なんで自分が基準なのか

 2022年の自殺者のうち、理由の一つとして奨学金の返還を苦にしたと考えられる人が10人いたことが報じられた。自殺者の統計が同年から見直され、原因や動機に奨学金返還の項目が新たに加わったということだ。

 学ぶのを推奨し、付けた力を将来思う存分社会で発揮してもらうための奨学金のせいで、その人材が失われてしまうなど本末転倒である。今後、何らかの対策を講じる必要があるだろう。

 でも、こういうニュースが流れると、必ず一定数の人がある種の感情を抱いてしまうことは避けられない。このネットニュースに付くコメントを読んでみると、奨学金をとりまく現実を憂え何とかしようという意見に交じって必ずあるのが「甘えるな」という声である。



〇私も奨学金を借りた身だが、ちゃんと働いて普通にしていたら、返済はそれほど苦なことではなかった。思いつめて自殺までということになるなんて、その人には何かが欠けていたんじゃないか。



〇思いつめて死ぬ前に、なぜしかるべきところに相談しなかったのか。相談しさえすれば、返済時期などゆるくしてくれるなど善処してくれる場合もある。もちろん、ギリギリで実はと言うよりも、早い段階から「こういう見通しなんですけど、どうしたものでしょうか」と相談できるのが一番良い。

(調べたらこういう情報もあるんだよ、行動を起こしたらそれが解決に繋がる場合もあるんだよというニュアンスではなく、おめーら情弱(情報弱者)なんだよ、なんでそうしないんだとチクリと責めるような言葉であった)



 時折、「シングルマザー」や「生活保護受給者」を取材した、そのたいへんな現状を世に訴える記事が世に出る。そうしたところに付くコメントは同情的なものばかりではなく、同じように「甘えるな」の声は必ず一定数ある。

 私もこの方と同じようにシングルマザーですけど、困っていません。泣き言など言わず頑張ってます。この程度のことで苦しいと言う人のところへ取材に行くのに、この方よりもっときつい状況でも頑張って生活している私やそういうお母さんがたのことを取材しないなんておかしい。

 どうも、この手の情報に反発したくなる人種には一定の傾向があるらしい。



●自分もその状況を体験したけど、自分は頑張った。乗り越えた。

 あるいはその状況を体験こそしていないが、自分の価値観の中で換算して「それを乗り越えることに匹敵する」と思われる、何かの克服成功体験を自分の中に持っている。だから、その程度(その人にとっては)で音を上げるなんて、甘えているんじゃないか、努力が足りないんじゃないかという発想になる。

 要するに自己責任論である。



 例えばだが、世にお茶の先生が茶道教室をしていたり、元テニス選手が引退後どこかの街でテニス教室をしていたりすることがある。

 そのプロの先生が相手にするのは、当たり前だが素人である。そのへんのガキかオバサンたちである。彼らを弟子というか、自分と同じかそれ以上に育てることを前提としていたら、あほらしくてやっていられないだろう。

 でも彼らは、見下さず優しく、根気よく指導する。もちろん生活のためではあるだろうが、一人でも多くの人に茶道なりテニスなりの「良さ」を分かってほしいからである。確かに極めるには厳しい道なのだが、そればかり言っては広く普及しない。普及しないと才能もまた発掘されない——

 なにより、プロになれるなれないではなく「楽しいもの」であってほしい。

 分かりにくいが、基本のキも知らない相手を大事にすることは、めぐりめぐってその世界をさらに世に知らしめるような大物の登場に繋がっていくものなのだ。



 甘えんな、という人は皆考え方が『自分基準』である。

 自分が出来たから。自分が大丈夫だったから。乗り越えられたんだから——

 できないという人は、どこか問題があるんじゃ?  やれることを全部やった上で言ってないんじゃない?

 これは、先ほどの例で言うと茶道の先生やテニスの元選手が教室にやってきたド素人の一般人に、能力全開で教えようとするようなものである。そりゃアラばかり見えるだろうし、こんなこともできないのかと腹も立つ。

 確かに、この世界には「その全力で生きても、ちゃんとできている人から見たら信じられないような失敗をする人種」は一定数いる。大事な情報を知らなかったり、そもそも知ろうという姿勢がなかったり。「こうしたらいいだけなのに」とこちらが思うことが、唖然とするくらい「できない」人がいる。

 最初は「この人、私のことバカにしているのか」と思ったりするが、深く関わってみるとそうでもないことが分かったりする。ははぁ、これがこの人の全力で、やっとこさなのね、と。

 もちろん、向上心という観点からは、できない無理ではなく「できるようになろうとする意欲」を持つほうがよいのは確かだ。でも、それはそうにしても、かたつむりの動きを責めないで「これが一番合っているスピードなんだろうなぁ」と思うように、奨学金で自殺してしまう人やシングルマザーをやっていることに音を上げかけている人のことをもう少し優しく見てあげられないものか。



 言うまでもないが、人間関係上のトラブルの多くは「それぞれが自分基準で物事を考えて譲らず、それを相手に押し付けようとする」ことで起きる。

 この世界の人は、どちらかというと「優しさ」よりも「正しさ」「言い分の正当性・妥当性」のほうを重視するように思える。むしろ優しさは「一種の弱さ」であると考えてしまいがちである。

 もちろん、優しくしたら逆に相手がつけあがり、状況がよくならない場合というのはある。でもそれは、個別にその都度考えていけばいいことであり、それをもって一般論として「弱者にむやみに優しくするもんじゃない」とするのは行き過ぎだ。

 人が成長するのに厳しさというものは必要だ。ただ、優しさのない厳しさというものに意味があるのかは疑問だ。

 最初に愛があって、優しさがあって、それを相手もどこかで感じ取れるからこそ、厳しいアドバイスにも聞き従えるのだ。逆にそういう下地がないなら、ただの上から目線の心無い叱責にしか聞こえず、従おうなんて思えない。

 できない立場の者を思いやれない、徹底した自分基準の考え方をゆるめることができれば、こういう「甘えるな」「もっとできることがあるだろう」というコメントは減ると思う。それは間違ってはないが、知らない相手にいきなり言うのには不適切な言葉だ。相手のことをある程度分かった上で、ある関係性のある土台の上でこそやっと言える資格があるのであり、細かい事情を知らないならぶしつけに言うべきではない言葉だ。

 なんでできない、という視点からの言葉ではなく「じゃあどうしたら彼(彼女ら)のような人でも、うまくサポートして生きていける社会にできるだろうか」という側面から考えてほしい。

 自分はやっているのに(我慢して頑張っているのに)あなたはなぜできない? と言う人は偉くも上等な人間でもなんでもなく、ただ「他人がその程度のことでたいへんだと言ったり、自分より軽い苦痛しかない人が自分より幸せになることがゆるせない」だけの、器の小さい人なだけである。

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