命への眼差し

 北海道旭川で起きた、14歳の女子中学生がイジメが原因で凍死した事件からちょうど二年がたった、とネット記事で読んだ。事件を風化させないためにも、二年というこの節目で改めて事件を世に問おうということだろう、朝から複数の関係記事を目にした。



 世界名作アニメの題材でも有名な『小公女』という児童文学作品で、主人公のセーラがこのように言うセリフがある。

「いじめっていうのはね、やっている本人もそう気分のよいものではないの」

 これは、いわゆる性善説を大前提にした考え方である。人は等しく、その心の中に「愛」「良心」を持っている。悪いことをすると、それがシグナルを発するようになっている。そしてあなたの心を居心地悪くさせ「本当にこれでいいのか?」「間違ったことをしているのではないか?」と考えるようにもっていく。

 だから、その考え方で行くと、心(本心)の声を無視して他人を傷付け続ける、あるいはいじめ続けるということは、その人が「不幸」になるというということだ。それは世間的成功とか経済的に問題がないという表面的なことが崩れるというより、心の内が貧しく、荒み、平和がないという意味での不幸であろう。

 もしも誰かが他人を傷つけ続けることができてしまうなら、それはその人がもともと持っているはずの「愛」「良心」が使われないために、サビついてしまっているからである。だから、そのサビを取るという話になる。

 昔のギャグマンガで、悪いキャラの心臓(ハート)の周りを鉄の球体が覆っていて、主人公から思いやりのある言葉をかけられるたびにピシッ、ピシッその鉄にひびが入っていき、最後の一言でパリーンと球体が崩壊して、むき出しの輝く心がパンパカパーンと現れて、いい人になるという描写があった。性善説は、イメージ的にはそういうものである。

 だからセーラは、いじめる側のそこ(人は本来善に生きようとする)に期待するからこそ、相手を単純に嫌わず戦い抜けたのであろう。



 だが、現実にはそう甘くはない。

 小公女セーラは、そういう考え方ができるという点で、心がけとしては素晴らしいが、それは彼女の人生がたまたまその考えでもうまくいったというだけで、それをもってあらゆるケースで事態を好転させられるものでもない。たとえば、今回取り上げた旭川の事件では「性善説」がほぼ意味のないものとなっているケースだ。

 いじめた同級生の一人への取材に成功したある記事によれば、事件の被害者の少女がいじめの末死に至ったということを知って「正直、別に何とも思わなかった」と述べている。

 もちろん、いじめて純度百%で気分がいいなんてことはないだろう。でも、セーラの言うように「気分が悪く」もなっていないのだ。もし仮にその言葉がやせ我慢だとしても、そのひずみはいくら隠してもどこかで出てくる。たとえばいじめたグループの一人くらいは耐えきれなくなって謝罪の意を遺族に述べる気になるとかあってもいいはずだ。王様の耳はロバの耳、みたいなことだ。

 世のメディア(特にゴシップ週刊誌)などは、鵜の目鷹の目でそういうネタは狙っているはずだ。なのに二年間何もない、ということは本当に平気な可能性が高い。

 この世界では、人によっては性善説が無力化するのだ。



 私たちは、鶏肉豚肉牛肉、魚も含め動物の肉を食べる。人間の生活のために、自然界の様々な生き物の命を奪う。

 でも、いちいちその犠牲に泣きながら生きてなどいない。むしろ当たり前のような顔をして、特に気に病むこともなく(ほとんどの人は)生きているはずだ。その犠牲(人への貢献)に感謝することはもちろんあるが、それで生き物の命を奪うことをやめるというところには行かない。

 なぜ平気かというと、同等(対等)の存在として見ていないからである。あなたは、自分の子どもや大事な知り合いの体が傷つけられたらギャーギャー騒ぐはずだ。ニュースで罪のない誰かが悪い奴にひどいことをされた、殺されたということを聞いてもやはり腹が立つし悲しいだろう。それは、対象の命を自分と同等のものとして見ているからである。

 考えるに、旭川の事件でいじめた側は、この「動物を見る視点」を被害者少女に使っていた可能性がある。自分と同じ人間であり命だという、性善説に基づいた人間観があれば、どこかで心が危険信号を発し、これでいいのかと落ち着かない気分にさせられるだろう。そうなっていたら「同級生が死んで何とも思わない」なんてことがあるはずがない。

 やせ我慢か強がりを疑う人もいるだろうが、メディアも聞き耳を立てていて、言うことが日本中に知られると分かっている取材の場においてそれが言えたというのは、そこで特に悩んでいないという可能性をさらに強化するものとなっている。

 いじめで最悪なのは、いじめる側が相手にこの「別の生き物」のような視点を持ってしまった時である。そのケースでは信頼とか相手も痛いんだとか仲良くとか、そういう倫理道徳的・教育的アプローチは全く無力化するので、子どもの心がとか人権がとかではなく力づくで、実力行使で問題を破壊するしかない。



 今の時代、隣りに住んでいる人のこともよく分からない。ましてやどんな気持ちで生きているかなど分からない。そんな時代にあって、私たちはよっぽど想像力を働かせないと直接知らない人たちの気持ちなど分からない。

 分からないから、今世で起きているような「匿名を笠に着たバッシング」が飛び交うのだ。自分が生きるだけで辛く精一杯なのは分かるが、だからといってそのうっぷんを他者を攻撃することで晴らしていいとはならない。相手の痛みを慮れるほどの想像力がないからこそ、できてしまうことである。

 私たちはこの事件の報道を聞いて「ひどい話だ」「こんな事あっちゃいけない」と言う。でも、そう言っているその人たちこそ、殺人には至っていないとはいえ「他者を対等の命として見ていないことによる言動」をしているかもしれないのだ。SNSや匿名の情報掲示板なんかに書き込んだりして。あるいは、リアルに気に入らない人間の悪口を噂として広めているかもしれない。

 この事件のいじめた側の子たちだけが責められるべきではなく、責めている私自身も「我がふり直せ」なのである。旭川の事件から二年という今こそ、自分のもつ他者への「命の眼差し」がどんなものか考えるよい機会なのではないか。

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