愛護とは何か

 奈良公園の鹿といえば、国の天然記念物である。

 ただ、メインである公園内の鹿だけでなく、周辺の山間部に生息するものもあり、数のバランスを保つなど諸々の目的で鹿を保護する施設というのがあるらしい。それは「奈良の鹿愛護会」という組織が運営している。

 今朝のニュースで、その施設内の鹿に十分なエサが与えられておらず健康を害している事実が画像と共に公開され、施設所属の獣医師が「動物虐待に当たる」として告発した。実際、その鹿たちは健康な鹿の平均体重を下回り、痩せてあばら骨が浮き出ている様子も見て取れる。

 施設側は「虐待ではない」と反論していて、近く市が実態調査に乗り出すらしい。



 私はアメーバブログをやっているが、他のブログを閲覧しているとたまに動物愛護をテーマに掲げているものに出くわすことがある。全部がそうではないが、動物愛護に熱が入りすぎているものに限って、その虐待に関する画像が生々しく掲載されていたりする。家畜なら、食肉にされていく途中段階の画像とかも出てくる。

 菜食主義者とか、動物愛護の観点から「人間の都合で動物を殺すのはやめよう」みたいなことから、「こういうの見たらいかに人間が残酷か分かるでしょ」と言いたいのだろう。見る者にあえて嫌悪感を抱かせることで「やっぱだめだよな」と思わせることで、結果動物愛護推進につなげようという腹なのだ。



 こういう話を聞くと、愛護って何だろうと考えませんか。

 鯨(クジラ)のこともそうだ。外国のどこぞの団体のせいで捕鯨が制限というかほぼできなくなり、今度は鯨が増えてそれが生態系・食物連鎖に影響する。

 木を見て森を見ない、という言葉があるが、目先の「かわいそう」に躍起になるあまり、それが実はめぐりめぐって「残酷」になることに気付いていないのだろうか。

 愛護が皮肉にも残酷に転じるケースは大きくふたつあると私は考える。



①それほど思い入れのない人間が関わってきはじめる。



 最初は、心ある篤志家数人が、心からの思いで活動する。

 でも、それが共感を呼び人を集めると、いつしかまとめる必要性から組織というものを作る。初期メンバーだけでは手が回らなくなり、人を雇って任せる部分もできる。そうなると、食うために稼ぐ目的が第一の者が混ざり、まさに「愛護というより業務」となる。そうなると思い入れがない分、もらえるお金以上のことはしない。

 それだけでなく、できるだけ楽をしようとするので、簡素化・簡略化に動く。手厚くというより、最低限よそから文句を言われない程度に手を抜き始める。



②動物を守るくせに、同族の人間を守らない。



 これが一番無意味なことである。

 動物愛護目的とはいえ他人に平気で残酷な画像を見せようとしたり、動物に関わるものなら肉であろうが動物の体の何かを原料にした製品を使うな、と不便を強いるのは、人間虐待である。

 愛護の「愛」という字は、特定の何かだけに注がれるべきものではない。もちろんそれが一番大事だろうが、愛と言えるためには「その他のものへも多少は注がれ、全体として平和と調和を希求する」性質のものであるはずだ。

 しかし。どう考えても「その動物を守るためだけで、他はどうなっても関係ない」レベルで盲目的に愛する「愛護」が少なくない。



 鹿の事件にしろ。動物愛護を始めたはいいが、関わる者の間に「本気か生活のためか」で温度差があったり。動物を殺すなというのを言うあまり、生きている人間の文化的な生活と幸せを阻害したり。

 そんなものは「愛」ではない。もしあなたがなんかの「愛護運動」に関わている人だとしたら、あるいは応援している人だとしたら。今一度、どのような形で、どのような意識前提で進めていけばいいのか、考え直していただきたい。

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