均衡が崩れる時

 岸田首相の近くに爆発物が投げ込まれた事件で、容疑者を殺人未遂その他諸々の容疑で追送検されるというニュースがあった。爆発物を鑑定した結果、殺傷能力が十分にあることが確認されたためだという。

 総理大臣(経験者)が、そう長くない期間に二人も続けて命を狙われた、という事実がたいへん重要である。それが一体何を意味するのか。



「どんな理由があっても殺人(犯罪)はいけない」という考え方がある。いくら襲撃した側に特殊な、汲むべき理由があったとしても、ルールを破ったり他人の命を奪うなどしてはいけない、というもので、至極まっとうなだけに誰も反対できない。

 日本人は海外に比べて浪花節というか、へんな意味で情に厚いので、元気な時は散々批判してもひとたびこういう事件で命を失ったりしたら、非難はなりを潜め「あの人はこんないい人だった」みたいな雰囲気になるという欠点がある。

 死のうが死ぬまいが、生前にやったことの評価は変わらないというのに。かわいそう、という感情のフィルターが故人の記憶をよい思い出に変換してしまう。



 私は思うのだ。日本の政治のトップが襲われて、「そんなことどんな理由があってもダメ」と世論が言っていられるうちが華なのだ、と。

 かつて歴史上、フランス革命というのがあった。いくらお上が汚く、こちらの権利を踏みにじり、圧政を敷いてくるとはいえ、それと戦うということは「相手が間違っているとはいえ命を奪う」という行為なわけだ。それを市民が承知の上で団結したということは、言い換えれば——



●何があっても人の命を奪うのはいけない、という正論すら皆が適用外とした



 そういうことなのである。

 だから、今の日本はまだフランス革命の前・前夜くらいな時期だろう。まだなんとか、国民が「近頃の政治に納得はしないけど、それでも襲うとかダメでしょ」という良識に留まれているからだ。

 日本人は比較的我慢強い民族であるし、多少お殿様がバカでも、忠誠という観点からある程度「何が何でも従う」体質がある。だから政府が多少横暴でも皆今日も明日もこれまで通り暮らしてくれる。多少、人生が詰んで暴れる人が出ても、それは大勢の目には目立たないように鎮火できているため全体は問題意識を持てない。

 ただ、日本人が怒るのが諸外国に比べて遅いとはいえ、無限にではない。全体のある程度のパーセンテージの人々が我慢の限界に達したら、何かが起きる。

 もちろん、警察力や軍事力をもって黙らせることはできる。だが、本当の限界とは「国に雇われている軍人や警察官が、命令とはいえ市民に銃を向け力で制圧することが嫌になり市民側につく」時である。命令に仕方なく従っている立場だが、心はあくまで市民であり、市民の気持ちが分かるからだ。

 仮にそうならなかったら、それはそれで悲惨である。保身ゆえに国家権力を守れば、日本は死屍累々の光景で埋め尽くされる。



 まだ、我慢できているうちに。

 何かできることはないか、考えるべき時である。

 確かに、実際に物事を動かす力のある政治家が考え改善すべきなのは当然だが、じゃあ一般人には何もやることがないのか、すべて権力者や国会議員にお任せ、なのかというとそうでもないだろう。個々人にも、小さいことでもできることはあるだろう。忙しい仕事の余暇にレジャーもいいし趣味に打ち込むのもいい。だが、どこかでそういうことも考えられるような機会もあったほうがいいのではないか。

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