マーシャルアーツ

 筆者が、文章というものを一生扱っていきたい(できればそれで一生仕事がしたい)と思い始めてから、あるひとつの思いをずっと抱いてきた。

 もちろん賢者テラという名前で活動する以前からである。小説を書きたかったこともあり、スピリチュアルとはまだ関係がなかっただいぶ昔の時代でさえも、その思いはすでに胸の内にあった。



●文章を書く(あるいは話す)とは、マーシャルアーツだ。



 さて、誰しもどこかで聞くので何となくの意味は知ってる単語ではあるが、マーシャルアーツとは正確にはなんぞや。案外分かってないものである。



〇マーシャルアーツ(martial arts)は、日本語の「武芸」を英訳した言葉。 文字通り、「武の」(martial)「芸」(arts)のことを指す。 これが転じて、レスリング、ボクシングといった西洋文化に根を持つ術技体系以外の拳法、格闘技、つまり東洋の武術全般を指す言葉として用いられる。 ~wikipedia より引用~



 筆者がイメージするのは、特に中国のカンフーである。

 今の高齢者世代なら、ジャッキー・チェンやリー・リンチェイ(現ジェット・リー)、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウあたりをよく知っているだろう。子どもの頃、まだ動画配信もDVDもなかった頃、リアルタイムのテレビ放送にかじりついて胸を躍らせていた時期が(特に男の子なら)あったのではないか。

 今どきだと、ドニー・イェンやトニー・ジャーとかだろうか。後者などは中国ですらなくタイ映画(カンフーというよりムエタイ主体)であり、他にもインドネシア系の武術である「シラット」を扱ったものまで、実に幅広くなった。



 時代とともに武術(カンフー)映画というものはその内容も洗練され多岐にわたっていったが、大昔は水戸黄門のように判で押したような同じ話が多かった。



①主人公が子どもの頃、強いが悪い奴に親を殺される(たまにこの設定がない場合もある)

②主人公が最初は弱い(あるいは少々の心得はあるが、強いというほどでもない)

③強い武術の達人との出会いがある

④最初はいじめかと思うようなしごきがある。基礎体力がない時代こそ泣いて毎日を過ごすが、だんだん身に付くにつれてサマになってくる


※次の⑤・⑥がない場合もある


⑤ちょっと強くなってきたことを自覚した主人公が天狗になり、そのへんの悪い奴をやっつける。でもラスボスに手ひどい敗北を喫し、なんとか逃げのびる。

⑥まだ自分には何か足りない、と反省した主人公は、最後の奥義の習得に精を出す。

⑦今度こそ、親のかたきを取る。



 最初から話すのが上手だとか、文章がうまいなどということはない。

 武術という世界においては、現代社会において金持ちや権力者となる時のように「ズル」とか「他人を出し抜くテクニック」などという小手先のことは通用しない。持って生まれた体格や遺伝的素養を除けば単純に「体に刻み付けてきた鍛錬量」であり、惜しまず費やしてきた年月である。

 私はだいたい毎日のようにメッセージを上げているが、今の私があるのは50歳になる今まで積み上げてきた「書くという鍛錬」の賜物である。今、私は文章家としては達人の域にあると自負している。

 達人と言ったが、それは何も誰よりも文章がうまい(ほかがヘタ)という意味ではない。むしろ、重要なのはスピリットの部分である。文章を生み出す精神であり、ちょっと難解で意味深な言い方だと『在り方』においてのことである。



 西洋武術、たとえばレスリングやボクシングなどは、失礼な言い方になるが「相手に勝つ・負かすということを主眼にした武術」だと筆者は捉えている。一方の東洋武術は「結果的な勝敗はあるものの、最終的には内なる自分との戦い」。

 カンフー映画に出てくる「カンフーは強いがそれを利用して悪事を働くキャラ」は、真の武術の何たるかが分かっていないだけ。分かればそんなことはできない。

 だから仮面ライダーなどのヒーロー物とは違う。あれは「正義は勝つ。悪は負ける」という単純なものだが、カンフー映画の悪は「究極を極めていない。いくら強くてもその手前以上には行けず、強さはそこで頭打ちになる」という宿命を背負っているからだ。

 筆者は「正義だから勝つ」という浅いことは言わない。武術を極めた境地は善でも悪でもない、そういった区分けを越える状態だ。ただ結果的に世で言う「悪を成す確率がものすごく低い」という結果的現象があるだけなので、そこだけを見て究極の武術家は絶対に正義であり善であるという思い込みをもつのは愚かである。

 悟りというものもまた同じであり、浅い考えの人はそれさえ得れば心の内は愛や善だけになり、世の苦しみや葛藤からも自由になると勘違いをしている。



●そういうことから自由になるんではなく、そういうことから自由になりたい・ならねばならないと思う自分から自由になるだけだ。



 私は日々、文章を書きながら、自然に心の内側にマーシャルアーツ(カンフー映画のなかで『ハッ、ハッ』と言いながら戦っている場面)が思い出される。

 昔のジャッキー・チェンの映画なんか見てても「よくそれだけ体が動くな!」と感心するというか、見ていて惚れ惚れするではないか。私は、自分が書く文章や動画発信の中に、それを見たいと思って日々精進している。ビジュアルがイケメンでもないただの五十過ぎのオッサンなことだけは勘弁しておくれ。

 私の文章を読んだ人間から、時々ご意見というか反論・ご批判をいただくことがある。だが残念なことに、「ほう! これは一本取られたな」と思うものは過去に一度だけしかなかった。私は寂しいのだ。この私と組み手ができる者はいないかと。長く美しい組手ができないものかと。皆、文章もそれを生み出す心(経験や論理性)も私から見て鍛錬が足りない。



 たとえばだが、昔のカンフー映画においては「ラスボスに勝つラストシーンが本当の勝利ではない。実は、訓練の日々を経て最後納得のいく域に達した時。その時こそが真実の勝利の日なのである」。

 映画だから、ラスト迫力あるバトルシーンが要るから主人公にかたき討ちさせるだけで、真の武術家なら敵に勝てる技を身につけた時点で「内側で勝てばもう外側までこだわらないので、実際のかたき討ちに行かない可能性のほうが高い」ことが分かります?

 筆者は、アメブロでのコメント欄を閉じた。受け付けない設定にした。(カクヨムではそんなことできないので放ってあるが、来ても大して気に留めていない)

 それはなぜか? 一般人の発想では「アンチの対応が面倒でイヤ・受け付けないと楽だから楽なほうに逃げた」とか思うんだろう。でも実は違う。

 コメントを受け付けるということは、伸びしろのある人間がやることだ。まだ上へ延びる余地があるからこそ、他人の指摘に謙虚になり生かし、成長するために人の意見を聞くのだ。私にはもうそれが要らない。なぜかって言われても、私しか分からない。どういう境地かを伝えるのは困難である。特にこんな相手の顔も反応も見えない媒体ではね!

 戦いの達人は、極まると戦わなくなる。戦う必要を感じなくなる。

 内側において戦いが止んだのが、真の達人。転じて悟りとは、一切の問いが止む(内なる自問自答・つまり自分との戦いがもう消えた)状態のこと。だから日々の私の記事は、無心からムリなく生じる、意図して繰り出さないからこそ効果のある攻撃(発信)となっている。ヘンな話だが、私の内側では世に訴えたいことなど何もないのに、キーボードに指を這わしているうちにメッセージが何かしら出来あがってしまうので、ここではそれを発表しているのだ。

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