呪術廻戦

 私がこのマンガ(アニメ)の存在を知ったのは、鬼滅の刃がブーム真っ盛りの頃だった。今では、続編の制作に時間がかかっており(あのクオリティを下げないためには仕方ないのだろう)、そうこうしている間に世間の鬼滅への熱は落ち着きを見せてきているが。当時、鬼滅の人気の影に隠れるように「呪術廻戦はポスト鬼滅か?」と注目を促すようなネット記事に触れ、何も知らない筆者はそのタイトルと呪いというものを描いた作品だということだけをもって「鬼滅ほどではない」という印象を勝手にもってしまっていた。



 確かに、少々癖のある作品ではあるが、実際に見てみるとただ面白いだけのアニメとは違い、そこには宗教的・スピリチュアル的な命題も込められ問われている。やはり大ヒットする作品は単にキャラが立っているとかストーリーが面白いというだけでなく、「何を問われているのかと聞かれたら分からないけど、何か問いかけられている気がする」部分があるのではないか。



 劇場版の中で「愛ほど歪んだ呪いはない」という言葉があった。

 確かに、見た目に分かりやすい「呪い」があり、それを祓う特殊な力を持った者が少数の「呪術師」である。でも、「愛も一種の呪い」だと考えると、すべての人間が呪いをかける側であり、またすべての人がその呪いに向き合う「呪術師」であると言える。

 かの有名な陰陽師・安倍晴明は「言葉は呪(しゅ。呪い)」だと言った。愛どころか、言葉すら呪いだというのだ。この世界で、何かの対象を概念として定義づけして名付けるとすべて呪いとなり、「今日は寒いねぇ」と言えばその何気ない言葉すら呪いである。概念化・言語化はすべて呪いである。

 私たちは、呪いと聞くと一方的に「悪いもの」しか連想しない。しかし、それはよくよく考えれば生活の一部であり、避けられないごく当たり前の日常行為であることが分かる。あなたを好きだよ、愛しているよも呪いだ。勉強ちゃんとやらないと将来ろくなことにならないよ! も呪いである。



 日々、呪ったり呪われたりの連続である。

 ならばその呪いを、言葉の印象通りの「ドロドロした良くないもの」にするのではなく、良い効果を生むものにすればよい。ようは使いようである。包丁は、人を刺せば悪いことに使われることになるが、料理をして提供すれば良いことに使われたことになる。どちらも、ものは同じ包丁だ。

 愛と憎しみは紙一重、というのもこの作品を見ていたらよく分かる。ちょっとのボタンの掛け違いで、ちょっとの考えの違いで、好きはいとも簡単にキライに変わり、またその逆も起きる。だから人生は読めないし、面白い。

 ここも、日々言葉を綴っている以上呪いの一種である。ただ、それが読む皆さんにとって「良い呪い」となればいいなと思っている。

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