成功哲学は後付け

 NHKの朝ドラ「らんまん」を見ていたら、主人公の万太郎が当時の植物学における事実上のトップである、東京大学の田邊教授をアポなし直撃訪問をしていた。

 万太郎はこれまで人一倍書物を読み漁り、小学校も中退しろくに学歴はないが頭はいい。しかし、そんな事情など知らない大学の植物研究室のメンバーは学歴の確認の時点ですでに万太郎をばかにし、教授に取り次ごうともしない。

 そこへ現れた田邊教授も、いきなりは万太郎の本質を見抜けず軽くあしらう。自分の持ってきた標本を見てくれ、と迫る万太郎。大学生ですらないお前が持ってきたようなものを教授が見る義理はない、帰れと迫る研究生たち。

 最後に、教授は言う。「OK。見てみようじゃないか」

 しかし、その理由が万太郎には気に入らないものだった。

「土佐の人にはちょっとした恩義があるしね。それに私は地位ある人間だ。ノーブレス・オブリージュという考え方があるだろう? だから、私にはこの道で望んでくる人間にこたえる責任がある」

 今まで腰を低くしていた万太郎が、この言葉に気色ばんで、怒気を込めて言う。

「ほな、もうえいです」

 そして、植物を愛する気持ちだけはあなたがたにひけはとらん、と啖呵を切る。

 結果として、これはよかった。その場の空気が変わり、相手の表面上の認識を揺さぶることができ、結果万太郎はその植物研究室への出入りがゆるされることに。



 このお話で間違えてはいけないのは、万太郎が「そんならもうええ」と怒ったことがいわゆる「正解」ではない、という点である。

 この場では、たまたまそうしたことが事態を好転させたが、この出来事をあとで振り返って「あの時、いくら目上の相手でこちらが望むことをしてほしい相手とはいえ、越えちゃならん一線を越えたら、その時は素直にその感情に従ったことでうまくいった」と考え、成功論として「お願いをする側であっても、卑屈になりすぎるな。こちらが礼を尽くしても分かってくれない時には、思いをビシッと言うべき」などと言うのは間違いである。



●成功論というものは役に立たない。というか無価値である。

 成功という結果を求め逆算して「成功するために」する行動に、ほぼ価値はない。

 意味ある成功とは、成功するかどうか以前にその目指す何かが大好きで、その場その場で自分が思う「その時に最適だと思う行動」をとり続けた先に、たまたまあるものである。それは、他人が同じことをして再現することの不可能なものであり、仮にうまくいったとしても本質的な人生の価値はそれほどない。



 万太郎は成功哲学など知らない。ただ、その時本当に腹が立ったのである。それはただ怒ったという浅い表現で語れるものではなく、これまで自分が真剣に向き合ってきた、本当に価値あると思っている標本や研究を軽んじられたからであろう。彼なりの誇りと矜持とが、たとえものを頼む相手である教授相手であっても、「お情けで見てやる」みたいなことを言われてさすがに我慢が出来なったのであろう。そっちがそういうふうにしか見れないなら、それでも犬みたいに頭を下げようとは思わん、と。



●間違ってはいけないのは、「こうしたから成功した」というものはないこと。

 この時万太郎は怒ったが、可能性として「それで結局教授と周囲も誰の心にも響かず、失礼な奴だな帰れと言われて終わっていた」可能性があったということを忘れてはならない。怒ったことが唯一の正解だったのではなく、たまたまこの場でそれがフィットしただけのことである。



 いくら分からず屋だろうが、田邊教授はその当時の植物学のトップであり、その方面で何かを成したかったなら彼に嫌われることはかなり致命的である。逆上して啖呵を切って悪印象をのこして失敗するより、まだ腰を低くしたままその場を終えたほうが挽回の余地がある。

 つまり、本当に「賭け」だったのである。万太郎本人にしたら、ただその時の素直な思いを口にしただけのことで、そして結果としての教授の好反応も、その時オンリーの生ものな「受容」だった。一歩間違っていたら、相手にキレるというのはリスク大な行動だ。



 何かで成功した人が、「成功する秘訣」などという記事を出したり本を書いたりする傾向に、私は辟易としている。この世界には色々なものがあっていいので、世界を彩るバリエーションとしては少々あってもいいが、多すぎるとゴミになる。



●成功哲学は、すべて後付け理論である。

 成功から「あの時こうしたからだ」と逆算することで、他人がそれをまねるというのは私からすればお笑いである。

 結果としての成功 = こういうことをしたから

 この等式は成り立たない。「こうした → 成功 」ということがあっても、「成功 → こうしたので起きた」は成り立たない。



 私が何より唾棄する姿勢は「成功ばかり欲しがろうとする」ところだ。

 成功哲学に熱をあげるような者は、その傾向がある。スポーツであれ芸能であれ何かの仕事であれ、それ自体を愛するより「成功したい」という気持ちの方が強い。

 逆に言えば、成功がないという未来が仮にわかるとしたら、もうそれはやらない(成功しないならやる意味がない)ということだ。

 そんなやつに成功なんて訪れるわけがない。仮に訪れたって、そんな成功ボンクラなその人物にはなにほどの価値もない。



●意味のある成功は、「成功するぞ」からは出発しない。

 ただ「好き」から始まり、一生懸命のあまり気付いてみたら「成功していた」というのが本当である。

 その道での成功は好きということの従属物で、あったらあったでうれしいがそれがないとだめという「本尊」ではない。



 万太郎も、植物が本当に好き、というところが彼の本質であり、すべてである。

 もし彼が、成功ばかりを考え計算高くあったら、教授の機嫌をそこねるようなことは戦略的に言わなかっただろう。彼が純粋であったからこそ、成功するかどうかは二の次三の次で、ただ植物を愛する同志としてやれ学歴がとか手順がどうのとかいうことのせいで、大事なことが分からない状況が嘆かわしかっただけで、その感情を素直に出した。

 それは功を奏したが、成功の秘訣などでは絶対にない。歴史上、暴君の前で立派なことを言い申し開きをした人物が、分かってもらえず無惨に殺されたケースなど山ほどある。



 成功哲学とは、ある意味「統計学」である。占いなどもそうだろう。

 そのケースで圧倒的に「こうするのがよい」というデータがあって成り立っている。そしてそれに倣うことで、うまくいく確率を高められる。

 しかし、「高められる」というに過ぎず、個々のケースで「うまくはまらない」ことも出る。そのうまくはまらないケースに自分がなった時、成功本の出版社と著者に「おたくの言うとおりにしたのにダメでしたけど?」と苦情を言うのか。

 本当の成功者は、成功してない人みたいに先取りして「成功」を見つめていない。ただ目の前の「やりがい」「好き」を見つめている。

 その結果、その時々で自分でよかれと思う行動を取るが、それは筋金入りの「好き」から来るものなのでたとえ他者に理解されずとも、いい流れにならなくても動じない。後悔しない。成功すればうれしいが、でも「あの時~したから」などとは後付けで考えない。



●私の語る成功哲学とは、その日その時で「気持ちが一番こうしたいとなっていること」を選択できること。決して「未来的な成功」とか「あとあとどう」とかいう副次的要素でその気持ちが逸らさせない。(だがもちろん犯罪行為だけはいけない)

 たとえ、その選択により表面的には失敗しても、私の考える成功はそれであり、死ぬ時に誇れるものである。その時にだけよい選択はその時は得だが、死ぬ時に自分の人生を総決算する時に、宝としてカウントできない。

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