ポリコレ
ちょっと前、TVアニメのドラえもんのスペシャル版で放送された『天の川鉄道の夜』というお話がある。これはリメイク版で、大昔のもともとの話を知る人には違和感ありまくりのものである。
のび太が、ドラえもんが持っていた「天の川鉄道乗車券」を盗んで勝手に使ってしまい、ジャイアンはじめお馴染みのメンバーが銀河鉄道ではるか遠い宇宙まで旅をしてしまう話だ。出発後一同は、鉄道内に自分たち以外の乗客がいないことを不思議に思う。
車掌は「今ではこのSL旅行は(あるものが発明されてから)すっかり人気がなくなってしまったんです……」と寂しそうに言う。そして終着駅に着くと「今日ここまでの運行でもってこのSLは廃業となる」と告げられ、のび太一行は宇宙の果てに置き去りに。
途方に暮れ泣く彼らのもとに、ドラえもんが現れる。
「どこでもドアが発明されちゃったから、SLは廃止になったんだよ! もう、せっかくの記念切符を使っちゃうなんて!」と叱られながら、地球に戻ることが出来た。もちろん、どこでもドアで!
それが、もとともとのお話である。でも、最新のリメイク版では、出だしこそ同じだが、途中で他の銀河鉄道のトラブルが起きた際にのび太たちが駆け付け(きっぷを盗まれたことに気付いたドラえもんが追い付いて合流)、勇気ある行動で乗客たちの命を救い、大活躍でめでたし、めでたしという話に改竄された。
オリジナルのお話のメッセージ性は何かと考えたら——
●新しい技術によって必要なくなり消えていく、古いものへの哀悼。
●盗みという行為の因果応報として、のび太が辛い目に遭う。その描写によって、「ダメなものはダメ」という勧善懲悪のバランスを取っている。
リメイク版は、確かに美しく感動的なのだろうが、そこまでしないといけなかったのだろうか。勇気と感動を描きたかったのなら、何も土台はこのお話でなくてもよかった気がする。だって、オリジナル原作のメッセージ性が、上記に挙げたそのふたつともが見る影もなく消えているからだ。
ポリコレ、と言う言葉がある。ポリティカル・コレクトネスの略語で、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称である。
恐らくだが、悪い子はこうなりますよ! 的な戒めだとしても、子どもは人類の宝である。その大事な子どもたちが、悪いことをしたとはいえ宇宙の果てに置き去りにされるなんて! という現代だからこその「心理的抵抗」があったのかもしれない。
ポリコレは不必要とまでは言わないが、使い方が下手だとかなりの確率で使いどころを誤る。結果、作品のもともとの魅力やメッセージ性が薄れる。
世界最大・最古のポリコレによる最悪な改竄例は、聖書である。
新約聖書のマルコ福音書の1章で、皮膚病にかかった男をイエス・キリストが奇跡の力を使って癒やしてやるというお話が出てくる。その41節が問題だ。
私たちが持ってる普通の聖書では、「イエスは憐れんで手を差し伸べその人に触れ……」となっている。確かに、これは自然であるし、イエスらしい。
この、憐れみ(愛)をもって病人を癒やすという風に受け取れる訳文は、ギリシャ語の原文(とされている標準のもの)に準拠するものだろう。しかし、ある最古の写本では「イエスは怒って」という言葉になっているのだ。
え? イエスが怒って人を癒やした? まず、普通に考えたら意味が分からない。こんなもの世に発表できるか! そうだ! ここは「憐れんで」にしておかないと、世界に混乱が起きるぞ!
イエスは全き愛であり神である、という前提を崩せない教会側は、皆が原文の原文がどうなっているかなどは知らないのをいいことに(当時はネットもなく情報化社会のかけらもない)、記者も読者も皆が納得しやすいものに改竄した。これが、筆者のいう最古の「ポリコレによる勝手な変更」である。
もちろん、全体に波風が立たないという利点はある。大勢が納得しやすいという面もある。でもそれは同時に、その作品やメッセージがもつ「深い秘密・あるいは真実」へ至る道をも閉ざすということなのではないか。
安心と引き換えに「本当のところはなんだったの?」という問いの答えが永久に分からなくなるということである。
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