突き抜ければ感謝に

 大手動画配信会社のNetflixが、今度新たに広告付きの安価なプランを提供するという。現存するスタンダードなプランの半額よりちょっと上の低価格になる。月額790円ということになるが、表面だけを見ればこれ「うわぁ、安くなってお得! いままで高いから敬遠してたけど、これなら加入してみようかな」と思う人がたくさん出てきてもおかしくはない。

 筆者でも、月790円と聞けばまぁ加入のハードルは下がる印象だ。高額なら元が取れるかとか家計の圧迫とかを心配するが、3ケタに収まる金額ならまぁ、忙しくてあまり見れない月とかあってもそれほど目くじら立てる出費でもないか、と思える。

 あとは、個人の感じ方である。広告が流れるのを「たとえ安くてもイヤ」と感じるか、それを我慢すれば安いのだし(TVだって民放はタダな分CM流すから慣れてるし)と割り切れるかである。



 東洋経済ONLINEの記事で、このNetflixの広告付きプランについて面白い視点から紹介していたものがある。

 素直すぎる人(良くも悪くも)なら、「こんな安いプラン(とはいえ画質はHDだし、安いから見れないコンテンツがあるわけでもなく不自由しない)を作っちゃったら、それまで高いプランに入ってた人もこっちでいいや、って移行して損をしないのかな?」という疑問をもつだろう。

 しかし。答えは簡単。



●この世界の会社が、損になることをするわけないだろう?

 むしろ、そうなる方が思惑通りなんだよ!

 実は、そっちのほうが儲かるのだ。



 考えてもみなさい。

 Netflixは損をする(損をしてまでお客のために安いプランを提供してくれるいい会社)と考える人に欠けている視点は『広告費』である。

 広告を出す会社は、Netflixにお金を払う。当然だ。

 ただ、安価な広告付きプランに大量の人が飛びつくとどうなる? 広告は、人に見られてこそ命。「これだけ大勢の会員がいて、見てもらえるわけですよ。こんなおいしいところに出せる広告費が、まさか安いなんて思ってないですよね?」と、会員数の膨大なのをエサに高い広告料をふっかけることができる。カネのないところなら呑めない要求でも、広告効果の大きさから「後々の利益が出費を大きく上回る」と考えあえて大金を払ってもいい、と考える大手企業は少なくないはずだ。

 それだけ、たくさんの人間が絶対に見ることが保証されている環境下に広告を投入できるということは魅力的なのだ。

 つまり、こういうからくりだ。安い広告付きプランに大勢が飛びつく → 視聴者から入るオカネは減る → その分、広告効果のためには多少の出費にも目をつぶれる金持ち企業が寄ってくる → 庶民ごときの入金の多寡より、こっちの入りのほうがいいので、安いプランへの乗り換えなど残念どころかむしろウェルカムなわけである。



●皆さんは気分が良くないだろうが、この世界では親兄弟や心通わせた友人以外の世界はすべて、ただの損得で動いている。

 あなたは安価(あるいは無料)で提供される社会のサービスに感謝するだろうが、すべて善意ではなく、それであちらは得をするからくれるのだ。ほぼ例外はない。



 皆さんがよく知っているところでは、NHK以外の民放は視聴がタダだ。でもそれは、CMがあるからだ。スポンサーがお金を払っているから成り立っている。決して完全なる善意の無料提供ではない。

 街や駅で、ティッシュを配っている人がいる。欲しい時にはありがたい存在だ。でもあれは善意などではない。むしろ儲けるためにやっている。無料のティッシュが利用される時、そこに印刷されているお店やサービスの名前を目にする。人の記憶にとどまれば、めぐりめぐって収入に繋がる。それを見越しての投資である。

 家で水道をひねればお金を取られるが、レジャー施設などへ行けば冷水器でタダで飲める。でも、それは本当の意味でのタダではない。ちゃんとすべてが回収できるよう、見えないところでの料金設定などに人知れず加算され、損をしないように計算されている。



 あなたという人間を尊重してくれる(愛してくれる)関係性以外では、どんなに世界が見た目に「厚意的」であっても、それはマクドナルドの「スマイル0円」。スマイルがタダというのは言い方のマジックで、それも含めすべて料金のうちなのだ。いくら0円でも、ハンバーガーを買わないやつにスマイルなどしない。試しに、何も買わずに「スマイルだけください」と何度も通い詰めてみなさい。どういうことになるか、社会勉強で。

 寂しいがそれくらいの認識でいたほうが、詐欺にも遭いにくいし、いちいち傷つかないし、かなりの部分世知辛い世の中にあって自分の身を守れる。他人を見たらすべて「相手は損得でしか動かない」と思え。



 悟りの視点から見た、資本主義(自由競争)社会の煮詰まりすぎたこの世界は上記のごとしである。どんなにご立派なことを並べ立ててもすべてただの「損得ゲーム」である。でも、こう言われてムッとする人がいるだろうことも承知している。仕事に誇りを持っていたり、その人なりに高い志を持っていたり、「損得だけじゃない」と憤慨する人もいるだろう。



●そういう人ほど分かっていない。

 あなたの持つ程度の誇りなど、ある特殊な状況下になればたちどころに消し飛ぶ。

 要は、安全圏にいるから美しいことが言えている。それだけなのに、その恵まれているだけのことに気付けていない。

 何か失うと痛いものを相手に握られてみ? 一瞬で誇りなど飛ぶから!



 人生地獄まで見たら、すべて「損得」だと悟ります。イエス・キリストのようなケースはレアケースです。橋本環奈みたく「千年に一人」レベルなんで、議論をする価値はほぼありません。あなたがそのレベルに値する確率も限りなく低い。

 でも、そのような冷めた見方をする筆者は、心の荒んだ、おさみしい人間だと思いますか?



●とんでもない! 考え方はそんなだが、毎日楽しい。幸せ。



 親兄弟や本当に深くかかわった人間でもないなら、すべて「テラさーん」と笑顔で寄ってきても損得で動いていると認識している。でもそれは、皆さんを見下しているんではなくて、どうやったって結局は「そういうもの」だと指摘しているだけだ。

 過ぎた期待は抱かないので、人気が出なかろうが何を言われようが問題ない。

 もしかしたら、親兄弟や配偶者だってある面「損得」でつながっている部分は少なからずある。そこまで厳密に考えた時、寂しさや虚しさを突き抜けて一種の「清々しさ」になる。そういう開けた境地に至る。

 ああ、そういうごったごたしたことも含め、社会が損得で動くことも含め、宇宙創世以来すべてが「縁起」という大いなる流れの中で「なるべくしてなる」のだなぁ、その中で絶妙なバランスで、私は今日も生かされて在る。

 感謝というものは、普通感謝できるような良いことがあるからそれに対してするものである。健康に感謝、平和に感謝、など。

 でも、筆者がする感謝は妙である。損得を軸に回っているこの世界が感謝。それはありがたいというより、そういうことも含めて自分が「在る」と認識できる世界で役割を演じられることそのものに対する感謝である。

 肉体人間という幻想に浸かれること自体への感謝とでも言おうか。



 こういう発信をしていると、色々な人が私のもとへ来ては去っていく。

 私を嫌う人。批判する人。最初は好意的に寄ってきたが、ある時豹変して一転嫌う側に立った人。その時々の損得を軸に動くのだから、当然だ。

 今は穏やかな、落ち着いた視点でその過ぎ去りし日々を見つめることができる。そしてこれからも、心の底では世の中とはこうしたものという「諦観」を持ちながらも、きっと死ぬまで楽しい日々だろう。

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