犯人のいない推理小説

 長野県の青木島遊園地が廃止されるというニュースが話題になっている。

 話題の中心は廃止そのものではなく、それが「たった一軒の住人からのクレーム」が引き金になったものだというところで、人々の関心と議論を巻き起こしているのだ。メディアはこぞって「たった一人のクレームのせいで子どもの貴重な遊び場が奪われるとはなんということか」という論調で報じるので、それに乗っかって人々は「子どもは遊ばせてやるものだろ」「うるさくても多少は大目に見てやるべき」とこのクレームを出した住人に非難が集中。

 しかも後追い報道でこの住人が教育関係者(国立大学の教授職を定年退職)であることも、バッシングに火を注ぐ形となった。子ども教える立場の者ならば、もう少し子どもの成長発達に理解があってもいいのでは? こんな懐の狭い人間が教育を担っていたなんて世も末だ、等々の声が上がった。



 この件を筆者は『明確な犯人のいない犯罪事件』のようなものであると受け止めた。ミステリー小説(推理小説)の世界においては、作者が守るべきお約束のようなものがあるらしく、内容にいくつかの禁じ手というか、やっちゃいけないことがある。「犯人がいない(自然現象のせい、等々)」「動物が犯人」「探偵(事件を追う側)が実は犯人」等々。この遊園地廃止という事実が生じる過程で、クレームをつけた住人だけが100%の原因ではない。実はすべての登場人物が犯人だと言える。いや、そんなの困ると言うなら「犯人は誰もいない」と言うしかない。



 さて。遊園地が現実に閉まることになるのだが。

 この件で誰が一番得をしたのか、である。

 犯罪事件を解くカギが「それによって誰が一番得をしたのか」を考えることであり、それによって犯人が導き出されやすくなるのだが、この一件に関しては——



●純粋に得をした者が誰もいない。



 ちなみに、クレームを入れた住民はインタビューで「廃止決定はびっくりした」と言ってるのである。報道だと、めっちゃ遊園地廃止してほしいと言ってるような印象だったのに、本当にそうなるとむしろ驚くとか、聞いているこっちが驚く。

 よくあるじゃないですか。クレームの内容そのものが通るかどうかはどうでもよく、クレームを入れること自体が大事というか生き甲斐という人が。だから、いざクレームが現実に取り上げられ対処されると「え、そこまでは……」となってしまう。

 18年間ですよ? それだけ長い間クレーム入れ続けておきながら、いざ本当に廃止になったら驚きって、大学教授という立場にありながらその程度の甘い人生観しかもっていなかったのか。精神性の幼い子供が、気に入らないことがあって「お母ちゃんなんて死んじゃえ」と言って、本当にその通りになったみたいなことだ。本当に死んでほしいわけではないけど、そのように言うことで自分の不満を表現しているんだが、怖い話だ。筆者は過去に、ちょっとしたケンカで母親に「いなくなってしまえ」と言った直後に母親が本当に事故に遭って死に、その後十字架を背負い続ける子どもを描いた短編小説を書いた記憶がある。ここのどこかにも収録されているので、興味のある方はお探しを。(笑)

 ちなみにこの、自分の言い分が通って実現した元教授様、身元特定されバッシング被害に遭っているのだとか。得をするどころか、本当には望んでいないことの実現と引き換えに大変な目に遭って、実に割の合わない事態となった。



 その他にも、色々な事実が複合的に重なって、遊園地廃止という事実は生まれた。

 実際に、うるさいだけでなくマナーを守らない客もいた。近隣住民も、現実の被害はたくさんあった。野球のボールなどが家に飛び込んできたり、植え込みが荒らされたり、夜間に花火の音がしたり。駐車場のエンジン音や排気ガスも迷惑になったという話もある。

 で、行政側もたった一人のクレーマーのせいで振り回されたかのように印象付ける報道がなされているが、ただ大学教授が「悪目立ち」しただけで、決して一人の声ではないし、ただ住民だけが迷惑で遊園地が利益を上げていたら、儲け主義のこの社会では「潰さない方向で」何とか考えたのかもしれないが、借地でかなりの大金を税金として払わなければ維持できない状況で、苦しい運営だったようなのだ。その事実も「あ、それならちょうどいいじゃん」と、渡りに船になった可能性がある。

 文句言われるくらいなら、いっそのこと閉めちゃえ。喜ばれないのに無理して続けてても何の得もないしね! という感じで。

 さらには、視聴数閲覧数を稼げて話題になればいいメディア側は、刺激的な一部の情報を切り取って強調し、煽るような記事を書く。それに刺激された正義感のある(コメントの世界でだけ)人間が、けしからんと騒ぐ。

 クレームを入れた住民。それを受理した行政。自分さえよければよかった、ちょっとマナーの悪かった利用者。そのすべてを都合のいいように料理し、煽るマスコミ。そのどれもが犯人であり、決定的な一人だけを犯人と言いたいなら、それでは誰もいないことになる。



●悲劇とは、たった一人の明確な犯人だけが起こすものではない。いや、その人物の力だけでは起きない。

 その周囲にいる大勢も、ちょっとずつその悲劇に一枚嚙んでいる。それは、噛んでいると本人に自覚させないほどの小さなものであることが多い。そのちょっとずつのカードが貯まって束となり、ついに一定の枚数に達して悲劇が起きる。

 その時、誰の眼にも分かりやすい人間が犯人として血祭りに上がり、他は被害者か無関係者として忘れられていくが、本当は皆無関係ではない。だがこういうことが繰り返され、人は己の罪に気付かず、自分を善人だと信じて生きていく。



 ゆえに、この世において悲劇をできるだけくいとめるためには「ちょっとくらい」「自分くらいであれば大事にはならないだろう」という甘い楽観的観測をしないようにし、逆に「自分が気を付けることで、大きな悲劇が防げるかもしれない」と考えることである。周囲に流されず、とりあえず自分は胸を張れる選択をすることから始めるのだ。

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