アーティストは善人でなくていい?

 ジャニー喜多川氏の性加害問題をめぐって、ミュージシャンである山下達郎氏のした発言が炎上、物議を醸している。

 毎度言っているがここはニュースを深掘りするところではないので、事態の詳細を事細かには書かない。興味のある方、もっと情報が欲しい方は検索すればいくらでもその手の記事が出てくるので、参照されたし。

 今回スポットを当てるのは、ジャニーズ擁護という批判を受けての、達郎氏の捨てゼリフとも取れる次の言葉だ。

『このような私の姿勢を、忖度あるいは長いものに巻かれていると解釈されるのであればそれでも構いません。



 過去の偉大なミュージシャンで問題のあった人物を例に挙げて、ミュージシャンは音楽が素晴らしければそれでいい、決して善人であることまで求めてはいけない、という意見の人がいる。こういうことがあっても、彼の音楽が素晴らしいのは間違いないので、音楽は変わらず聞き続ける、と。

 もちろん、それも一つの考え方で、尊重されてよい。しかしあなたがそうだからといって、それを正しいとして達郎さんをバッシングする人たちに「世間がおかしい」「達郎さんを責めるな」と意見して戦ってはダメである。趣味と一緒で、それはとりあえず「あなた個人が楽しめばよく、他に押し付けるものではない」。

 筆者の考えをあえて言っておく。



●ミュージシャン(にかぎらず芸術方面含むアーティスト全般)は善人であれ。



 確かに、クセがあって変わった人物だからこその「才能」という面はあるかもしれない。でもそれだったら、別に世間に発表せずに、好きに音楽でも絵でも書き散らしておけばいいのだ。その人物がどんな考え方をしようがゲスい人間だろうが、誰にも迷惑も影響も及ばない。

 しかし、世の中という枠の中に参加し、その社会性のある動きの中で認めていただいて「利益」を上げる以上、そして少なくとも一般人はそのアーティストを「普通とは違う特別な才能と力を持った人」「成功した人・輝いている人」としてうっとりと見る対象である以上、全力でそれを維持しなければならない。あこがれる人の模範でなければならない。

 有名になって少なからぬ金を稼ぐ(そのお金は一生懸命働いてもそのアーティストの爪垢ほどにもならない収入の中から一般人が頑張って出したものの集合体)ということには、責任が伴うのである。



 たまに、「アーティスト(有名人)だって一人の人間。失敗もするし、色々ある。そこまで厳しく見るのもどうなのか」という意見がある。

 だが私は、厳しく問いたい。「名が売れる立場を得たということは、あなた普通の人間として扱われることは捨てたはずですよね? 承知の上で舟をこぎ出したはずですよね? まさかその覚悟もなく有名人になどなったのですか?」と。

 彼らは、市井の我々とは生きる世界が違うのだ。そこで死守しないといけない掟で重要なことはただひとつ、「世間に夢を見続けてもらうことであり、その夢を途切れさせないこと、壊してしまうことは絶対あってはならない」である。

 特に近年は、そのお約束が「守れない」有名人が増えてきた印象がある。特別な立場・普通平均より「おいしい立場」を得るには、それに相当する対価を支払わなければならないのだ。その義務を「厳しすぎる」「かわいそう」とはおかしい。

 だから、彼らを「彼らだって人間」と擁護するのは甘やかしである。彼らはすでに一般人と同じ扱いを受けることを捨てたはずの人種なのだ。



 スピリチュアルを夢見る人の中には、人類全体の精神性が向上したら「芸能界や有名人の世界においてもすべての取り組みが健全化し愛に満ち、アンチによる陰湿なバッシングもない世界が来るだろう」とか考える人もいる。

 だが、夢を壊すようで悪いがこう言おう。



●この地球が存在する限り、そんな日は来ない。

 ヒトという生き物が複数人集まって集団をつくり、その中で優劣や役割の違いが存在するというただそれだけのことがすでに、破綻の条件なのだ。その中で一人一人がいい人間でも関係がない。ロボットのように合体してひとつの形になったその時、それはもう社会という名の別種の生き物なのである。

 ヒトが社会を作って組織をつくって、地位の違いや人物の価値などが論じられ得るというただそれだけでも、もう宿命的に「どうにもならない」のである。ヒトが存在する限り、永遠に差別もイジメもバッシングもどこかには存在し続ける。



 達郎氏は言った。「きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう」

 これを世間の多くの人は「イヤなら聴くな」と変換して受け取った。もっと言うと、お前なんかに聴いてもらわなくても(応援してもらわんでも)別にいい、ということに拡大解釈可能である。

 達郎氏を擁護する人の中には、「イヤなら聴くななんて一言も言ってないぞ! 勝手に捏造するな!」と怒っている方がいる。確かに、イヤなら聴くなというのは、我々が勝手に言い換えてしまった部分がある。でもあえて次のように指摘したい。

 出版社でもTV局でも新聞社でも、表現には気を付けるだろう。言葉というのは大事である。時に人の運命を変え、殺しさえする。言葉のチョイスのまずさひとつで、訴訟を起こされ要らぬ労力を取られ、結果本来払わなくてもよかった賠償金まで、敗訴した場合には取られる。たとえあの有名な週刊文春であっても、いらぬトラブルは避けたいはずだからよほど自信がないとヘタなことは書かないはずだ。

 だからメディア側、世間に発信をする有名人側には、「世間にどう受け取られるかも含めて、あらゆる可能性を考えて対策する」責任がある。

 だから達郎氏の擁護者が「彼はそんなこと言ってない」は通らない。多くの人の耳に「嫌なら聴くな」というニュアンスに受け取られたのなら、それは世間のせいじゃない。はっきり達郎氏の落ち度である。



 これは私一個人の感想であり私見にすぎないことを最初に断っておくが、達郎氏には『驕り』があるように思う。

 確かに彼は長年にわたり活動し、たくさんの素晴らしい楽曲を世に提供し、多くのファンを獲得してきた、その実績は、誰もが認めるところである。

 彼の立場に立って想像してみたら、「あーなんだこれ面倒だなぁ」というところだろう。性加害とか深刻な話とかいう感じではないだろう。才能あるアーティストには一定数にその傾向があるが、世間の人とは感覚が異なる。うわ炎上したわタイヘンどうしようなんて彼はきっと思ってなくて、ハエがまとわりついてきてうるさいわ、くらいのことだろう。物事の優先順位が、一般人とは違うのだ。

 ぐちゃぐちゃ言うやつに僕の音楽は不要でしょ、というのはどういう意識の前提で言っているかというと——



●この世界で、オレは偉業を成してきた。

 オレの音楽を分かってくれる無数のファンがいる。

 文句を言ってくるようなやつがオレの曲を聴いたり買ったりしなくなったところで、オレの地位は揺るぎはしない。



 恐らくだが、たとえそれで一部の人間の心証を悪くしても、自分が築き上げてきた盤石の人気にそう問題はないと高をくくっているのだ。

 有名人として、不特定多数に発信を提供し、そのサービスを買ってもらって生きさせていただく人種が絶対言うべきでないのが「いやなら買うな見るな聴くな」である。それを言った途端に、才能は一流でも四流に成り下がる。

 達郎氏は、今までの活躍でしこたま稼いだだろう。もしかしたら今後1円も入らなくても、一生暮らせるだけの貯えがあるかもしれない。でもさすがに、今後1円も入らないというのは辛いだろう。ステータスの高い人物なら、それなりにかかるお金もあるだろうし。

 筆者も、時々言っている。「イヤなら読むな、ここに来るな」と。でも、筆者と達郎氏は恐らく違う。



●私が「イヤなら見るな」という時、本当に誰からも1円ももらえなくても構わない覚悟で言っている。本当にすべての人に嫌われても構わない。

 でも達郎氏にはおそらくそこまで腹を据えて言ってない。こう言って多少炎上したところで、オレの価値が分かるやつは分かるから変わらずカネ落とすでしょ、くらいの甘さで言ってる印象を受ける。



 イヤなら見るな、を言う資格があるのは、背水の陣を敷いた者だけである。

 逃げ道があったり、そう言っても多分大勢は変わらないだろう、なんて見通しに立脚した「ケンカを売るような言葉」はダサい。 

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