身近でない他人がどんな理由で自殺しようが知ったこっちゃない。そのせいで自分の乗るはずの電車が止まりでもしたら、死を悼むどころか腹が立つ。

 私はいやだ。たとえ結果的に迷惑をかけられても、それでも死を悼むほうを選択する。なぜ? に思いを馳せる。そして同時に、どうしたらその人は死なずに済んだのかの可能性も考える。それが、その後生きる上で役に立ってくる。

 


 だから、迷惑をかけられてよいのだ。それは、まだこの世界に生きる私たちに、死者が宿題をくれたわけだから。何が問題なのか考える機会をくれてもいるのだ。この世界が変わるために。

 それを、よそで死んでくれとは、差し出された救いの手を払いのけているのと同じだ。ただでさえ生きた知恵のないその人は、ひっそりと自殺でもされたらそれこそもっと何も考えないだろう。

 自殺が起きないことが言うまでもなく一番良い。でも、どうしようもなく起きてしまう場合、それは少しでも大勢に知られればいい。それだけ、知った人の心に大なり小なり問題意識が生じる。それを生かしてよりよい未来を作るのが人間なのだ。

 だから、自殺者をただ迷惑としか思わない心は人間であることを捨てているようなものだ。そこまで人々の心に浸透してしまった「自己責任論」とはなんとも怖いものよ、と改めて思った。

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