大勢に見られたい、知られたいという病(やまい)

 まれにいるが(そう少なくないかもしれない)、自分こそが正しくて、本当の価値が分かっていて、世の中はそれを理解しないバカばっかりと思っている若者。

 マンガ家志望であったり、作家志望であったり。出版社に持ち込むもボツの嵐。自分では「よいものができた!」と本気で思っていて自信もあるのに否定されると「世間のほうが見る目がない」と思ってしまう。

 百歩譲って、その若者に本当に才能とやらがあると仮定してあげよう。そして、その作品には本当に優れた点があるものと考えてあげよう。たとえそうでも、この若者は痛いほど間違っている。間違っているというのは、世の中と言うものを理解できていないということだ。人が集まって集団を作り、社会となり国となる。その広い範囲の中で、あなた一個人の作ったものの価値を、個性も価値観も思想も違う大勢に広く問うということがどういうことなのか、「世間は見る目がない」と考える者には理解できていない、ということである。



 NHKの朝ドラ『舞いあがれ!』の中に、主人公の幼馴染で貴司君というキャラがいる。彼はもともとサラリーマンだったが、挫折して紆余曲折があり、短歌を作ることに喜びと「自分はこれだ」というものを見つけ、有名な短歌賞に自作を応募したところ入選。そして彼は、ある出版社を通して「歌集」を出すところまでこぎつけた。

 で、そこで貴司君の担当となった編集者・リュー北條から色々な注文やダメ出しを浴びせられる。世の中の求めているものを書け。パンチが足りない。こんなんじゃ誰も喜ばない。同じ調子の淡い歌ばっかりでつまらない。自分の殻を破る時だよ——

 視聴者の多くは、貴司君に同情的な立場でドラマを見るのではないか。儲けとか売れることばっかり。編集者は貴司君の良さをこそ世に紹介するとか伸ばすとかいうことをせず、ただただ「世にウケる」ことばかり考えて「もっと刺激を作れ。刺激が足りない」とか、ホントやなやつ。そんな風に悪役チックにこの編集者を見る人は少なくないのではないか。

 確かに、言い方やビジュアル(失礼!)は本当に小憎らしい。でも、彼の言うことはごもっともで、この社会では何ら間違ったことは言っていないのである。むしろ、自分が良いと思うものが第三者のケチもつかずそのまま出せると思っている方が、考え方としては浅いし甘いのである。貴司君は、歌集を世に出すということが本当はどういうことなのか分かっておらず、認識が甘かった。初めての経験だから仕方ない部分はあるが、自分が「短歌大好き」「好きなふうにだけ書いて幸せ」という世界とはまったく異質なフィールドでの戦いになるということの認識不足。



 言っていることは業界人として間違ってないんだが、あまりにも言い方が露骨でイヤミなため、たまたま居合わせた貴司君を慕う女性ファンが「これが先生の良さなんです!」とそのままで素晴らしいと貴司君を擁護。すると、編集者はこれまた「的を射てはいるけどひどい言葉」で返す。

「だったら、あんたたちだけで通じてろ」

 冷たい言葉だが、その通りなのである。編集者というのは、作家ではない。作家ではないので自分は書かないし書けないし、その意味で本当に作品の命である内容に口出しする資格はない。ただ、編集者はある一点で作家より優れている。だからあえて作品に口出しするのである。



●編集者は、どのようにしたら作品が大勢に見てもらえるか(どうやったら売れるか)を考えるプロである。



 作家というやつらは、売れて百戦錬磨になるまでは、童貞少年のようなものである。駆け出しとか作家志望とかいうやつらは、大体において作品を描くということやその価値を何か神聖なもののように考えていて、ヘンに純粋である。

 もしあなたが、自分の幸せのために作品を書くのなら、好きに書けばいい。あなたを理解する周囲の一部に喜んでもらい、その範囲で幸せになるのならあなたの好きなように書いてまったく問題がない。何を言われる筋合いもない。

 一般庶民は、「売れる世界」を見たこともなく分かってもいなくて、夢を見る。自分の書いたものが本になって大勢に読んでもらえてベストセラーにでもなったら、夢のようだろうなぁ! って。でもそれって、見た目天国内情地獄、ということもあるのだ。商業出版を果たしたらそこがゴールでも成功ではない。そこから長く続く、世のニーズと自分が本当に書きたいものとの擦り合わせという試練の連続が待っているのだ。そこを乗り越えられないと、ヒットしたデビュー作のあと、最初ほどではない次作だけを残して世から消える、ということもよくある話だ。



 朝ドラの編集者の言うことは憎たらしいが、彼らはそれで生活しているのである。本が売れなきゃしょうがないのである。きれいごとを抜きにして、じゃあ売れるものって何、という話になれば、それは作家個人が本当に書きたいものと一致しない場合が少なくない。

 そもそも、あなたはこの世にあなただけで、あなたは全力でよかれと思ってその作品を生み出したのだろうが、ひどい例えだが目の前のその他人を世で最も愛しているのは親だけだ。(最近はそうでもない事例も増えたが!)あなた以上にあなたの作品の価値が分かる人間は世にいない。

 もちろん、ドヘタすぎて作品として成立していない、最低限の表現マナーや作品としてのレベルすらない、という場合は除いて、ある程度の域に達した作品なら、売れるかどうかはその作品の本当の価値がどうこうではない。



●売れるというのは、一種の交通事故である。



 交通事故というのは、意図して起きるものでも起こすものでもない。思わぬハプニングというやつである。

 何も知らない文学青年の作品が、いきなり何かの文学賞を取ったなら、それは交通事故である。世では何がウケるか、審査員はどういうのが好みかなどというところから出発して作品を書いた者など少ないだろうと思う。デビューする前からそんなのだったら、逆に心配する。売れてからそういうものを意識しだす、というのが健全な流れであるから。

 書きたいものを全力で書いて、それが売れる。それは、宝くじに当たったのと同じ体験、として大事にするといい。間違っても、次もあると思ってはいけない。交通事故は、そう立て続けに起こらない。書きたいものだけを書く、というのはそういうことである。



 でも、その交通事故を交通事故で終わらせず、「人工的・意図的に起こせるようにしよう」とするプロ集団が出版社であり、TV局や映画製作の世界である。

 彼らは、まったく個性の違う人間が作る集団内で目まぐるしく移り変わるトレンドに常に目を光らせ、アイデアを練り、何を提供すれば世が飛びつくかばかりを四六時中考えている。だから、自分の内面世界に誇りを持ち、それを表現することに至上の喜びを感じるような作家からしたら、油と水のような存在である。

 当たり前だが、その作家一個人と、世の中の大勢の人間とはまったく違う宇宙を持っているのだ。だから、あなたの作品が世でウケたらそれはあなたの作品が優れていると考えるよりも「世の中の大勢の勝手な都合とたまたま合致した」と考えたほうが当たっている。何度も言うが、作品としての一定の質は備えないと話にならないが、水準的に「最高作」でなくてもいいのである。



 作家にも色んなタイプがいて、ここまで私が述べたことにアレルギーのようなものを感じるとしたら、その人物は自分の世界だけで書くほうがいい。ブログやなんかで発表して、見てくれる人だけ見てくれればという感じで、それ以上は欲をかかないほうが幸せな人生になる。

 もし、世の大勢に喜ばれ続け脚光を浴びることを望むなら、朝ドラの編集者の言葉を借りれば「あなたは自分の殻を破らないといけない」。その殻とは、冒頭で述べた自意識である。自分の書いたものの価値が分からないなんて、世の中のほうが分かっていないんだという気持ちである。

 あなたとまったく同じ考えをする人間なんて世の中にいないのだと思え。共感者がいても、それはあなたと同じ地平に立っているのではなく、たまたま目に見えた部分で利害が一致するという偶然によるものであり、あなたの真の理解者などではない。言ってみれば、あなたのファンと名乗る人物は、あなたの価値を分かっているのではなく、自分の宇宙にあなたの作品を引きずりおろして、自分勝手に料理してなお「それでも気に入った」という偶然の結果によって好意を持ったにすぎず、ファンの「好き」は多分に手前勝手なものなのだ。

 まとめてみると、世で何かがブレイクするには二つの道しかない。



【その1】 交通事故



 これは、外部の何かの意図や操作、その他下心のある行為によらず、純粋に生み出したいものを生み出して、それがたまたま世のニーズとがちゃんことうまくぶつかって起きる。この場合でのみ、売れることを意識せずとも純粋な制作欲で生み出した作品が成功できる。

 ゆえに、この理想が高く自身の内的信念を曲げられない(何か言われるのが我慢がならない)タイプの人は、交通事故の一作が売れただけで満足したほうが賢い。



【その2】 人工的に何度も交通事故を生み出すために、協力的になる



 プライドをある意味捨てる、ということである。こんなんじゃ売れませんよ、面白くないですと売る側に言われてカチンとくるなら向かない。

 世の中は、あなたとは全く別の生き物なのだ。宇宙人だと思ってもいい。それくらい違う他人の群れの中でもてはやされたいなら、マーケティングとかリサーチとかいうことが必要となってくる。純粋すぎる作家さんは、これを嫌がる。マンガの「響」みたいな人間は百万人に一人いるかいないかの突然変異種なので、作家とはかくあるべしと一般化して考えないほうがいい。ほとんどの凡人作家は、申し訳ないが書きたいことだけ書いていたら早晩行き詰る。



 私は、交通事故で2冊ほど世に本を出させていただいた。

 今言ったように、交通事故であるということを自覚している。

 自己分析すると、私は売れるのに向いていない。書きたいことだけを書き、指示されて書くなどできない体質だからだ。だから私は今の状況を致し方なし、と思っている。書きたいことだけを書くということを貫く代償を支払っているのである。

 残念だが、私はNHK朝ドラの編集者の言うことには、それがたとえ筋が通った正論であっても従えない。だから私は、大勢に売れるという種類の成功や幸せはもうないが、書きたいことだけを書いて日々心静かである、という小さな幸せは受け取って暮らせている。

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