時代はやさしさに追いつくだろうか

 実業家で有名なイーロン・マスク氏が買収した米ツイッター(Twitter)で、全従業員7500人のうち半数を解雇したことが報じられた。

 このニュースに寄せられる日本人のコメントの多くは肯定的なものである。解雇された側を思いやるような(肩を持つような)意見は非常に少ない。年功序列が強く流動性の少ない(転職歴がアメリカと違い有利に働かない)日本で、生産性が上がらない現状を踏まえてそういう意見になるのだと思う。でも一部、「そういう風に考えるのがカッコイイ」と勘違いしているような人もいる。



 この議論はたいへん難しい。それぞれがまったくバラバラな立場から、まったく違う身の上事情からしゃべるともう収拾のつかない話なる。一見、どれにも一理ありどれにもその立場なりの正当性があるからだ。今安定した経済状況にいる人とそうでない人で違うし、アメリカを知っていてその雇用状況を肌で知っている人は「それはそれでむこうは普通なのだ」と思えるだろうが、こっちではそうではない。

 あと、ツイッター社の今回の大量解雇に肯定的な人の考え方の根底にあるのは「働かざる者食うべからず」「無能は消えろ」である。

 小学生の頃、先生がクラスを出席番号順に6つのグループに分け、課題を与えグループで成果を発表するよう命じた。グループ内には当然、勉強のできる子もいればできない子もいる。リーダーシップや積極性のある子もいればない子もいる。勉強もできない、積極性もないだと当然グループ内で「お荷物」になる。

 こういう時、グループが辿る道には二つの可能性がある。ひとつ、そのお荷物を無視してできる者ですすめ、先生の手前一応皆でやったことにしてこの場をしのぐ。発表さえ終わればもうグループは解散なのだから。ふたつには、このお荷物さんに関わって「皆でやりとげよう」とする道である。こんな子ほっとこ、ではなく「どうしたらできるようになるか」「そもそも何だったら力を発揮できるか」を考えてあげ、何とか参加させる努力をする。




 今現在の社会でなされているのは「一律教育」である。

 すべての子どもが、まったく同じ場所でまったく同じ内容の教育を小中高の期間ずっと受ける。できる子は良い子、できない子は「何か問題がある」ことになる。

 まれに勉強以外のすごい才能を発揮し、学校教育の出来不出来がその成功にあまり関係のない人物も出てくるが、それだって能力を引き上げてくれたり、気に入った人物を世に出せるような力をもった人間に目を付けられるかどうかなど「運」に左右される。そういった成功は縁(えにし)に依るところが大きく、決して本人の努力や実力だけで達成されることはない。

 ここに、我々が属する社会の抱える矛盾というか欺瞞がある。

 そんなに能力主義を叫ぶなら、効率を叫ぶなら。皆が自分の得意を見つけ発揮できるような教育体制を整えるべきだろう。すべての子ともに同じ教育を施しておいて、そこで優劣を図る教育をしておいて、卒業したらまったく態度を変えるなど矛盾している。皆どこかに就職しないとと必死なのだ。どこの誰だ、選ばなければ仕事などいくらでもあると言ったのは! その同じ口で「無能(そこで成果をあげられない人)は去れ」というのは頭が悪すぎる。



 ひろゆき氏がよく「無能」という言葉を使う。これは確かに、いい響きの言葉ではない。誰にとっても「悪口」に聞こえるだろう。

 だが、筆者は彼の口から無能という言葉を聞く時、そう悪いニュアンスには聞こえないのである。筆者は、ひろゆき氏の使う「無能」という言葉を次のように変換して解釈している。



●この社会での「無能」とは、画一的な教育をされてきてそこにはまれず評価されてこなかった人で、自分の長所を生かすすべをその義務教育期間中に見つけられなかった人。ダメだ、ダメだと言われ「ダメなのか」と思わされてきたからである。

 でも生きていく以上何かの仕事に就かねばならない。長所も分からず(あとでいきなり分かっても年齢やキャリア的にすでにアウト)、仕事も選べない中なんとか働けたその場所で、やはり学校教育時代と同じ評価を受け、お荷物となってしまう。

「無能」の多くは、その言葉の響きとは違い「本人なりに一生懸命」である。ただその懸命さをそう得意でないことの実績に結び付けるのがうまくなく、有能からは「何もしていないゴミ」に見えてしまう。



 筆者は思う。生産性を上げる、最大効率を求めることを至上とすれば、ツイッター社の大量解雇は当然だし、問題ないことだろう。

 ただ、そうするなら同時に「同じだけの次の受け入れ口、チャレンジの受け皿」も用意しておかないと話にならないだろう。そこまで効率を言うなら。適材適所、生産性のない(適性のない)荷物は去れというなら、そういう人が能力を発揮できる場所を見つけられるシステムを、すでに子どもの時分からつくるべきではないか。

 確かに学校では進路相談というのはあるが、その面談の20分程度「この子は何が向いてるか」話すという超申し訳程度のことで済ますなどバカにしている。そのほかの膨大な時間、学校学習という物差しだけでその子を語っておいて何を言う?

 中には「日本がおかしいだけで、海外ではこういうのは当たり前」という人もいる。でも、ニュースではこう言っていますよ?

『ツイッター上では、世界各国で解雇された元従業員が憤りやショックを表明する投稿が相次いでいる。』(AFP=時事)

 ほら、どこが解雇に「慣れて」いるんでしょうか。普通だという空気なら、なぜこんなにも海外の人が悲痛を訴えるんです?



●時代が『やさしさ』に追いついていない。



 働かざる者食うべからず。

 今の日本の会社は有能が無能を養っているようなもの。

 なんでオレらが、そういうやつらのしりぬぐいをしなきゃならない?

 やめてもらってせいせいするわ! そうなったらバリバリ生産性も上がって、会社は安泰だ!

 もう、やめないか。右肩上がりの発展を世界で一番よいこととするのを。

 筆者は、次の言葉以上に大事なものを知らない。




●みんな、なかようせなあかんよ



 いつから人類は、成果や発展のために人自体を犠牲にしたり優劣をつけたりするようになったのだろう。人こそが世界を作ってるというのに。

 なぜ、助け合おうと思えるような余裕すら奪ってしまったのだろう。無能は去れとか働かざる者食うべからずと言う人だって、その人自身の抱えるしんどさがそう言わせる部分もある。もっと生活に余裕があれば、もともとは「どれ助けてやるか」と思える人たちだったはずだと思う。

 無能を無能のままとし、レッドカード出してあとは自己責任で放置、という社会は成熟した知的生命の社会とは到底言えない。無能をどうやって「違うところに光を当て実はできる人であることを発見する」ことができるかが課題なのだ。

 みんな仲良く、という簡単なことができない、煮詰まったシステム化社会。その「みんな」は文字通りのみんな、である。ツイッター社の解雇を「営利目的の会社なら当然」と格好良く言うだけでなく、どうやったら一人でも多くの人がストレス少なく社会参加できて生産性が上がるか、を考えてほしい。

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