コンフォートゾーンにいれば安心?

 最近一番気になるニュースというと「少子化対策の財源として、国民一人あたり500円の社会保険負担増」である。頭の悪い人でも、何とはなしに「良策ではない」ことくらい感じ取れるほどの愚策と言える。本当は少子化なんか本気で解決したいと思っていないんじゃないか、と思えてしまう。

 読者のコメントが付けられるネットニュースでも、非難の嵐であった。積極的賛成や評価の声はほぼない。まさに「庶民いじめ」であり「国の終わりの始まり」だと嘆く人もいた。



 その割に……である。

 こんなに反対なのに、ゆるせないという人が多いのに、現象的には「何も起きていない」。これまでもそうで、その時々で皆が「これはダメ」「こんなことはあってはならない」的なことを言うが、言うだけ。結局それはその通りに実行され、やがて忘れられていく。

 政権側もその国民性を理解していて、今回も「文句はいっぱい出るだろうが、問題なく実行できる」と踏んでいる。どんなにネットや世論が荒れても、最後に笑うのは自分だという自信がある。結局、国民には何もできないからだ。文句を言うだけでそれ以上の脅威がないのであれば、もはやそれは脅威ですらない。

 ドラえもんの話で、のび太がママの説教を聞きたくないので、相手の声が消せる道具を借りるシーンがあった。それを使うと、ママが一生懸命説教しているのだが何も聞こえないので、のび太はニコニコしている。ママが怒り疲れてゼイゼイと息を整えている時に「もう終わり? もっと言うことはないの?」と聞くとママは根負けして「もういいわ……」と説教を終える。もしかして、国民の声をこののび太がママにしたように扱っているのではないだろうか、と疑問に思ってしまう。



 まぁそれはともかくとして、なぜ国民はこんなにも大人しいのか。(口先は軽いし悪いが、実際の行動において)

 コンフォート・ゾーンという考え方がある。



〇快適な空間、居心地のいい場所を意味する言葉。人間の成長には「負荷」がかかることが必要だが、そこはいわゆる安全地帯であるため、かかる負荷が「ゼロ・あるいは最小値」となる。つまり、成長しない。

 だがやっかいなことに、人間にはあえて意識していないと、変化を止めよう(変化を嫌う)とする性質がある。このように変化を拒んで一定の(慣れた)状態を維持しようとする性質を「心理的ホメオタシス(恒常性」)と呼ぶ。



 皆さん、長期にわたって日本に生きてきて、慣れたのだ。

 で、たとえ現状がベストじゃなくても、何か変えないといけないと思っても、その「変える」を実現するために逆算して必要な行動を取ることが面倒くさいのだ。自分の今の生活と、苦労の末勝ち取った未来の生活(それだって頑張ったから必ず勝ち取れる保証はなく、かえって不利益を被る可能性すらある)を天秤にかけたら、そりゃ気分は良くないがこのままでいい、となる。

 よく、自民党がクソなのに自民党を皆容認してしまう理由に「他に選択肢がない」「野党がダメダメで、結局ベストとは言えないかもしれないが今の野党が政権を取るよりマシ」ということを言う人がいるが、本質はそこではなく「コンフォートゾーンを出たくない」だけであろう。



 コンフォートゾーンというと、「良い場所」というイメージが前提だと思うが、例を挙げれば自民党政権に甘んじることは、今回の社会保険料上乗せや増税などということもあり決して「心地よい場所」ではない。

 でも、たとえ不利益のある場所でも「慣れた」ということが何より大事なのだ。たとえ多少のマイナスがあっても、そこで生きていけなくなるほどではなく痛みが無視できる程度なら、そこでいいと思うものなのだ。



●自民党を支えているのは、それによって得がある人たちと、何をされても自分の生活に目に見えた問題が起きない、生活がびくともしない「まぁ(私の生活が危うくなるほどでないし)いっか」という層の積極的でない賛成である。

 残りは「世界を変える、正しいことが最後勝利するというのは映画とかアニメの中だけの話で、現実はムリ」とあきらめている人。



 結局、生活が揺るがされる「当事者」になる以外、目が覚めないんです。

 人は皆が皆賢者ではない。大変なことが直接ないのにそれについて考えるという器用なことはできない。実害がないならとことん考えず放置。

 口では「けしからん」「このままでは日本は終わる」と言う。終わる終わる言いながら、言う前と同じ日常を今日も送る皆さんを見てたらちょっと笑えてしまう。

 人口の大半が愚政の犠牲者となり、フランス革命の時みたいに「皆が立ち上がらざるをえない」状況にならないと、世の流れは動かないと考える。人間には知恵があるので、争いという手段でなくとも話し合い(無血革命)ということも可能と考える人もいるかもしれないが、それは買いかぶりすぎだ。テストで赤点ばかり取ってくる子に「もしかしたらこの子だって東大に合格できるかもしれない」と期待するようなもので、ちっとも現実的じゃない。



 一時、スピリチュアルの分野で「心地よさを選び取る」「好きなこと(だけを)する・したくないことはしない」という言葉がもてはやされた。筆者が知らないだけで、それは今もかもしれない。

 確かに、この世界でそれが大事な局面というものはあるが、それはあくまでも「あるケースではそうすることがプラスに働く」ことがあるという程度のことで、どんな時でもそれが通用し適切であるなんてことはない。

 一定の自制心があり、理性を適切に働かせることのできる人間なら心地よさを選ぶことに意味があるが、自分に甘い人間や意志の弱い人間にそれを与えたら「成長しないための言い訳」に使われてしまう。そうなれば心地よさを選ぶなど無価値である。

 今の世は皆忙しい。それぞれに生きるのに大変。そういう余裕がない状況の中で「変わる」ことを求められている今の世は、難易度の高いゲームに国民全体が放り込まれているようなものだ。完全なる「無理ゲー」にならないうちに、私たちに何かできることはないものだろうか。

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