自分の主観の過度な自信

 北海道苫小牧市の国道を、制限速度を44キロ超える時速94キロで乗用車を運転したとして、男性プロゴルファーの杉山氏が逮捕された。

 道路交通法違反(速度超過)の疑いで逮捕された杉山氏は、制限速度50キロの国道を時速94キロで乗用車を運転した疑いが持たれている。

 当時現場では、スピード違反が疑われる車にレーダーを照射して速度を測定する取り締まりが行われていた。取り調べに対し、杉山氏は「67キロしか出していない、94キロという速度は納得できない」と容疑を否認している。



 筆者は小学生の頃、文化祭でクラス単位での取り組み(発表会のようなもの)において、ある役割を仰せつかった。それを遂行する上で、自分の知っている知識に基づいて良かれと思ってあることをしたのだが、クラスメイトたちから「それは間違っている」と指摘された。しかし私は「自分は絶対正しい」と思ったので、頑としてその助言を受け付けなかった。

 そこに先生まで加わり、実際に「筆者の主張するこのやり方では目標が達成できない」ことが、目を背けたくても分かってきた。それでようやく私は皆に謝罪し考えを改め、自分の押し通そうとしたやり方を引っ込めた。



 人間は自分が見たもの聞いたもの、そしてそれを材料に考えたものがすべてで、それに頼って生きていく以外にない。

 頼りな分、それが人によっては過度な依存になる。きっと杉山氏の中では、自分はちゃんと速度メーターを確認し続けていて、その視認する範囲では時速90キロを越えた記憶がない、という認識なのだろう。人は、自覚上「やましいことは何もない」という後ろ盾を得ると、とたんに強い態度に出れるものだ。

 記事には詳しく描いてないが、普通スピード違反をしただけで逮捕などされない。逮捕されるには、「免許証の不提示」及び「逃走」が考えられる。自分が悪くないなら堂々戦えばよいのだが、一度警察に取り込まれると「絶対にこちらが悪いという結末に持っていかれ、勝ち目はない」という考えがあったからだろう。

 向こうは、先手を打ったからには絶対に負ける気などない。確かに警察などというところは、裁判まで行って負けるかでもしない限り自主的に「こちらが間違っていました」などと言わない。メディアなどで取り上げられうるさくなった場合や、あとあとそのほうが面倒がないと判断した場合に謝罪はあるかもしれない。

 話がそれかかったが、この一件の場合は本当に90キロ以上がでていただろうと観念していただくしかない。ドラレコの映像から、車が出していた速度を解析できるらしいのだが、それを専門的にやる機関に言わせると「納得できない、と言われるケースであってもほぼほぼ100%、取り締まりは正しいというオチになる」のだそうだ。やっぱり、ドライバー側だけが勝手に「納得していない」という話なのだ。




 私たちは時に、自分の考え方や出した結論に絶対の自信をもつ愚を犯す。

 それは時として本当の「自信」というよりも、自分を守りたいだけの必死さが生み出ししまう「そうであるはず」「そうでなければならない」というこだわりにすぎないこともある。

 その奥にあるのは、自信どころか弱さだ。

 私たちはそこに囚われると、謙虚になることが難しくなってしまう。平時には簡単なことでも、判断を誤ってしまう。

 場合によっては他人の指摘の仕方に問題がある場合もあるので、一概にその人の責任ばかりとも言えないが、今回紹介したプロゴルファーの例のように「自分は間違ってない」という思いが、しなくてもよいさらなる損を生み、増やさなくてよい敵を増やすことになるので気を付けていただきたい。

「自分が間違っているとどこかではうすうす思っているけど、ゴネてなんとかなるなら損害が回避できてお得なので、ダメもとでゴネてみよう」は論外。自分は正しいという思い込みよりもさらにひどい考え方なので、これを思う人がいたらちょっと自分を恥じてほしい。

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