役に立っているうちはまだまだ

 ネット記事で、お寺の僧が発信している仏教系のお話をしているものがあったので、読んでみた。そこでは「無我」の境地の大切さについて語られていた。

 人間には、生きていると様々な「苦」が生じる。その苦はなぜ生じるかというと、人は自分という存在、言い換えたら常に変化せず主体的に存在するもの(我)があると勘違いしているからだ、と説く。そしてそれらに関連してくるモノや他人に関しても連動的にリアルなものと感知し、得をした損をしただのと執着してしまうのだと。

 ウソをひとつつくと、そのウソを維持するためにさらにウソの上塗りをしていくことになる、という教訓的な話があるでしょう。あれと同じで、原点において「我あり」としてしまうと、その我に関わるすべてのことが異様に力を持ち、様々な形であなたを縛ってくる。

 もちろん、その縛りが「あなたの生活がまぁトータルで言えば平和であり、幸せと言える範疇にある」場合は良い。タイヘンなのは、その縛りの中で生きることに疲れ果てた場合だ。三回金持ちになってお腹いっぱいになった杜子春みたく、疲れ果てて「生きるとは何だろう」「幸せとは何だろう」とか、人生うまく回ってる時には考えもしなかったことが頭に上ってくるようになったら、あなたは次の精神次元へと脱皮するモードに入ったということだ。



 無我とは、字のごとく「われがない」ということで、私たちが自意識というものを感じ「オレっているじゃん。あたりまえじゃん」というのすら真には存在はしてない、という境地である。これは、そこに到達しない者にどんなに言葉で説明してもちゃんと伝わることはない。

 もちろん、そんな状態で四六時中生きていたら、廃人だ。自分がいて、たとえ幻想だろうがその主体意識が思い考えることを元に行動しないと、社会生活が成立しない。だから、いくら悟ったお坊さんであろうが「無我の境地を知りながらもあえて我を利用する(従う)」という形になる。

 ここで重要なのは、本当に我を無くしてしまって「ワタシハダレデスカ?」とぼけることではなく、「我など本来はないんだ」ということを知っている、それに自覚的である(無理なく心のどこかでその静けさをキープできている)ことだ。



 そこまでの話ならいいのだが、問題はこの僧が読者に媚を売ったことだ。

 キリスト教や仏教の指導者がよくやる失敗だが、仏教内の真面目な話だけでは世間の人は食いつかない(楽しくないから読んでくれない)と考えてしまい、よかれと思って背伸びして、世のトレンド情報や人気芸能人の話などを盛り込んでしまう点だ。

 もちろん、それがうまくハマっておれば問題ない。言いたい仏教上の教えと、その具体例がドンピシャハマれば、乃木坂46の話題を出そうがジャニーズアイドルの話題を持ってこようが構わない。ただ問題は、言いたいことと例話がちょっと「はまりきっていない」場合だ。うまく例えられていない場合だ。

 無我の境地に関する記事を書いた僧は、もと報道ステーションのMCの古館伊知郎さんのインタビュー記事を引用し、彼が無我の教えについて『自己冷却装置』だと言ったことを紹介していた。



●これは、間違っている。



 筆者がまだ時系列的に「悟りの状態ではない」過去というものを思い出してみた時、なんとなくこう言いたい気持ちは分かる気がした。

 焦る自分、客観的に冷静にものごとが見れずカッカする自分。そんな時にこの教えに立ち返ることで、自分に冷水を浴びせかけることができる。落ち着きを取り戻すことができる——。

 むかし、「ミラクルワールド・ブッシュマン」という洋画があった。アフリカのカラハリ砂漠あたりに住まう原住民の村に、ある日空からコーラの瓶が落ちてくる。上空を飛行していたヘリコプターの操縦士のマナーが悪く、飲み終わった時に瓶を下界に投げたのだ。

 原住民の一人がそれを見つけ、村に持ち帰る。もともとコーラの瓶だという本当の「存在意義」は分からないままだが、口を角度付けて吹けば笛のような音が出て面白いし、叩けば脱穀にも使いやすいしで村人の間で「神様のくれた道具」として重宝する。だが、ひとつしかないので村人の間で取り合になり、ズルいだの時間だからよこせだのケンカになる、という描写があった。

 無我という境地に関して、そのものの意義や価値ではなく副作用としての「落ち着付ける」という結果的な得にあなたがフォーカスしているなら、あなたは無我を分かってはいないのだ。



●本当に無我を理解した者は、無我が結果としてもたらすいわゆる「アドバンテージ」のことなど、まったく眼中にない。人間が四六時中「自分は人間だ」と呪文のように考えているわけもない。なぜなら、まさに「それ自体」だからわざわざ考えなくていいから。あなたが「無我」なら、それ自体のことを別の表現で語らずともよい。ましてや、分かっていない大衆をそれをダシにたきつけようなんざゲスだ。



 よく、禅の境地とか瞑想とか、ビジネスとかに有利だから(成功しやすいメンタルをつくるため)に取り入れようとする向きがある。筆者は、禅や仏教をその程度でとらえるので構わないとその人が決めたんなら、べつに構わない。ただ、何かメインの世俗的目的(得をしたいこと)があって、そのための二の次の手段として禅をやる程度のくせに『禅が分かった』とか『真の無我の境地に行けた』とか間違っても勘違いするなよ、ということ。



●本来、仏教も禅も「それをまず第一に」目指すべきであり、それが礼儀である。

 でも、人が作り上げたこの世界では、社会生活上皆が皆そうできない状況にある。だからいいとこどりで自身の利益のために用いるのは仕方がないが、自分はその程度の利用なんだということには謙虚になるべきだ。自覚的であるべきだ。

 それを忘れたにわか瞑想者や日曜大工ならぬ日曜だけ信者が、たいそうな境地を見た! と厚顔無恥なことをSNSでアピールするのだ。



 無我 = 自己冷却装置 ではない。

 それは、ある人物が無我である状況で、他人がそれを外から見て「うわ、この人こんな状況でも落ち着いてあたふたせいへんやん。こら、自己冷却装置が働いてんねんな~」と思うに過ぎない。いわば、無我であることに付随する副産物であり、それは勝手な評価に過ぎず無我とは何の関係もない。

 その、関係のないものをあたかも無我の本当の性質を言い表したものと誤解させるような言い方は最悪だ。無我は人間にとっての冷却装置、とは「上澄みの得にばかり目が行った、あってはならない無我の説明」である。



 昨今、悟り系スピリチュアルの世界でも「悟ると幸せになる」的なことを思わせるような話が蔓延してて、ただ蔓延しているだけでなく人気がある始末。

 それは、子ども用プールの浅瀬でキャッキャやっている程度だから、根本が間違っていてもさほど害はない。でも、あつかましくも大人用プールで泳げているものと勘違いして「オレは悟ったぜ!」とか言い出したら、目も当てられない。

 自分の利益のために悟りや無我の境地を手に入れようとしていたら、未来永劫真のそれには至れないことを知っておいた方がいい。真に知った者は、たとえ事実としてメリット(得)と認知できやすい現象があったとしても、そんなもの考えの隅っこにすら出てこないし、ましてや他人に語る時に「こんなええことあるよ」みたいな言い方は絶対にしない。しないというかできない。

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