お目汚し
仙台のある映画館で、ちょっとしたアクシデントが起きた。
今話題沸騰で大人気の『スーパーマリオ』の映画が上映されるはずの場所で、始まってしまったのが『聖闘士星矢』の映画だった。
マリオを待っていた来場者の子どもたちはがっかり。がっかりどころか、バイオレンスシーン満載の同作品を目の当たりにして泣き出す子どもも出たとか。
劇場側は謝罪したが、いったいなぜこのような間違いが起きたかの理由は説明していない。予想するに、その映画館ではマリオ上映の後聖闘士星矢へ上映作品の切り替えがある予定になっていたようで、そのタイミングを間違えたものと思われる。
観客の反応やスタッフに寄せられる苦情やらで間違いに気付いた映画館側だが、マリオをその時点から放映しなおすのはスケジュール的にも技術的にも無理だったようで、来場者には全額返金というところで落ち着いた。
ネットでは「子どもたちかわいそう」「暴力シーンなんか見せられてトラウマになっちゃうよね」と同情するコメントが。
でも、筆者はそういう感想は出てこなかった。期待したものと違うものを押し付けられて、確かにその時は辛いし悲しいしいいことなんてひとつもないだろうけど、長い目で見てその子のためになると思うのである。
この世界がどういうものか、そこで長く生きる予定であるなら早いうちに知っておいた方がいい。その学びが早いうちに来てくれたのだからむしろ喜ばしい。
●この世界では他人の取った選択や行動が、あなたの人生に干渉し、影響を与えることができてしまう。立場を変えると、あなたの行動や選択が、見ず知らずの他人の人生に影響を与えることもまたある。
映画館側の関係者の誰かのミスが、何の責任もない、マリオを期待して座席に座った観客に大迷惑をかけた。恐らくだが映画館側は「幼い子どもに聖闘士星矢を見せつけて恐怖のどん底に陥れてやろう」と思ってやったわけではないだろう。よかれと思ってやったことだが、見落としやミスがあったということだろう。悪意を持った者はいないにも関わらず、めぐり合わせの悪さが起こした不幸と言わざるを得ない。
ここで私が書き続けている内容も、たまたま流れ着いて目を走らせてしまった人には「お目汚し」になるかもしれない。
ちなみに「お目汚し」という言葉は、汚いもの(拙いもの)を見せてしまってすいません、という謙遜の意味で使われることの多い言葉である。本当の本当に「汚くてダメなもの」を見せるということには使われない。提供する側は全力で、良かれと思ってしてはいるが、「オレ様の作ったものだありがたく見ることだ」なんて言えない。それではジャイアンだ。なので、謙虚にへりくだって「お目汚し失礼いたします」と言うのだ。粗品、という言葉みたいなものだ。本当に粗品だな! と言ってはいけないのだ。(笑)
ここも、私は読者を不快にさせようと思って書いているわけではない。全力で書く結果、あとから読み返してみればなんとまぁ挑戦的な……と思うことはある。決して悪いものを提供する意図はないが、ただニーズがない人がここを何気に見てしまったらごめんね、である。まさに、マリオを見るようなソフトな心構えしかなかったところへ聖闘士星矢を見せられるようなものだろう。
自分が期待していたものとは違う、あるいは自分が到底受け入れられないような言説を目にしてしまった時、人の心には反発心が生じる。反発心は怒り、あるいは軽蔑という次の段階に移行する。
●反発心が生じた時こそ、成長のチャンスなのである。
一番成長しない選択は、その反発心の生じる原因である対象に対する完全否定である。徹底的に叩き潰して視界から消そう、あるいはその対象をこちらが溜飲を下げれる程度に貶めよう(社会的地位を下げる、あるいは剝奪する)とする時である。
あなたが「快」な気分の時。あなたがいわゆる「幸せ」を感じる時。
それは気持ちのよい状態でありいつまでも続いてほしいと願うかもしれない。
しかし、その状態というのは「あなたが新たな成長をする可能性がゼロの状態」でもあるのだ。守られ快適でありはするが、その世界の殻は絶対に破らない。
逆に、「不快」を感じる時。自分の中にふつふつと反発心が出てくる時。実はその時こそ、見方を変えればあなたが新しい気付きに至れるチャンスなのである。
相手が明らかに悪意をもってあなたを害しよう、損害を与えようとしている場合は別として、たとえばよそで自分の価値観からすればまったくのナンセンスで腹立たしい文章を読んだとして、それであなたが激昂して長文の罵詈雑言を投下する、といった場合のことを言っている。
相手が、その人物なりに「よかれ」と思って書いていることだと考えられる場合。一体自分と何が違うのか? その相手は、それのどこをいいと思ってその考え方をしているのか? 私は今腹を立てたが、もしかしたらそれは「自分に足りない部分」「自分が気付いていない世界や良さ」を示しているかもしれないじゃないか?
私の場合は、小学4年生の時、自分が軽い気持ちでしたあることで、直接は知り合いではないある大人に大迷惑が行き、大事に発展した経験がある。
その時初めて、普段の生活では味わわない「恐怖」の味を知った。人は、他人に(しかもその深刻さも分からず)こんなことができてしまうのだ、と思い知った。しかしそれは逆の学びにもなり、人生生きていれば他人から逆にこういうことをされることもあるかもしれない、と。
そしてそれができてしまうのが、このワールドで個人として生きるということなのだと。決してきれいごとではいかないのだ。子どもだって関係ないのだ。
マリオが見たいところ聖闘士星矢を見せられた子どもは災難だっただろうが、それが世の中なのだ。バタフライ効果、というもので自分からは見えないどこかの現象もすべて繋がっていて、その結果が常に生じるのだ。そして小さな個人は、その全体の大いなる意志で起きることを受け入れ、対処していくしかない。
その現実に対して心に小さなあきらめをもち、それでもここで生きていくしかない、幸せになるしかないという大きな「覚悟」を持ち、地球という大海原で今日も生を刻むのだ。
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