人気とは危ういバランスのもとでしか成り立たない

『とにかく明るい安村 』という芸人のパフォーマンスが、イギリスで大うけしたというニュースが少し前に流れていた。それで気をよくした本人は「場合によっちゃむこうへ移住もありかな」ということもコメントしていた。

 あの、紳士風なイメージのあるイギリスで、ベタな裸芸がうけたワケをいろいろ分析したようなネット記事もあったが、どれも決め手に欠け「それはあなたの感想でしょ」と言いたくなるようなレベルのものばっかりで、本当のところは分からない。

 まるで交通事故のように、月並みな言葉で言うと「偶然」「たまたま」「謎」「摩訶不思議」というやつである。偶然という言葉が大変お嫌いな人物は、すべての物事には必ず正しい原因があると言いたくなるだろうとは思うが、人間の主観でカバーできるこの宇宙の真実など、程度が知れている。限られている。

 仮に安村がイギリスでウケた本当の理由があるとして、そんなものを探り当てるのは、人間が個々に別の意識と認識システムを持ち、目に見えない意識を他者に伝えるのに間接的・従属的でしかない「視覚・聴覚」という手段で間接的にしか伝えられない(だから相手がそれをどう受け取るかはどうにもならず、本当の意図はこうなのにと思っても伝え手は無力)以上、むりだ。



 同じ裸つながりで『裸の王様』という童話がある。

 あれは、人間の世界での「有名人の人気」というものを鋭くえぐった話だ。

 王様と、王様の「目の見えない服」を褒める群衆との関係が、まさにこの世界での人気有名人とそれに群がる民衆のそれと相似形なのである。


〇王様


 ①実は王様も本当にこれでいいのか、と疑っている。やっぱり裸なんじゃないかと


 ②でも、スタッフ(一流と言われる仕立て屋)が作ってくれたものだし、みんなも「ほぉすごい!」と言ってくれているようだし。やっぱりこれでいいんだろう。心配のしすぎかもしれない



〇群衆


 ①どう見ても裸に見える。


 ②でも「あれはバカには見えない服」だと聞かされていたため、そうは思っても自分を飾る。「見事なお召し物だ!」と。



●人気有名人


 ①外見成功者で自信にあふれているように見えるが、実はいつも「これでいいのか」と悩むことがある。等身大の自分と、人気の規模が(大きければ大きいほど)自分の中で合致しない。何かがおかしいが、そのおかしさがマイナスでなくプラスに働いているので、そこまで踏み込んで悩む気にもなれない。


 ②何か違うんじゃないかと思っても、もう出来上がってしまった立場を崩すわけにもいかない。自身のことだけでなく、何より関係者の生活もあるからだ。もう引き返すわけにもいかない。進むしかない。

 スタッフもファンもみんな褒めてくれているんだから、それでいいじゃないか。それを素直に受け取っておけばいい——



●一般大衆・ファン


 ①メディアの宣伝や情報を除けば、すべての人気有名人は(特に芸能人は)普通よりイケメン・美女なだけである。芸人も、顔がおもろい(特徴的)かもう見た目はただのオッサン。だから、なぜ好きか、本当に好きなのかと聞かれると返答に困る。

「そりゃ、ニュースやオススメ記事で見て、みんなが好きみたいだし、大勢が好意的ってことは多分それを自分も好きになっておけば間違いないかなっていう……?」

 人は言うだろう。そりゃ本当に演技が素晴らしいからですよ。トークがうまいからですよと。逆だ。運よく選ばれたから、その土台の上で演技力とトークが磨かれるのだ。あなたは否定するかもしれないが、もしあなたがスターに選ばれその立場に立たされたら、それになりになるものなのだ。(やる気さえあれば)あと、宣伝さえうまくやってもらえば。

 本当に才能とか、そういう星のもとに生まれたとかの、なるべくしてなる筋金入りは千人に一人程度である。


 ②みんなが熱狂しているのに逆張りもカッコ悪い。うまくいけば注目されるが、逆張りはへたをすると立場を余計まずくする。だから、自分はどう思っても皆がほめるこれはそういうことにしておこう。何だったら、逆に自分もこれ好きだってアピールしたら、仲間に入れてもらえるんじゃないか?



 このように、有名人本人と受け手である群衆が、「ホンネに違うものをもっている」という滑稽な状況がある。突き詰めれば大して好きでもなく、その好きを諸々の社会的要素が増幅しているに過ぎないのだが、突き詰めて考えるのも面倒なので「好き」ってことにする。その方が一定の集団の中で「有利」になるという場合もある。

 私たちは、マスメディアというイリュージョニストによって、拡大・増幅された「その人」を見せられている。そしてその虚像を、限られた情報でしかないそれを「正味のその人」と捉え違いをする。気付いている人も多いが、これまた深く考えるのが面倒なのでそのままにする。

 無茶苦茶な天才以外は実はある程度の見た目とセンスがあれば「誰でもよくて」、あとは仕掛け人(火付け役)の腕次第だ。最初にこれがいい!という一定の人間がいれば(そしてその人間に力があれば)あとはみんな同調してくれる。

 一般大衆は自分の仕事があり余暇でファンをやるため、いつでも好きになれるし嫌いにもなれる。そうやって好きがコロコロ変わっても問題ない。

 でもやっているほうはそうはいかない。好きでい続けてもらわないといけないので、その内面的な戦争は壮絶である。



 王様も、実はハダカかもしれないと思っても、パレードの最中である。もう堂々と歩ききるしかない。群衆も、裸なんじゃないかと思っても、社会に適応しないと生きていけないので(この場合裸だということは権力の否定になり、周囲には本当に服が見えていて自分だけがバカなのを隠すウソをついている場合、下手に裸じゃないかと言うとどえらい事態になる)、すごい! 素晴らしい! と言っておこう——

 人気というのは、大衆の支持というやつは、本当に罪深い。有名人本人を大いに勘違いされる。等身大の自分を忘れさせ、故意に拡大されてしまった自我イメージが本人のホンネに取って変わってしまう。でも、それは実に気まぐれに、容易に取り去られたりする。でも、その時になって「ツブシ」が効かなくなっている。一度上がった自己イメージ(スピリチュアルなどでいう本質的なものじゃなく、単に自分の世間的価値)を下げるのは耐えがたいからだ。



●人気というものは、お互いがお互いをちゃんと分かってない、ちゃんと見せていないからこその、その絶妙で危ういバランスのもとにしか成り立たない曲者であること分かっておくこと。

 有名人本人、ファンともにこれを分かっておくといいことがある。



 とにかく、とにかく明るい安村は気を付けたほうがいい。(別にシャレのつもりはありません!)

 イギリスで受けて何か受賞したのは喜ばしいことだ。移住してもいいかな、なんて言葉がでるほど嬉しいのも理解できる。

 ただ、これは謎要素が多すぎる。そもそもウケるということに継続性などないし、人気というものはこれまでに述べたような『水物』であるので、慎重になったほうがいい気がする。

 ただ一方で「鉄は熱いうちに打て」という言葉もある。勢いがあるうちが大事ということも確かにあって、この機を逃さずさらに打って出るという選択も確かにアリだ。長くもつかは別として、その時思い切って飛び込んだその先で、宝物となる素敵な経験ができるかもしれない。もちろん、踏み出し飛び込まなければそんな可能性は覗けない。

 結局、正解なんてないということですな。ここまで色々言っておいて、結局最後安村さんに言うことがあるとすれば「あなたが腹を決めて決断したことなら、どっちでも大丈夫です」。

 結果どうなろうが、大丈夫じゃないことが大丈夫なんです。哲学的思考が好きなら、この言葉の意味が分かるかな?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る