依存からの脱却

 筆者はその昔、旧統一教会の一信者であった時期があった。3年程度のことではあるが、それはもう良くない意味で濃密な三年間の「やらかし」であった。親にも、自分自身にも迷惑をかけ、人生で体験するすべては等しく「学び」であるとはいえ、ひいき目に見てもその体験自体は人生のマイナスとなっている部分は否定できない。



 実に強烈な人生体験であり、刺激的なネタになるエピソードはいっぱいあるが、お話としては地味でも皆さんに伝えて意味のある体験をひとつお話しよう。

 この宗教には、厳しい性の掟がある。旧約聖書の人類始祖・アダムとイブの失楽園の話を、神様を無視して自己中心的な性関係を結んでしまったことだと解釈するからだ。禁断の木の実を「取って食べる」のは、実は性的関係を結ぶことを言いかえたものだとするのだ。

 だから、この世界は神様を無視した世界、すなわち神様の「食べるな」という言葉を無視するようそそのかした蛇(サタン)の支配する世界になってしまったのだ。

 ゆえに信者には、自分が好きになった人との自由恋愛は認められていない。教祖様の決めた結婚相手と暮らせるようになるまでは、一切異性の信者の体に触れてはいけない。もちろん、エロ本やAV見ての自慰行為などサタンに屈することとして建前上は「やってはいけないこと」に分類される。

 筆者は、若い血気盛んな男性信者がどれくらい実際にこれを守れているのか甚だ疑問である。どだい無理だと思うので、裏では皆が陰で色々涙ぐましい工夫をしているものと思われる。



 徹底的に男女間の間違いを排除しようという教団の意気込みはすさまじく、教会にある食堂では、男性用の箸や食器と女性のようのそれとが完璧に分けられていた。間接キスすら防ぐ。もちろん、基本洗ったものを使うのだから問題ないように思えるだろうが、禁欲をしている人間にとっては「これはもしかしたら女性が使っていたかもしれない」と考えるだけで、心のほころびとなってそこから崩れていく。

 事情のゆるす信者は基本(というか極力)教団の寮での共同生活を強いられる。もちろん、日常生活で男女の生活エリアは明確に線引きされ、一歩たりとも別の領域に入ることは許されない。洗濯物も、絶対に触られても見られてもいけない。



 皆さんが聞いたら笑うだろうが、信じている信者は大まじめである。私も、真面目に信じていた。たまにふらっと自室のある実家に帰った時、部屋には未信者時代に持っていたエッチな本があったことを思い出し、思い切り欲望を発散させた。そのあとで真面目にも大変な自己嫌悪に陥ったことを思い出す。神様、もうしません!と。

 そんな修行僧並みの禁欲生活をしている最中のエピソードである。

 生きていたら、当たり前だが髪の毛が伸びる。伸びたら当然カットしにいかねばならない。筆者は、寮近くの駅前にあるある理容店をいつも使っていた。老夫婦がやっている店で、たいていは店主のオヤジが切ってくれる。オバサンがたまに手伝いで洗髪をするが、相手が性欲のセの字も湧きそうもないオバサンなので、頭を洗われても「まぁ別にいいだろ」と考えていた。教団の教えではとにかく「女性(誰であっても!)に触れたらダメ」なのに、面白いところで筆者はいい加減であった。



 そんなある日のこと。髪が伸びたので切りに行ったら、見慣れない人物がいた。いつもなら老夫婦が「いらっしゃい」と言ってくるのだが、その時いたのはオヤジと、オバサンは居ず代わりに若い女の子がいた。多分大学生、見ようによっては女子高生でもおかしくはない。もしかしたら、老夫婦の孫? とにかく個人の主観では、社会人に見えなかった。

 超美人でもないが、そこそこカワイイ。クラス1のかわいこちゃんではないが、三番手くらい。サザエさんで言う「かおりちゃんではなく早川さん」あたりの位置づけだろうか。ああ、私は何を言っているのだ……

 常連ではあるが、客と理容師が親しく話すような店ではなかった(筆者は終始無言で、むこうも無理に話しかけてはこない)ので、その子は何だと聞くこともできない。でも、やがて恐れていた(心のどこかでは期待していた)ことが起きてしまう。

「洗髪、スタッフ交代しますね」

 なんと、初めて見るその女性がオヤジに代わって、筆者の髪を洗いだしたのである! 普通の男性ならそこまで大したことでもないだろうが、「異性に触れるのはご法度」という縛りのある統一教会信者には、まさに「これどうしよう!」である。

 まさか、断るわけにもいかない。そりゃヘンだ。女の子に頭を触られてはいけない理由を説明する姿を想像したが、めちゃ滑稽であり得なかった。道ですれ違いざまに体が触れてさえいけない世界にいる者にとって、かわいい女子にじかに頭を洗ってもらえるなど、刺激が強すぎる。



 筆者は、本当なら悔い改めの祈りをしなければならなかったし、懺悔ものであった。禁忌を犯しているのだから!

 でも、その時の気分を正直に言うと「天にも昇る気持ち」であった。彦摩呂ではないが「しなやかな女性の指が奏でる、ピアノ連弾のシンフォニーや!」とか心で叫んでいてもおかしくない気分だった。とにかく、身をよじっていやがったりしなかった。むしろ、この時間がもっと続けばなどと不謹慎なことを考えた。

 どうもこの女性店員は、洗髪だけ任されているようで、顔剃りはオヤジだった。でももし、顔剃りもあの女性だったら、髭剃り時に唇とかにも触られるわけで……もしそうなっていたら、私は教義と男としての本能との間で壮絶な葛藤をしていたに違いない。

 その女性は、その時ともう一回の計二回店にいた。でも、それより後には姿を消し、私が教団を抜けるまで二度と会うことはなかった。もしかしたら老夫婦と同じように理容か美容師を志す孫が、たまの休みに一時手伝っただけかもしれない。とにかく、まったくの他人を雇った感じではない。



 信者時代のことは私にとっていわゆる「黒歴史」ではあるが、当時のことはよく思い出す。なぜ、あの時あんなに「いけない気持ち」になれたのだろう? と。信仰上明らかにいけないことなのに、望んでしまった楽しんでしまったことはどう心理分析したらいいのか、と。



●それが自然だからじゃね?



 当たり前のこと。

 人間には男性女性がいて、生物学的なこともあるが、互いに惹かれそして触れ合うことはまさに人の営みである。もちろん社会性のある生物なので、欲望の赴くままというわけにはいかないが、互いに惹きあう感情があるからこそ、互いの関係の段階に応じた距離の取り方をする。親しくなれば、笑って相手の肩だって叩くだろうし。

 要するに、教義が間違っていたのだ。当たり前の、自然な人としての在り方を禁じるなんておかしい、と考えられるべきであるのだ。でも、それを言えるのはどうしても抜けてからになる。だから元信者の私としては、教義にがんじがらめになる前に、自らに問てほしいのだ。



●本当は、あなたはどうしたい?



 でも、これが問えないのだ。自分は取るに足らぬ者、自分から出てくる考えなど間違っている、すべては神様(教祖・そしてその説くところ)に従っていたら間違いないんだという妄信が根付いているがゆえに。



 ある本で、この世界は一部の権力者(富裕層)と貧困者に分かれているというのは正確ではなく「一部能力のある支配者と、支配されているほうがむしろ楽とその立場に甘んじているその他大勢」であると書かれていた。

 要は「依存」である。確かに、支配されていいことばかりではないが、そこで生じる不満や不便を差し引いてもなお、すべて決めてもらったほうが楽というところから、人は被支配者であることに甘んじるのであろう。

 生物の、人間としての「性」という素晴らしい贈り物を、幸せな営みの根幹に関わることをとんでもない理屈で縛るなど、本来はあってはならない。宗教二世は色々な悩みがあるが、その一番のものは「自由恋愛がゆるされない」ところではないか。親の言うことを聞いていたら絶対にそうなる。

 身もふたもないことを言えば、旧統一教会のような宗教に引っ掛かるのは、自分の大事なことを自分で決められない「依存」がその人のなかにあるからではないか、と思う。そりゃあなたは精神的にまだ成熟しきってないかもしれないし、まだまだ学ぶべきことがある段階かもしれない。だからって、自分で決めちゃダメってのはおかしい。どんなあなただろうと、あなたの人生の主人公はあなたなのだ。



 責任さえ持つなら、自分の人生のことは自分で決めていいという自身への肯定感を皆が持てるまでは、おかしい宗教に引っ掛かるという問題は起き続けることだろう。

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