幸せになろうとしてはいけない

 ここから書くことは、かなり高度なことである。

 誰も彼もが受け入れられる内容ではない。現に、タイトルを読んだだけで「もうアカン」と思ったそこのあなた、引き返していただいて大丈夫です。別に読まなくても特に損はありません。むしろ中途半端に受け入れていただいて、こわごわ実践されるほうが害になります。

 100人いたら、98人まではこの方法は合わないだろうし、やろうと思ってもムリだろう。でもごくまれに、実践可能なところまで旅した魂がいる。その二人のために書くものである。



『時計じかけのオレンジ』という外国映画がある。名作ではあるが、過激な暴力シーンがあり実際に逮捕された犯罪者が「この映画に影響を受けた」と証言した事件もあったことで、一部の国や地域で上映禁止になるなどたいへん問題となった作品だ。

 その冒頭シーンに、主人公を含めた仲間四人が犯す犯罪のシーンがある。

 ある金持ちな作家の家のドアベルを深夜に鳴らし、こんな遅くに何ですかと怪しまれると「近くで事故を起こしてしまい、友人が重体なんです。今すぐ救急車を呼びたいんですが、電話がない。お願いです、電話させてください。一刻を争うんです!」

 応対したのは作家の妻で、彼女はそれでも断るのだが、奥から作家が「入れてあげなさい」といったため、しぶしぶドアを開ける。

 人が入れるほどの隙間ができた瞬間、主人公たちは待ってましたとばかりに体をねじ入れ、妻を殴り倒す。そのあと、武器をもって侵入した四人は部屋を荒らす、作家夫妻を殴る蹴るの好き放題。

 最後は、縛って身動きができない作家の前で、奥さんを輪姦する。



 世に、「いいことをすればいいいことが返ってくる」という考え方がある。

 その逆は「悪いことをすれば、相応の報いが返ってくる」である。もちろん悪いことが返ってくるのである。因果応報という考え方がベースになっている思想である。

 ただ、これは非常に分かりにくい。

 筆者は「何かをすれば同等のエネルギーの何かが返ってくる」というところだけ正しいと思っている。つまり、宇宙をつかさどる大いなる何かは、人ほど頭がよくなくて「善か悪か」「幸せか不幸か」というところには無頓着なものと思われる。同じエネルギーのものが、こちらで言う良し悪しの基準関係なくテキトーに返ってくる。

 ひねくれた人は「いや、もしかしたらさっきの作家さんだって、この時は親切心から人を家にあげたが、その昔悪いことをしてるかもしれないじゃないか」と言ってくるかもしれない。やっぱり因果応報なのだと。

 だがそれを言ったらキリがないし、そんな確証も持てないことで議論しても意味はないので、ここではその意見は黙殺する。あくまでも「この世界で起きることは、必ずしも単純に行ったことの価値に見合ったものが返ってくるわけではない」ということで話を進める。



 ここで、親切心から家に入れてあげたのに襲われた挙句、妻をめちゃくちゃにされた作家の立場で考えてみよう。

 もし彼が、因果応報という発想の信者だったら?

「親切にしたのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか」

「理不尽だ」

 そんな絶望的な気持ちになるしかない。そしてそのような心の状態は悲惨である。

 でも、いくら心の中をそういう闇な心で満たしたからといって1円にもならない。それで犯人に逆襲できるわけでもなく、得なことは何一つない。ただ自分だけがイヤな気分になるのみで、犯人は関係なく上機嫌。まさに、ひどい目に遭わされた上に自分だけがひどい心持ちになるという「一人負け」状態。

 人が不幸になるのは、具体的に起きる何かの出来事そのもののせいではない。それは不幸の引き金であり媒介者に過ぎず、不幸の原因者ではない。



●不幸の原因は「なんで?」「どうして?」という問いである。



 なぜ自分が? なぜ自分の家族が? なぜ自分の愛する人が?

 私が、彼(彼女)が一体何したって言うんだ?

 もちろん、答えなどでない。答えなどでないが、それでもひどい目に遭った時人というのは無駄とどこかで分かってはいても問うことをやめられない。問うて問うて問い続けて、問い疲れて、それでも問うて心を病んでいく。

 ここから脱するには問うことをやめるしかないのだが、これは一度体に打った覚醒剤を抜くくらい大変でしんどい。

 この「なんで?」という問いが生まれるのは、考え方のい根底に「単純な因果応報」があるからだ。それに照らせば、自分が今まで行ってきたことの評価と、今目の前で起きている悲劇が「釣り合わない」のである。そりゃぁこうなるよな、と納得できないということである。

 いくら納得できなくたって、現に目の前で起きているのだ。返品はできない。覆水盆に返らず。その事態はもうどうしようもないなら、あとできるのは「この先自分がどう生きるか」だけである。ならば建設的に考えたほうがいい(もうなぜどうしては放っておく)のだが、心の底にある「行いに応じたことがちゃんと返ってくる、お天道様(神様)はちゃんと見ている」というものが強固だと、まず切り替えられない。



●筆者は、幸せになろうという思いは捨てている。



 幸せになりたい、と思う人で「日々悪いこと繰り返してます」という人はいないはず。まともな人なら、幸せになるために相応に「幸せになれる要素」で生活を埋めようと努力しているはずだ。

 きついことを言うが、幸せになるために何かをするということは、幸せという見返りを求めてその代価としてふさわしいものを払おうということである。当然、その対価に見合ったものが与えられるはず(べき)とも考える。

 もし、「そんなこといくらやっても幸せとは関係ありませんよ」と神様にでも言われたら、あなたはやめますか? 幸せになれないなら「あほらし」と。

 そこなんですよ。それが、あなたがダメな理由です。



●善行(他者のためになる行い)は、幸せになるために、つまり見返りがあるからするものじゃありません。やりたいからやるんです。

 やって、何も見返りがないとしても関係なく、ただやりたいから。やることそのものが最終目的であり、その後どうなるかは副産物(おまけ)でしかない。そんな考え方ができるなら、人間という体験の旅の最終段階です。



 幸せとは、なるもんじゃありません。いつ間にかなっていたことに「気付ける」だけの結果論でしかありません。

 筆者は今幸せですが、それは幸せになろうと頑張った結果ではありません。私は、賢者テラと名乗るようになって以降は、幸せになろうとして何かした記憶は一切ございません。ただ、「あなたは今幸せですか?」と問われたら、ハッと気づいて「そういえば幸せです!」と言えるだけのこと。私は因果応報の考え方から自由なので、「これをしたのにこうならなかった」「こんなにいいことをしたのに何もいいことに繋がらなった」と悩むことがない。これは、人生において非常に大きなアドバンテージである。



 最初のたとえ話の作家さんの話に戻すと、目の前で起きる理不尽は、ありきたりの人生観では処理しきれない。感情を制御できない。

 ああ、一個人の主観ごときでは、今目の前の出来事がなぜ起きたか、なぜ大宇宙がこれを起きることをゆるされているのかの秘密には到底たどりつけない。

 そこは降参するしかない。いくら考えても、考えすぎるほど罠であり、毒にしかなならい。それよりは、同じどうしようもないなら、如何にして私が命ある限り「次に繋げる」思考ができるかだ。しっかりしよう、妻には私しかいない。その私が一緒に憤り泣き暮れていたところで、どうなるのか——



 幸せになろうとしてはいけない。なぜなら、「幸せになるために」あなたは色々しようとするから。そのよい行いには「幸せになるため」という動機の手垢がつくから。だから、親切にしても何も返ってこないとムッとして、良識ある国民として生きているのに見合わない悪いことに直面したら「なんで私が」と反発心が出る。

 手放すのだ。我々風情の思考では永遠に正解になどたどり着かない。

 ただ、起きたことを理由をあれこれ深追いせず受け入れよ。しかる後に「じゃあ今からどうするのか」を考える。ただそれだけを日々繰り返す。何の打算もなく、将来的ビジョンもなく。

 もちろんそうしたからと言って、皆さんが言う「幸せ」になる保証などない。もしかしたらかえって皆さんが呼ぶ「不幸」になるかもしれない。でも、私はそれでもいいと思って今の境地にある。結果幸せを感じるかそうでないかなどどうでもいい。ただ、やりたいからやる、ということだけをやる。もちろんその結果など問わない。

 ただこれだけで、過去の賢人たちにひけを取らない生き方になる。

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