人生は連続する物語であることを忘れるな

 お笑いコンビ「南海キャンディーズ」の山里亮太氏が、自身がMCを務める番組内において、自殺されたryuchellさんの生前の功績や名言などを振り返る映像が流れたあとで、実はこういうVTRを流すのは本当にいいことなのか疑問に思っている、という趣旨の発言をした。

『すごい良いことを言っているなら、良いこと言っている時に取り上げれば良かったじゃんって。こういうことがあってから取り上げるのってどうなんだろうって思っていたんですけど』

 生放送で、誰も止められないという状況を逆手にとってのこのホンネ発言。事前に擦り合わしていたら絶対に言わせてもらえなかっただろう、でも言いたいので言うにはこの方法しかない。でもそれをされた番組スタッフ側は困惑しきりだ。

 禁じ手を使ってまで言いたいことを言った山里氏。これに対する世間の反応は総じて「好意的」で、番組側に迷惑をかけたことを責める論調の意見はほとんどない。

「ほんとそう」とか「よく言った」という意見が多かったことが、筆者には意外であった。なぜなら、私は全然そうは思わないからだ。

 たとえば、ゴッホの絵とかが、最初からちゃんと価値が認められていればとか。死んだりした後で認めるなんて、価値があるというならなんで最初からそう扱ってあげなかったん? というのは人情的には理解できる。世界名作アニメのフランダースの犬なんか見てても、やっぱりそんな気持ちになるもの。

 でも、それでもあえて私はこう言いたい。



●この世界は、連続するストーリーの世界。

 過去現在未来という直線方向に時間が流れ進んでいくこの世界では、(過去)を受けて(今)があり、その今の状況が包含する何らかの可能性が未来において起きる。その未来に起きることは、今の状況を完全に無視した形では起きることはない。



 今頃評価するなら、「あれはよかった」と言うくらいなら、最初から認めとけよ!というのは人ととしてそう思う気持ちは分かるが、胸に秘めておけ。外に向けて、自分の全力の意見として言うのは恥ずかしい。ましてや、スピリチュアル性のあるメッセージとしてなら最低である。

 なぜなら、この世界に生かされながら(生かしていただきながら)この世界の特徴、その存在意義を無視した、出過ぎた願望を言っているからだ。

 嫌われるかもしれないが、ゴッホだって、下積みが長く年取ってやっと芽が出た芸能人だって、その実際に「起きた人生」が神の視点では最適だったのである。人間だけが、その起きたことに自分の損得や価値基準で「良い人生」「サイアクの人生」などと色を付ける。

 皆さんからすると「ええっ」という感じだろうが、善悪を越えた悟り視点からは「起きることが起きるべきして起き、そのすべては最善」なのである。ちなみにその最善というのは、たとえば「殺人」が起きたらそれは「一番良いことが起きた」という意味ではなく、そこまでの過去の確定要素(すでに起きてしまったことや、揺るがない環境的前提)が整っていたので、もうそれを受けて「起きるしかない」から、その通りに起きた。これは宇宙の運営がその法則に則ってきちんとなされたから、という意味での「最善」なのである。

 その境地に達し、それを正直に言えばたいてい嫌われる。イエス・キリストも嫌われた。知能犯は、そこのホンネを隠して世間受けのいいことだけをチョイスして利口に世渡りする。あるいは、偉そうなこと言って(悟りましたとか言って)本当は分かっていないか。世間が味方になるなら、そのどちからだ。



 同じその人なのに、言っていることも売れる前と後でそう違わないのに、なんで世間は扱いが違うの? 生きている時は散々叩いて、なぜ死んだらそんなに美化したような話になるの?

 そこに違和感を感じること自体は間違っていない。逆に、人として自然な感情だと言ってもいい。ただ、人の思いや願望は宇宙の運行や法則性と何の関係もない。

 ある時点で「売れない」「認められない」状況において、悪者は誰もいない。ただ、その瞬間までに関係者やその背後事情において、「すべてのカードが整わなかった」というのがすべてだ。そのモノや人物の「本当の価値」などに大した力も意味もなく、重要なのは「惑星直列みたいに、実にいろいろな難しい条件がものすごい確率勝負を潜り抜けて揃う」ということである。これを別名「奇跡」と呼ぶ。

 その考えに立てば、売れない時期があるのと、ある時から急に売れるのは、それは「あってはならない」ことなのではない。あとで価値があると言うなら、今言えというのは子どものダダこねである。それは自然なのだ。これまでの蓄積があって、それを受けて今起きていることがあり、それをベースに未来の可能性は展開し、その範囲の中でしか物事は起きない。

 たとえば、野球選手になりたくて努力し、ついにその夢が叶って「奇跡」だと言う時、それは「あり得る奇跡」である。だって起きる方向で日々頑張っているわけだから。宝くじを買い続けているのと同じである。でも全く買わないと当たらない。だから野球選手を目指してもいない人がある日急にプロ野球選手になる、などということは絶対に起こらない。それは「起きない奇跡」である。



 だから筆者は、山ちゃんに反論する形にはなるが、今ryuchellさんをしのんで「いい人だった」「あんないいところがあった」「今までありがとう」と言ったり涙を流したりしても、全然いいと思うんだ。なぜそれを批判する?

 今評価するくらいなら死ぬ前にしとけ? それはこの世界の「今ここ」という連続と、先を受けて連続性のある、ストーリー性のある流れが作られるこの世界へのリスペクトを欠いた言葉だ。そういう流れになったからそうだっただけで、この宇宙の運行が「そうなるべきでなかった」状況をゆるしたとかではない。宇宙は常にちゃんと仕事をしている。私たちの感情が、ただそれを受け入れられないだけ。

 そんなもん受け入れられたら、人間らしい人間じゃなくなるのでは? うん、そうです。なくなります。だから悟らないでください。(笑)



●あとでいくら偉そうなこと言っても、その時には案外分からないものなんですよ。



 今ブレイクしたその人を、もっと前に「この人すごい」と見抜ける人はまれです。あの時ああしておけば、という後悔のない人ばかりなら、もっと世界は違っています。現実には「その時その瞬間、ゆるされた物の見方でしか考えたり評価したりできない」という現実の前にサレンダーするしかない。

 だから、予想もしない中でお亡くなりになった方に「あの人はいいことをしてくれた」と振り返るのは、愚かでも間違ってもない。それが、その瞬間を全力で生き続けているということの証なのだ。裏を返せば「その時にしか分からないこと・その時にはどうしても分かることができないこと」というのがある、ということだ。

 特に山ちゃんは、直接犯ではないものの「テラスハウス」事件における責任の一端がある。今回のようなことを指摘する以前に、お仕事を続ける上で彼にはもっと考えて行動していかないといけないことがあるのではないか。

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