今際の国のアリス

 Netflixのオリジナルドラマ。ヘンなタイトルだが、『今際』とは「いまわ」と読む。死に際とか最期とか、「もうこれっきり」という状況を指す言葉である。

 主演は山﨑賢人・土屋太鳳。現在はシーズン2が視聴できる。マンガ原作では、このお話は結末まで描かれ完結している。



 ある日突然、主人公を含む大勢が不思議な世界へ飛ばされる。

 そこは東京には違いないのだが、飛ばされてた人間しか存在しない。その中で、命がけのゲームに参加し続けなければ死ぬ、という現実が待っていた。

 この物語は、わけも分からずそんな世界に飛ばされてしまった主人公の、生きながらえて元の世界に返るまでの命を懸けた戦いを描いたものである。ネタバレになるので言わないが、主人公たちがなぜそんな世界へ飛ばされたのか、そもそもなぜそんな世界が存在するのか、そしてどうしたら元の世界に戻れるかなどは最後に明かされるが、そこは感想が人それぞれになるだろう。「なんじゃそら」と拍子抜けするか、「よく考えられてるな」と感心するか……



 元の世界に戻ろうと必死の主人公たちの前に立ちはだかる強敵キャラで、キューマ(ドラマでは山下智久が演じる )という人物がいる。

 彼は問いかける。「元の世界がそんなにここよりいいか?」

 今我々が現実に住んでいる世界は、はりぼての「安全」「平和」の上にあぐらをかき、目先の利益や保身で動く、判で突いたように同じ毎日が繰り返される場所になっている。そんな中では、誰しもが自分のむき出しのホンネ(本性と言ってもいい)に向き合うことなく、また自覚する機会もない。いや、そもそも自分が本当にはどんな人間なのかすら分かっていない。

 主人公たちが飛ばされた世界は、殺し合わなければ生きていけないという点で、悲惨な世界とは言える。ただ、そこでは地位も名誉ももともとの経済状況も何も意味をなさず、命がかかっていることでただ「むき出しの人間性」がそこに現れる。

 その本性と本性とのぶつかり合い。それこそがいいのだ、本来なのだとキューマは主張する。あるべき姿なのだと。元の世界での自分たちは、安全で快適かもしれないが本性をがんじがらめにされ骨抜きにされ、「飼われている」ようなものなのだと。

 彼のこの問題提起に対して、筆者の答えはこれである。



●それでもこの世界(元の世界)のほうがいいよ。



 キューマの指摘はごもっともである。ただ、江戸時代にこんな狂歌があったのを皆さんは覚えているだろうか。

『白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき』

 綺麗すぎる水の中では、魚は生きられない。江戸中期、松平定信が行なった「寛政の改革」がわずか6年で幕を閉じたのは、民衆による強い反発によるものだった。厳しい財政改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたことが原因だった。たとえ腐敗政治だったとしても、生活も豊かで文化も花開いた以前の華やかな「田沼時代」が恋しいと、わいろ政治で失脚した老中田沼意次を民衆は懐かしんだのだ。



 確かに、うそのない極限状態や全力で生きなければならない環境は、普通なら気付きもしなかった自分のある部分に気付かせる。その体験は貴重だと言えばまぁ言えなくもない。ただ——



●そんな気付き、人を殺めてまで、自分を追い込みいじめてまで得るものではない。価値がないとまでは言わないが、払った犠牲ととうてい釣り合わない。



 筆者は、人が幸せであるという状態にあえて順位をつけてみる。



【1位】


 自分の本性に気付き、なおかつ生きている環境が安定していて恵まれている。環境が安定してる場合、正味の自分(自分の人間性の余すところなくすべて)を知れる可能性は限りなく低いが、まれに極限状態におかれずともそこを知れるシナリオの人がいる。



【2位】


 試練がないため、極限状態に置かれた時の自分の本性など分からない。環境が安定していて人生の最後まで自分の醜い部分を見ないで済むので、それなりにいい思い出をもってあの世に行ける。



【3位】


 人生に大変なこと、きついことが起きまくり、人というもののあられもない姿を目の当たりにする。そこでいやでも「人生とは、生きるとは何か」「この世界とは何か」という命題に真剣に取り組まざるを得なくなり、人として深まる。深まるが、いわゆる「幸せ」ではない。



 1位は本当にレアなので、多くの人はあきらめたほうがいい。釈迦やキリストさえ、想像を絶する苦労を経たのだ。

 筆者が大勢におすすめするのは2位である。実は、悟りとか意識の目覚めとか、そんなヘンな議論さえ持ち出さなければこれが1位でもいいくらいだ。

 いくら精神的成長のためだろうが意識レベルを深めるためだろうが、不幸を買ってまでもするものではない。向こうから不可抗力で襲い掛かられる分には立ち向かえばいいが、自ら呼び込むことはない。



●人は基本的に、本当の自分(極限状態に置かれた時に何を選択する自分か)など知らないほうが幸せである。



 一部の真剣宗教・真剣スピリチュアルでは「表面的な平和や快楽よりも、たとえ苦しくても人生・宇宙の本質に目覚めることのほうが本当の幸せ」みたいに言う。先ほどのキューマという人物の意見もそれに近い。

 でもやっぱり、大勢多数にとっては「この世界に幸せになりに来た」のだ。そしてその幸せとは皆がイメージする甘いものでよいのだ。

 私は、目覚めた立場からそこに「ちがうよ!」と苦言を呈するつもりはない。確かにこの世界には一定数、釈迦やキリストみたいに「現世での幸せ・快楽を捨ててでも本質的・精神的な深遠な境地に至ることを目指したい」タイプの人種が存在する。そういう人たちを止めはしないが、ただ他の人たちに上から目線で「皆さんの考える幸せがいかに浅いか」を説いてはいけない。説いた瞬間、その人物がいかに深い洞察の持ち主でもクソ野郎に成り下がる。

 この世界で、分かりやすい幸せを犠牲にしてでも本質的なものを求めるのは、そのような星のもとにうまれついたやつだけでいい。3位が2位になるような人種は、独自に頑張ってくれたらいい。間違っても、逆の価値観の者を説得しようとしてはいけない。

 キューマが腐す「元の堕落した世界」こそが、実は人類の楽園なのである。もちろん、ある程度の改善がないと困る部分はあるが。



 なんと言われようが「元の世界に帰りたい」と願う主人公は、なんら間違ってはいない。知らずにすむ幸福も確かにあるのだ。

 真実を知ってこそ、痛みがあってもそっちのほうが本当の幸せと捉えられるのは、相当の覚悟を持った者だけだ。人それぞれだというのに、この世界に大勢いる皆にその基準を要求するのは酷というものであろう。

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