焦りは初心を忘れさせる

 毎年、年末大晦日に放送されるNHKの紅白歌合戦。

 もうこれは「合戦」ではないのではないか、というくらい競うという空気が薄まり、もうこれはタイトルを変えてもいいのではないかというくらい迷走している。

 私はずっと、この紅白を毎年絶対に見続けてきた。どんな評価があろうと、他人がどうだろうと必ずである。もちろん、アンチが言うような欠点はある。でも、私は大晦日の夜は紅白を見て新年の来るのを待つ、ということにハマっていたのである。

 近年は特に、年のせいもあって出てくる歌手の半分くらいは知らない。でも、「なるほど世間ではこういう歌も流行っているのかぁ」と知る良い機会にもなるし、知らない歌でもそれなりに楽しめたものだ。



 それが今年、初めて私に異変が起きた。

 いろいろ言われてきた紅白だが、去年まではずっと目を離さずに見れていた。しかし私は、気付けばいつのまにかスマホをいじっていて、TV画面に集中していなかった。去年までとくらべて今年のが特にひどいというわけでもないのに、今年はなぜか紅白の世界に引き込まれなかった。今回だけに限ったことではないが、筆者が紅白に醒めてしまった理由でいくつか思いあたるものを思い浮かべてみた。



●時代のせいか、ジェンダー(性差)ということに過剰に配慮することで番組が迷走している。男らしさ、女らしさということが堂々と言われ、それにほとんど文句が言われなかった昭和の時代。性別による役割が割とはっきりしていた。

 そんな時代に「紅(女性)」「白(男性)」とはっきりしたイメージをつけられ、その両陣営が競うという番組は成立した。しかし時代は流れ、今では通用しない。

 トランスジェンダー(持って生まれた体の性が、心の性と一致しない。 この自身の体の性に対して違和感を持つ人)への配慮も番組としてはせざるを得ず、あまり男は女はということを言えない。最近は個人ではなくグループ(ユニット)で歌う者も多く、その中には男女入り混じっていたりして、そこでもはや紅白の意味が薄れる。

 また、それをごまかすためか赤でも白でもない「特別枠」というのもバカにできない時間を取っていたりして、見ている方にはもはや紅白両陣営の点数がどうだろうがさほど興味は持たれなくなった。もはやどちらの勝利かなどほとんど皆どうでもよく、勝敗の結果はただの飾りである。



●こちらはじっくり歌が聴きたい。そのためにも、歌い手の良いところを最大限に引き出す演出をしてほしい。

 なのに、本人の周囲で他の出演者(特に若い坂道系女性アイドル)がにぎやかしに舞い踊るとか、ひどいのでは他の歌手も混じってくるとか。

 もちろん、年越しという気分のアガるイベントだから、お祭り的要素が必要なことは理解する。でも、それにも適切なバランスってもんがあるでしょ。今年のは、とにかく混ぜすぎ。やれこの歌手とコラボさせてみました、応援でこのグループが後ろで踊ります、などとにかく普通に聴かせない。

 一番私が嫌いなのが、けん玉ギネス。その挑戦の間の演歌歌手の歌は、まったく耳に入って来ない。その歌手には、歌い手としての誇りはないのか? 生き抜いていくために矜持を売ったのか? 大人の事情に全面降伏? 歌をちゃんと聴かれなくてもいいと思っている歌手なぞ、歌手を名乗るな。



 とにかく、紅白は昭和の時代にこそうまくハマった番組なのだ。社会が変容した今、潔く終わらせてしまうか、もしくは大胆に換骨奪胎することだ。ちょっとは時代に合わせようという努力も見受けられるが、とにかく中途半端なのだ。中途半端だから、高齢者と若者のどちらにも響きにくいという最悪の方向に行っている。むしろ今の紅白の構成だと、高齢者でも若者でもない中高年(40~50代)が喜びそうな感じ。実際、番組を作るお偉いさんもその世代が多かろう。

 埼玉県民にはその辺の草でも食わせとけ、ではないが局の高齢のお偉いさんは「流行っている若者の歌は分かるんだから、国民から搾り取って集金した受信料にモノをいわせて声をかけとけ」ってなもんだろう。そういう上から目線を感じるキャステングである。

 筆者は、集中できずスマホを初めていじってしまった今回の紅白を振り返り、NHKに「焦り」を感じた。



●焦ると、人はその焦りのゆえに方向違いの努力を乱発するするようになる。

 色々するのだが、そのすべてに首尾一貫したメッセージ性がないので、そのせっかくの努力が人の心に刺さらない。かえって悪印象すら与える場合がある。



 言葉を変えると、ブレブレになるということである。

 人は、自信がある時には自身の中の芯の部分をしっかり持ち、その確固たる土台の上で振舞える。そのため、その人物最大限の持ち味が分かりやすく発揮される。

 しかし人とは弱いもので、他人にそっぽを向かれたりお金が稼げなくなってくると、「えっ今までの自分じゃダメなん?」と急激に自分が今までしてきたこと、そしてこれからもこの路線で行こうと思っていることに関して自信が揺らぐ。

 揺らぐので迷走する。売れること、人の興味を引くことに走りがちになり、気が付いたら初心の自分はどこへやら、である。紅白も、年々視聴率が下がり(昔と同じに考えてはいけないが)制作陣も上からハッパをかけられているのだろう。そのプレッシャーのせいか、頑張ってはいるんだろうけれど空回りしている。

 現NHK会長が、今の紅白の現状に注文を付けるような内容をインタビューで語った。「紅白は(司会の橋本環奈が好評だったが)司会者でもっている番組じゃない。歌番組なので本当の意味で歌をしっかりと届けることをお願いしたい」と意味深に語った。これには制作陣も心臓が縮みあがったことだろう。ちなみに、今度の紅白の視聴率は過去のワースト2位という結果だった。



 自分にも、他人にも当てはめて応用できる。この「やってることの方向性がブレだすのは、焦っている証拠」という考え方は。

 いつの間にかズラされるのだ。何事も、駆け出しの一番最初が一番輝いている時期かもしれない。売れていって、いろんな他人がからみ大勢の人の利害が絡んでくると、もう自分の思いや都合だけでは動けない世界が待っている。そこで生き残るために焦りが生じ、自分が一体何をやっているのか分からないという心理状態になることさえあるだろう。



 筆者も、一度知名度が上がって「浮き沈み」というものを実際に体験した。

 私だって生身の人間なので、それまであった収入が激減すると、まったく焦らないと言えばウソになる。でもそんな時、私は原点に立ち返った。



●そもそも最初僕はどうしたかったんだっけ?

 心に降ろされたメッセージを表現して伝えたい、ってことだった。

 結果大勢に見てもらえるとかそれで食べていけるとか、その出だしでは重要じゃなかった。でも状況が変わってくると、本質ではないところで考えなきゃいけないことも増え、そして体裁を維持するために迷走するはめになる。

 そうか。もともとメッセージを発表することそのものが目的だったのなら、そこだけでいいじゃないか。何を焦る必要がある、あとのものは全部おまけだし!



 だから私は、焦って人気維持のための工作をすることもなかった。人脈を頼ってすり寄ることもなかった。今私が幸せなのは、一番大事な原点を、初心を忘れず守れているからだ。それなくして富や名声を得ても、それは私の望む幸せの形ではない。

 焦り、というのが初心貫徹における最大の敵なのだ。焦りと恐怖が、せっかくの努力をとんちんかんな方向へ走らせる。もっと怖いのは、それがまかりまちがって世間にウケてしまうことである。そうしたら、その迷走に「正解だった」というお墨付きがついてしまい、結果その人物はそれを正しかった・成功だと認識してさらなる迷宮へ入っていく。

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