枠で考え、個でも考える

 久しぶりに、ネットニュース眺めていたら『ゆたぼん』が出てきた。

 一時期、毎日のように取り上げられていたのが、ここのところ全然名前を聞かなかったので、長年会っていなかった親友にでも会ったかのような感覚だった。(大げさ)長く扱われていなかったのに出てくるということは、それなりに意味ある内容なのかと思いきや、中3になって初登校した、みたいな話だった。おまけ情報として「高校進学は考え中」なのだそう。実に、大した内容ではなかった。



 彼は確か、宿題をやってこなかったことに対して先生に怒られたことがきっかけになって学校へ行かなくなったような話だったと思う。

 そして不登校ユーチューバーになってからは「学校がー」「学校はー」というのが枕詞(まくらことば)みたいな話を連発。聞いていると、学校という存在、その教育システム自体が問題なように聞こえてくる。

 確かに、それは一理はある。時代の流れの中で、変えるべきところはあるし在り方については大いに議論の余地があるだろう。だが一方で、ゆたぼんに関してひとつ思うところがある。



●教師ガチャ、にはずれただけ。それが不登校ユーチューバー「ゆたぼん」を生んだ。もしも対応した教師が違えば、彼は不登校にならなったかもしれない。



 私も子どもの頃は宿題がきらいだった。でも、じゃあやりたくないからこの世に宿題は一切要らないかというと、それは違う。

 聞いた話では、宿題を一切出さないという学校のことが話題としてニュースにはなっていたが、それが成り立つのは「全体が宿題を出すのが当たり前という中で、稀有な例外として」だからである。生徒たちも、宿題がないというだけで学校が褒められないことを分かっている。宿題がないのでやらないで、学力が下がっていれば「当たり前の話」としてニュースにもならない。だから、自分たちの立ち位置を賢く理解していて、宿題がなくても頑張るようになる。

 しかし、学校全体が宿題を出さなくなるとどうなるか。一校だけだから、注目度もプレッシャーとなって生徒は奮起するが、全部の学校がそうなると、奮起材料がない。もう誰も注目などしない。分母が増えると当然、なまけものが出てきて、結局意味がなくなる。



 私は小学生の頃、先生に恵まれた。

 宿題を忘れてしかられたこともある。でも同じ「叱る」という行為でも、その先生の資質により人間力により、生徒側が受ける印象はゼンゼン違う。確か、その先生の言うことには納得していて、反発はしなかった。クラスの一人ひとりの成長を願い、向き合っているということが伝わってきたからである。

 おそらくゆたぼんの先生は、やる気も生徒との向き合いも中途半端で、結果としてゆたぼんにはその先生の叱責が「自分を思ってのこと」と繋がらなかった。だからゆたぼんは腹を立て、学校は間違っているという極論にまで達した。

 ゆたぼんが不登校になったのは、学校自体がもつ問題性ではなく、ただ当たった教師に恵まれなかっただけの話、と言える可能性がある。



 めぐり合わせの問題にすぎないのに、何かもっと大きな枠の問題とすり替えてくだらぬバトルをするのも愚か。また、システム自体の問題なのに、そこから目をそらされて特定の個人が悪い、能力がないというミクロな話でごまかすのも愚か。

 結局、白黒の付けられない話なのだ。学校自体が問題、というだけで終わる話はないし、先生の質だと言い切れる話でもない。もう子どもの人生の場面場面で、関係者が思いと力を合わせるしかなく、ここをこうしたからこう直る、という論理思考で考えてもあまり意味はない。

 ゆたぼんには今一度、「本当に学校自体が問題だから不登校になったのか」を原点に立ち戻って考えてほしい。もしあの時先生が、こちらに相手の愛情が伝わるような注意のされ方をしていたら、自分の非を認め納得して、ユーチューバーになどならず普通の子どもとして生きた人生もあったのではないか、と。



●その都度、大枠で考えることと小さな個々の視点で考える、という両極を自在に行き来できてこそ、思考の達人である。

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