無駄、無駄、無駄ァ!

 えっと、大事なことなので三回言いました。(笑)

 あるライターさんのエッセイを読んでいたら、大変共感できるものがあった。子ども時分に教師などを代表とする大人たちから「将来何になりたいか」と聞かれることが何よりも苦痛だった、という内容だった。

 そう聞かれるととたんに頭がフリーズし、何も考えられなくなっていたのだそうだ。そんなことを考える意味も意義も分からなかったので、黙っていたらしい。

 黙ってやりすごせたらいいのだが、そうもいかないのが学校の先生相手だ。逃げようにも「将来なにになりたいかというテーマでの作文」を課してくるから、逃げ場がない。周囲に「そんなこと今書けないよー」と嘆くクラスメイトもいて、少しは同志がいて救われるような気分にもなったが、最終的にはうそ八百でも「仕上げる」者ばかりになり、最後まで残ったそのライターさんは絶望を味わったそうだ。

(かわいそうに小学校4年にして、だそうだ)



 考え出すための素材がないし、考える方向性も検討がつかない。

 タイプにもよるが、真面目に考えすぎる人ほど、無責任に考えられるかという思いから何も言えなくなるのだろう。将来、~になりたいです! おお、~ちゃんの夢はすごいねぇ! 大人はこういうやりとりをして満足したいだけなのだろうし、子どもは子どもで自分の立場を分かっているので、大人を喜ばせるということを本能的に、庇護が必要な弱者なりの生存本能で行っているのだろう。それか、うわこれすげーな、カッコいいなというだけで「現実的なことは全然考えない」思考不足だけが、大真面目な顔で野球選手に、とか宇宙飛行士に、と言える。

 そこまで考えたら、小さい子が将来の夢を言えることが本当に偉いのか怪しくなる。むしろ、今の時点では分からない、答えられないという子どもの方が「しっかりとものを考えている」からそっちのほうが偉いような気さえしてくる。

 あるませた小学生が「大学が決まったあたりなら考えられると思いますが、今は考える材料がなさすぎて答えられません」と言った。私なら、この子に合格点をあげたい。まさにその通り。

「夢がないなぁ」「夢を持とうぜ」と大人は言うが、多分その大人も「夢をもつ」ということの本質が分かっていない。ただ自分が子どもの頃やたら聞かれたんで、その仕返しを世代またがってやっているだけだ。

 教師は、自分が子どもの頃先生に書かされたので、その経験を反射的に利用しているだけだ。だから、自分が先生になると子どもに書かせる。こうして、負の遺産は連鎖していく。



 筆者は、数えきれない就職応募(と時折面接)をやってきた。結果実ったものはひとつもなく、結局「私はこういう文章を書くことでしか世に役立てない」人間だということが分かっただけだった。就職支援というのは実は二年という期限があって、私はその二年を使いきってなお就職できなかった。もちろんそのサポートが切れても独自で動くことはできるが、もうそこまでする気力は残っていなかった。

 その経験の中で一番「無駄」だと思ったのは、就職面接で「志望動機」を聞かれることだ。こちらは当然、その対策をしないといけない。

 いったい、何人の人が心からの、ウソも作為もない純粋な「動機」を持てているのか知りたいものだ。まず、その会社の会社概要や沿革について調べる。社長の言葉や、これこれこういうことを目指しています、という文章は暗記するくらいまで頭に叩き込んだ。

 そうして出てくる言葉は、実に歯の浮くような文言だ。御社の~という社風に感銘を受けまして、だの社長の~という創業理念がどうのこうの……



●こっちは焦ってんだよ! 生きないといけないから、働ければ正直どこでもいーんだよ! 志望動機は「たまたま職探し中に応募できる情報があったから」とびついたんだよ? それぐらい察せないか?



 応募者は、どうしたら面接官を喜ばせる(コイツ役に立ちそうだと思わせる)ことを言えるかに必死になり、そのためなら何だって言う。で会社側もアホで、そんなこと言わせて喜んでいるがまったく心にもないことだということに気付いていない。

 中には気付いている者もいるだろうが、その人は「就職面接とはこうしたもの」というあきらめと割り切りがあるのだろう。でもそれもやっぱり悲しいことだ。

 今、私が思う「この世界で無駄と思うもの」をふたつ挙げた。もっとあるだろうが、このふたつに共通しているのは——



●無駄なものが、長い間それが繰り返され「しきたり」「慣習」「伝統」の域まで上り詰めてしまったことで、問答無用で「よいこと」という空気の中でその無駄をするのが当たり前という名の細菌に大勢が感染している。

 正直に無駄と声を上げると、まだ不利な空気の中損害を被るのはこちらだと皆分かるため、事態はそのままにされ続ける。



 もちろん、会社の志望動機も将来何になりたいかも、人によっては純粋に答えがあるケースもあることは認める。でも、それは皆じゃない。ごく一部である。

 その、ごく限られた人間しか持ち得ないものを、教育という名のもとに「全員がもってるはず、べき」と拡大して当てはめることが間違いだ。社会人になる全員が「立派な志望動機」をもっているはず、べきも幻想であり、意味不明な押し付けだ。

 ほとんどの人は、聞かれるだろうから頑張って用意するという「後付け」でしかないのだ。後付けの「志望動機」なんて、聞かれるから仕方なくひねり出す「将来の夢」などに何の価値があるのか。



 冒頭のライターさんは、27歳になってやっとその質問に答えられるようになったそうだ。いわく「目の前の現実を何とかする能力」さえあれば、将来の夢など抱けなくても人は大丈夫だという。

 この世界には、心のどこかでは無駄と感じているのに、とりあえず世界を取り巻く空気がそう感じることをゆるさないので、仕方なくその無駄を儀式的に実行している、ということは決して少なくない。

 さすがの私も、過去の就職面接で「それって聞く意味あるんですか?」とホンネを返したことはない。やっぱり、きれいなウソをついた。気に入って採用してもらわないといけなかったからだ。(でもそれもすべて無駄だった)

 自身の生活・立場そのものに直結している事柄ほど、いくらおかしいと思っても声を上げにくい。残念なことだが、なんらかのきっかけで世の大多数の人々の堪忍袋の緒が切れてしまう事態になるまでは、今の世は続いていくことだろう。

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