火垂るの墓

『火垂るの墓』は、1988年のジブリによるアニメーション映画で、高畑勲が脚本と監督を務めた。一応ジャンルとしては戦争映画と言える。

 以前は、この時期ともなればこの映画が再放送されていたのに、近年はぱったり途絶えてしまった。やはり「あまりに辛すぎて二度見する勇気がない」「子どもができたらなおのこと見る勇気が出ない」という人は多い。いくら戦争はいけない、ということを再確認するのは必要だとしてもこれは辛すぎる、ということだろう。

 火垂るの墓だけに限ったことではない。終戦のこの時期に組まれる「戦争関連の特別番組」が軒並み視聴率を下げ、それを受けて需要と供給の関係で戦争特番の数まで減っている。

 重くて辛い内容は、茶の間での団らんには選ばれなくなってきたのか。筆者の家では、火垂るの墓のソフトまで買って親戚集まって見て、皆でボロボロ泣くなんてことしてたが、これは異様な風景なのだろうか?



 TV局もTV局である。

 報道もそうだが、TV局などメディアの使命は「伝えるべきことを伝える」ことにあると考える。視聴率取れないからやらない、という姿勢ならば「くだらないし大きな意義はないけど、カネになるから流す」「大事なことだけど、ウケないし見る人も少ないのでスルーする」で、果たしてよいのか。

 昔は今ほど、見て辛いものや悲しいものをそこまで敬遠する雰囲気はなかったような気がする。はだしのゲンだって見ていたし、絵本でも「ひろしまのピカ」というのが小学校の頃教室の後ろの棚の上に置いてあった。



●今の時代、良薬口に苦しというのは流行らないのだろうか。



 もう筆者も歳なのか、そんなボヤキをしてしまう。

 私の書く記事や動画で言う内容も、ある精神段階にいる者には煙たがられる。また嫌悪される。ある匿名掲示板では私のことは「嫌者テラ」と言われ、色々叩かれた。

 ひどいことを言ったりしたりした覚えはないのだが、まぁ理解はできた。興味を持ってスレをエゴサしてみたが、ただ悪口を言うばかりで、私の言うことの何がどうでどうダメなのかをちゃんと言う批判者はゼロに近かった。

 要は、自分都合なのだ。あらゆる主観や自分の弱さを排して私の言葉に向き合えないので、感情的に「うざい」だけなのだ。ちょうど近年、たとえ学びのあるものでも見るのが辛い戦争関連が敬遠されるようになったように。



 昔は、苦い薬も多かった。だが今は効果はそのままで味にも配慮する技術も上がり、ハミガキ粉にしても口に優しい味が付けられる。できる技術があるからとはいえ、何でもかんでも人間の感覚に「やさしい」ものにすげ替えていくことは、本当にいいことなのだろうか。

 それでも私は、外部に向けて自分のメッセージを必死に宣伝したり、読者を増やしたりPVを増やそうとはしない。ただこうして記事を書いて、どこかの誰かがご縁によってたどり着くのを待っている。そうして紡がれた縁でないと意味がないのだ。私はある外部からの効果で一時的に人気者に祭り上げられたが、そうやって現実的な力でできた友人たちがいかに最後には味方にならないかを味わった。

 これからも、口には苦いかもしれない良薬を、ここで提供し続けるつもりである。



 話は変わるがただ残念に思ったのは、火垂るの墓に登場する兄ちゃんの清太に批判的な人がいて、受け付けないという意見があることだ。我慢すれば住むところはあったのにあえて妹を連れて飛び出して、うまくいかなくて妹に死なれて。これ、見方を変えたら自業自得で、清太の自己責任じゃないの? という考え方だ。

 正しいとか間違っているとかじゃなく、私はちょっとその見方は悲しい、と思った。失礼を承知で言うと、清太の立場に立って考えてみようとできない人が「試合放棄」してたどり着く視点だと私は思うからだ。

 あなたはいじめに遭ったことはあるだろうか。そこまで行かずとも、居心地がわるい、誰からも喜ばれない、必要とされない環境に身を置いたことはあるだろうか?

 あなたにしか分からない辛さがあるでしょう。確かに命を奪われるわけではない。でも、気持ちが辛いのが何よりも耐え難い。下手したら、肉体の苦痛よりもです。

 そこを、何も知らない他人が「もっとやりようがあるんじゃない」「そこで頑張ればそんなに大変なことを背負わなくてもよくなるのに」と言ってきたら?



●事情を知らない人は、合理的論理的判断を押し付けてくる。そこには、相手を思いやる気持ちがなく、ただ表面的に「合理的でない」ように見える行動にだけ批判の目が向いている。



 映画の冒頭で、雑踏の中柱にもたれかかって衰弱している清太に、通行人がおにぎりをそっと置いていっている。そのことからも分かるように、食べ物もロクにない当時においても、飢えている者を助けようとする者はいる。ということは「助けてください」と言えば助けてくれる人はどこかにいて、食べ物がないから、誰も助けないから死んだのでない、ということが分かる。

 じゃあ、清太は何で死んだのか? そこから先を考える勇気をあなたが持てば、見える世界がもっと広がるだろう。その視界を持つ人が増えたら、きっと何かしらの革命的ターニングポイントがこの世に訪れるだろう。

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