何かの真実などほとんどの人にとってはどうでもいい

 新春番組では毎度おなじみの「芸能人格付けチェック」。

 ガクトが連続正解記録を伸ばしているが、それがいつまで続くのかに関心が集まっている。世にはそこに「やらせ」を疑う派と、いいやあれはヤラセじゃない実際にああいう能力は磨ける、本当だ派とがいる。

 人に注目してもらってなんぼで、それが稼ぎに直結するとなると(完璧はムリだが)やらせも考えられる。



●人は弱ければ、表向きをきれいにしておければ裏が汚くても「その表がきれいなことできれいだと勘違いできる」能力が発動する。

 そういうタイプの人には、良心の呵責はない。(ないというか、長らく使われていないのでサビついて作動しない)



 でも、ガクトの連勝が本物だと擁護する人たちもいて、中には「自分も(自分の知り合いも)そういう判定が完璧にできる」と主張する。一般人はカネがないのでそういう能力を見分ける練習のしようがないが、食材にしろワインにしろ一流の音楽と素人の違いにしろ、コツというか見極めが可能だという。

 ただここで忘れてはならないことがひとつ。



●実際にそのような能力を身につけることが可能であるという事実が、ガクトの能力がホンモノであるという証明にはならない。むしろ関係がない



 それでは、世界にたったひとりでも「できる」人がいれば、そのできる人がいることを盾にできるように見せかけて「している」という詐欺が可能だ。

 ただ、「あれはヤラセ」「あれは本当にやっている」という議論の裏で、それを冷淡に見る第三者がいることも忘れてはならない。というか、大半の人はそれに当たるだろう。



●そんなこと、ウソでも本当でもどっちでもいい。



 要は、エンターテイメントとして楽しめればよく、その実がどっちでも関係ない。実際、ガクトが本当に一流を見分ける能力をもっていようが脚本のあるヤラセだろうが、それが今のあなたの幸せや生活に何の影響もないだろう。番組の関係者でもなく、ガクトに一生会える縁もない一般人にはクソどうでもよいことだ。

 いちばんまともでいられるのは、言うまでもなくこの三番目の姿勢である。真実がどうか裏の取りようもない一般人は、好き嫌いや感情論でホンモノニセモノを語る愚を避けて「本当のところは分からない」「というかどっちでもいい」にしておくほうが一番在り方として賢い。



 宗教でもスピリチュアルでも、よく「それが真理であるか」「ホンモノであるか」などということが問題にされる。

 そんなもの、分かりようがない。悟ったとか神に出会ったとか言われても、100%ウソだという証明が外部にはできない。そのできないのをいいことに、確信犯的に名声を得よう(儲けよう)とするやからもいる。

 だからもう、特定の宗教やスピリチュアルが本当に宇宙の真理なのかモノホンなのかは、この際どうでもいいことにしないか? ただ、次の基準だけを設けよう。



①やっていて楽しいか。幸せか。

②他人に迷惑をかけていないか。(経済的・物理的)



 これだけでいいんじゃないか。

 真実かどうか追求するタイプの人は、まことに面倒くさい性格に生まれついたものだとご同情申し上げる。根っからの「本質思考コネ回し好き」人間なので、もう止め立てはしない。

 筆者的には①だけでもいいのだが、この世には「正しければ、多少世の中に迷惑をかけても仕方がない」「迷惑だと思うのは、こちらの本当の価値を分からないからだ」という考え方をする人たちが、悪気なく最悪の実害を与えてくるケースがあるため、仕方なく設けた基準である。

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